☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

神を内に自覚する時、力が湧き出(い)でる

2015-03-01 21:50:56 | 今日の光明法語


神は 常に吾と ‘ とも ’ にあるのである。

いつでも吾々がそれを自覚する時、

神の力が湧き出て来るのである。


求めよ さらば与えられん。たずねよ さらば見出(いだ)さん。

叩(たた)けよ さらば開かれんと教えられているのも、そのためであるのである。


神は一見不幸と見えるものから幸福を引き出し給(たま)う力である。


冬枯れの荒涼たる山野から 燃えるように色鮮かな緑を萌(も)え出だし

美しき赤や紫の花を咲かし給う力があるのである。


その如(ごと)く 悲しみを喜びに変え、不幸を幸福に変え、

貧しさを豊かに変貌(へんぼう)し給うのが神である。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 六日の法語  谷 口 雅 春 先 生 





法則も智慧も神から来る

2015-03-01 21:47:02 | 今日の光明法語


法則を駆使する所の力は 吾々の智慧から出て来るのである。

その智慧は 神から出て来るのである。


神は 自分自身を 「 法則 」 という受動的なものとして 吾々に提供せられるとともに

それを支配する所の智慧として吾々に宿って来ておられるのである。


法則と智慧とは 本来 「 神 」 に於(お)いて一体であるが故に、

智慧は 法則を理解することができるのである。


だから心をすまして静かに神の声をきけば 智慧が自(おのず)から湧(わ)き出て来、

法則を利用してどんな立派な発明でもできるのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 五日の法語  谷 口 雅 春 先 生 




物質は法則の現われ

2015-03-01 21:43:41 | 今日の光明法語


法則は材料であり、人間が創造者である。


だからどんな物質でも、それ自身は法則の現われであって、

毒になるとか薬になるとかというような自性(じしょう)はないのである。


砒素(ひそ)といえども それは必ずしも毒薬ではないのである。

それはその使いようによっては強壮剤ともなるし、害虫の駆除剤ともなるのである。


物質は自分自身で 「 自分は毒薬だ 」 と自分自身の本性(ほんせい)をきめることはできない。

人間がそれを毒薬にもし、強壮剤にもするのである。


だから物質には自性はなく、人間が主動者であるのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 四日の法語  谷 口 雅 春 先 生 





法則は受動者であり人間が主動者である

2015-03-01 21:38:41 | 今日の光明法語


人間は自然界の法則を駆使して事物を創造する。


法則は 神の 「 受動的現われ 」 であり、

人間は 神の 「 能動的な現われ 」 である。


人間は主動者となって法則を支配して

一切の事物を自己の欲するままに創造することができる。


法則を支配するということは、

法則を無視するということではないのである。


法則の本性を活(い)かしながら

その法則によって自分の欲する事物を創(つく)り上げる。


人間は彫塑家であり、

法則は 粘土のようなものである。


彫塑家は 粘土の本性をそのまま利用しながら

自分の欲する肖像を造り上げるのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 三日の法語  谷 口 雅 春 先 生 




人間は神の意識的顕現

2015-03-01 21:35:23 | 今日の光明法語


神は創造の力である。

常に間断なく一切のものを創造し給うていられるのである。


大規模な、大まかな大自然的現象は、自然界の法則によって神はそれを造り給うのであるが、

こまかい行きとどいた秩序的な方面は、人間を通して神の創造力が働き給うのである。


だから人間は神の創造力の最も精巧なる現れであり、神の最高顕現として、

また意識的顕現として一切の現象を支配する力を与えられているのである。


神だけでも宇宙の創造は完成しないのであって、

神と人間と相よって宇宙の創造は完成するのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 二日の法語  谷 口 雅 春 先 生 




神は到(いた)る処(ところ)に在(いま)す

2015-03-01 21:28:57 | 今日の光明法語


神は到る処にみちみちていられるのである。

神は無限の愛であり 無限の智慧であり 無限の生命であり、

常に吾らをその無限の愛をもって護(まも)っていられるのである。


だから、神の無限の智慧と無限の力とは

いつでも自由に自分が利用する事ができるのである。


神は法則であり法則は到る処にみちみちているのであって、

吾々が食事をする時にも、空気を吸う時にも、仕事をする時にも、

常に神は吾々の生活に利用される形で い給うのである。

法則は吾々の内にあり、又同時に外にあって、

内の智慧なる法則を知る事ができるのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号  一日の法語  谷 口 雅 春 先 生