徒然なるまゝによしなしごとを書きつくる

旧タイトル めざせ、ブータン

切り札としての人権

2012年05月24日 | 法律

 人権はときに他の人権との葛藤を起こす、特に公共の福祉という名目と...  

 それを正しく解釈し乗り越えて行く為に、この新しい「切り札としての人権」という概念が提唱されている

 

平成1 5 年6 月

衆議院憲法調査会事務局より

基本的人権の根拠をオーソドックスな学説のように、「人間固有の尊厳」に求め、それは結局、社会全体の利益に還元され、そのことから「公共の福祉」による制約を認めるのであれば(一元的内在制約説)、公共の福祉とは独立に、人権とは何かを考える意味はほとんどなくなる(結局、すべての人権が「公共の福祉」に還元されてしまうことになる。)。そこで、人権とは何かについての意義に関し、「公共の福祉」に還元することができない人権を見い出すために、「切り札としての人権」が提唱されている。長谷部恭男は、これを次のように説明する。

「(1)個人の自律 公共の福祉に還元されえない人権 もし人権保障の根拠が、通説の主張するように、結局は社会全体の利益に還元されてしまうのであれば、公共の福祉とは独立に、人権とは何かを考える意味はほとんどない。自らの人生の価値が、社会公共の利益と完全に融合し、同一化している例外的な人を除いて、多くの人にとって、人生の意味は、各自がそれぞれの人生を自ら構想し、選択し、それを自ら生きることによってはじめて与えられる。その場合、公共の福祉には還元されえない部分を、憲法による権利保障に見る必要がある。少なくとも、一定の事項については、たとえ公共の福祉に反する場合においても、個人に自律的な決定権を人権の行使として保障すべきである。いいかえれば、人権に、公共の福祉という根拠に基づく国家の権威要求をくつがえす「切り札」としての意義を認めるべきである。……

(2)人格の平等と「切り札」としての権利 個人の根源的平等性 「切り札」として働く権利であるためには、いかなる個人であっても、もしその人が自律的に生きようとするのであれば、多数者の意思に抗してでも保障してほしいと思うであろうような、そうした権利でなければならない。そのような権利の核心にあるのは、個人の人格の根源的な平等性であろう。他人の権利や利益を侵害しているからという「結果」に着目した理由ではなく、自分の選択した生き方や考え方が根本的に誤っているからという理由に基づいて否定され、干渉されるとき、そうした権利が侵害されているといいうる。この種の制約は、その人を他の個人と同等の、自分の選択に基づいて否定され、干渉されるとき、そうした権利が侵害されているといいうる。この種の制約は、その人を他の個人と同等の、自分の選択に基づいて自分の人生を理性的に構想し、行動しうる人間として見なしていないことを意味する。……

 少数者にとって意味のある権利 このように、個人の自律に基づく「切り札」としての権利は、個々人の具体的な行動の自由を直接に保障するよりはむしろ、特定の理由に基づいて政府が行動すること自体を禁止するものと考えられる。このような意味での「切り札」としての権利は、あらゆる問題について社会の大勢に順応して生きようとする人にとって、また現に社会の多数派と同じ考えを持っている人にとってはさして価値のない権利であろう。それは、少数者にとってのみ意味のある権利である。 民主政の前提 また、今述べたような意味での個人の根源的な平等性は、憲法の定める民主的政治過程の根本にあるはずの原理である。あらゆる個人を自律的かつ理性的にその人生を選択できる存在だとする前提があってこそ、理性的な討議と民主的決定を通じて、社会全体の公益を発見しようとする考え方が生まれる。また、この同じ前提は、そもそも個人を単なる強制や威嚇や操作の対象としてではなく、理性的な対話の相手として考えるための必須の条件でもある。多数決による決定だからという理由で、この個人の自律的な決定権を否定するならば、民主政治の前提自体が掘り崩されることになる。

(3)「切り札」としての人権と公共の福祉に基づく権利 2 種類の憲法上の権利 「人権」ということばは、さまざまな意味で用いられ、現在では、憲法上保障された権利をすべて人権という用法が一般的である。しかし、個人が生来、国家成立前の自然状態においても享有していたはずの権利という、人権本来の意義に即していえば、個人の自律を根拠とする「切り札」としての権利のみを人権と呼ぶのがより適切である。……」

(長谷部恭男『憲法』第2 版 120-121 頁)