心の種子(たね)は 蒔(ま)いた時 既に発芽しつつある 2015-03-15 14:23:30 | 今日の光明法語 吾々の祈りは、それが真に自分の求むる魂の叫びであるならば必ず聴かれるのである。 その祈りが尚(なお)きかれないからといって失望してはならないのである。 種は土の中に蒔かれた時 すぐには発芽しないでも、 もうその種の中には発芽すべき化学変化が行われつつあるのである。 実際に目に見える変化の前に、目に見えない変化が行われるのである。 だから心静かに信じて待って 信念を失わないことが必要である。 『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 二十二日の法語 谷 口 雅 春 先 生
肉体の死は 「 滅ぶべきもの 」 からの脱却である 2015-03-15 14:09:04 | 今日の光明法語 病気の真っただ中にいても 健康なる自分を見出(みいだ)すのが智慧(ちえ)である。 不幸の真只中(まっただなか)にいても 幸福を見出すのが智慧である。 釈迦(しゃか)は 涅槃(ねはん)に入る時、 自分は永遠に死なないものであるといったのである。 彼は 肉体の死の中に 永遠の生命をみたのである。 肉体の死は ある意味から云(い)えば 「 死すべきもの 」 からの脱却であるということができるのである。 だから肉体の死は 永遠の生命と密接につながっているものである。 肉体の死とともに 人間は 「 滅ぶべきもの 」 から解き放たれるのである。 『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 二十一日の法語 谷 口 雅 春 先 生
周囲の光景は自分の心の影 2015-03-15 13:49:52 | 今日の光明法語 周囲が自分に対して けわしいのは 自分の心の中に けわしいものがあるからである。 周囲が自分に対して荒っぽくあたって来るのは 自分自身の心の中に荒っぽいものがあるからである。 吾々は 自分が幸福になろうと思ったならば、自分の心が輝いて、どんな人に対してでも、 その人の内に宿っている 「 神性 」 又は 「 仏性 」 をみなければならないのである。 立ち向う人は 心の影として現われるのであるから、 吾々は彼の姿をみて、彼の本当の自分を見出すことができないのである。 吾々は、谷に対して叫ぶが如(ごと)く ただ自分の言葉の反響を聞いて それを相手だと思うにすぎないのである。 自分の口より出(い)ずる言葉が やさしければ 相手から出る言葉も やさしいのである。 『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 二十日の法語 谷 口 雅 春 先 生
自分の心が変れば周囲が変る 2015-03-15 00:18:52 | 今日の光明法語 真の人間は 肉体ではないのである。 自分自身は 「 生命 」 である。 「 生命 」 が動いて 「 心 」 となって現われ 「 心 」 が動いて 肉体となって現われるのである。 されば如何に生命を動かすか、如何に心が動くかということが 大切な問題であるのである。 自分の心の通りの世界が現われるのである。 自分の心が不幸であれば自分は不幸であり、 自分の心が幸福であれば、自分は幸福であるのである。 吾々は 自分の運命を変化するために 他人の心を変えなければならぬことはないのである。 自分自身の心が変れば 周囲が自から変るのである。 『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 十九日の法語 谷 口 雅 春 先 生