☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

神から来る赤信号

2015-03-17 21:09:22 | 今日の光明法語

もし何かの不調和が外界に現われて来たならば、

それは 何か 自分の心か、言葉か、行いかが神から はなれたものであったからであるのである。


それは神から与えられた 「 一種のストップ信号 」 であるのである。

自動車が十字街を横切ろうとした時、ストップ信号に出あえばその車をとめるように、

吾々の環境に面白からぬことがでて来た場合には、それをストップ信号と思って

今迄(まで)の生活の惰力をやめ、考え方を変え、言葉を変え、生活の動きを

変えるようにしなければならない。


その時、自動車の運転手が 静かに左右を見廻(まわ)すように、

静かに坐して神の声をきかねばならぬ。


どんな困難でも心が静かになる時、解決の方法が見つかるのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 二十六日の法語  谷 口 雅 春 先 生 





我は 到(いた)る処(ところ)に唯(ただ)善のみを見る

2015-03-16 21:07:43 | 今日の光明法語

凡(あら)ゆるものの中に 神がみちみちていられるのであるから、

吾々は 神から逃げだすことはできないのである。

神は善であるから 吾々は善から逃げだす事はできないのである。


されば 心の眼(め)を開いて見れば 吾は到る処に唯 善のみをみるのである。

神は自分の智慧であるが故に、吾は到る処に神の導きを見るのである。


静かに坐(ざ)して考うる時 吾は神の声をきくのである。

神は吾が内に宿って い給うのである。

吾は神の愛を吾がうちに感じ 神を吾が内に抱き 神から又抱かれているのである。

神の愛は決して私を裏切るということはないのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 二十五日の法語  谷 口 雅 春 先 生 




すべての人々を礼し敬せよ

2015-03-16 20:44:29 | 今日の光明法語

吾々は 自分自身を神の子だと認めるだけでは足りないのである。

すべての人々を神の子であると信じて、礼し敬しなければならないのである。


神を見るということは、瞑目(めいもく)、精神統一中に ある幻を見ることではないのである。

すべての人々の中に 神の姿を見なければならないのである。


自分の身辺にいるすべての人々を、観世音菩薩(ぼさつ)の示現であると見、

イエス・キリストの再臨であると見るのである。


他(ほか)の人を敬する者のみが敬せられ、

他(た)の人を礼する者のみが礼されるのである。


与えるものが与えられ、奪うものが奪われ、

拝むものが 拝まれて仏である。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 二十四日の法語  谷 口 雅 春 先 生 





不完全な姿は 本来ない

2015-03-16 20:18:05 | 今日の光明法語

吾れは 吾が願いを 神の愛の み手の中に委(ゆだ)ねるのである。

神の愛は 吾が希望の種子を保護し、あたため、ふくらませて下さるのである。


神の智慧は 何時(いつ)形の世界に その希望が芽をふくのが適当であるかを

知り給(たま)うのである。

神は 常に吾を護(まも)って導いて い給うのである。

吾は 神より その時 その場に 適当な智慧を与えられるのである。


現象に尚 不完全なことが現われて見える時にも、

不完全な姿は 本来ないのであって、

神の善が現われて出ようとする前兆にすぎないのである。

破水するのは出産の前徴である。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 二十三日の法語  谷 口 雅 春 先 生 








心の種子(たね)は 蒔(ま)いた時 既に発芽しつつある

2015-03-15 14:23:30 | 今日の光明法語

吾々の祈りは、それが真に自分の求むる魂の叫びであるならば必ず聴かれるのである。

その祈りが尚(なお)きかれないからといって失望してはならないのである。


種は土の中に蒔かれた時 すぐには発芽しないでも、

もうその種の中には発芽すべき化学変化が行われつつあるのである。


実際に目に見える変化の前に、目に見えない変化が行われるのである。

だから心静かに信じて待って 信念を失わないことが必要である。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 二十二日の法語  谷 口 雅 春 先 生 




 肉体の死は 「 滅ぶべきもの 」 からの脱却である

2015-03-15 14:09:04 | 今日の光明法語

病気の真っただ中にいても 健康なる自分を見出(みいだ)すのが智慧(ちえ)である。

不幸の真只中(まっただなか)にいても 幸福を見出すのが智慧である。


釈迦(しゃか)は 涅槃(ねはん)に入る時、

自分は永遠に死なないものであるといったのである。

彼は 肉体の死の中に 永遠の生命をみたのである。


肉体の死は ある意味から云(い)えば

「 死すべきもの 」 からの脱却であるということができるのである。


だから肉体の死は 永遠の生命と密接につながっているものである。

肉体の死とともに 人間は 「 滅ぶべきもの 」 から解き放たれるのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 二十一日の法語  谷 口 雅 春 先 生 



周囲の光景は自分の心の影

2015-03-15 13:49:52 | 今日の光明法語

周囲が自分に対して けわしいのは

自分の心の中に けわしいものがあるからである。


周囲が自分に対して荒っぽくあたって来るのは

自分自身の心の中に荒っぽいものがあるからである。


吾々は 自分が幸福になろうと思ったならば、自分の心が輝いて、どんな人に対してでも、

その人の内に宿っている 「 神性 」 又は 「 仏性 」 をみなければならないのである。


立ち向う人は 心の影として現われるのであるから、

吾々は彼の姿をみて、彼の本当の自分を見出すことができないのである。


吾々は、谷に対して叫ぶが如(ごと)く ただ自分の言葉の反響を聞いて

それを相手だと思うにすぎないのである。


自分の口より出(い)ずる言葉が やさしければ

相手から出る言葉も やさしいのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 二十日の法語  谷 口 雅 春 先 生 




自分の心が変れば周囲が変る

2015-03-15 00:18:52 | 今日の光明法語

真の人間は 肉体ではないのである。

自分自身は 「 生命 」 である。


「 生命 」 が動いて 「 心 」 となって現われ

「 心 」 が動いて 肉体となって現われるのである。


されば如何に生命を動かすか、如何に心が動くかということが

大切な問題であるのである。


自分の心の通りの世界が現われるのである。

自分の心が不幸であれば自分は不幸であり、

自分の心が幸福であれば、自分は幸福であるのである。


吾々は 自分の運命を変化するために

他人の心を変えなければならぬことはないのである。

自分自身の心が変れば 周囲が自から変るのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 十九日の法語  谷 口 雅 春 先 生 




神を生きる自分

2015-03-10 22:38:54 | 今日の光明法語

吾が生活は 神の生活である。

吾が身は 神の身である。


吾が全身の細胞は 頭の先から足の爪先(つまさき)に到(いた)る迄(まで)、

神の霊にみたされているのである。


それ故に永遠に新生し、永遠に復活し、常に若く、常に愉快に、

常に健かなる力が みちみちているのである。


神の癒す力が 我が全身に みちみちているが故に、

自分の全身の如何(いか)なる部分も老いるということはないのである。


神の癒す力は 自分の中に宿ってい給うが故に わが話す言葉は人々の病を癒し、

人々の運命を幸福にする力が宿っているのである。


常に神は わが血液とともに全身をめぐる。

わが全身は常に健やかであるのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 十八日の法語  谷 口 雅 春 先 生 




自己に光を点(とも)すには

2015-03-08 20:38:22 | 今日の光明法語


キリストは 「 吾は 世の光 として 来れり 」 といっていられるのである。

自己の中にキリストを見出(みいだ)す時、

そこには何らの悲しみの影も 憂鬱(ゆううつ)の影も あり得ないのである。


神の光を受けるには、 「 与えるものは 与えらる 」 の法則に従って、

自分自らが 他の人に光明を与えるものとならなければならないのである。


まず 喜びの微笑(ほほえみ)を与えよ。人に慰めを与えよ。

人々に希望を与えよ。深切を与えよ。

そこからあなたの魂の明るさが生まれて来るのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 十七日の法語  谷 口 雅 春 先 生 






神は 光である

2015-03-08 20:20:41 | 今日の光明法語


神は光である。どこにも暗(やみ)はないのである。

困難な問題に直面した時には、常に

「 神は光である。あなたの光をもって吾を導き給え 」 と念ずるようにすることは

自分の内に宿っている神の智慧を目覚めしめるに 非常に効果ある方法である。


もしあなたが神の智慧の方へ振り向くならば 一瞬の中(うち)に、

神から射(さ)してくる光は 事件の全体を照して、

直ちに その事件を光明化してしまうことができる。


恐怖は暗黒である。

恐怖心をすてなければ 本当に光をみることはできない。

恐怖心がおこるのは まだ本当に神を信じないからである。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 十六日の法語  谷 口 雅 春 先 生 





そのままの心が神に一致する

2015-03-06 22:00:15 | 今日の光明法語


心が型に捉(とら)われず、偏らず、かたくなにならず、すなおに、

そのままに、のんびりとなっている時に 神の智慧と本当に一致するのである。


湯川秀樹博士が中間子理論を思いついたのも 夕食後 何ら型にとらわれず、

そのままの気持で、のんびりと自由にしていた時に よき考えが思い浮んで来たのである。


力む事は 神の波長に対して不導体になるのである。

そのままが最も善いのである。

道元禅師の身心脱落、脱落身心の境涯である。


「 我 」 という力みが すっかりなくなってしまった時、

宇宙全体の智慧の波と波長が合うのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 十五日の法語  谷 口 雅 春 先 生 





 他(ほか)から妨げられるのも神の導きである

2015-03-06 21:44:44 | 今日の光明法語


神の智慧に頼るものは、自分の動きが たとい他から妨げられることがあっても、

それに対して不平をおこす事はないのである。


汽車にのり遅れても、あの汽車にのれなかったので何か不測の災に

出くわす事を避けることができたのだと感謝するのである。


自分にとって適当でないものが自(おのず)から妨げられて行く所に

本当の神の導きがあるのである。


自分のする事 何でも彼(か)でもやりとげねば 神の子らしくないと思うのは

「 我 」 の考えにすぎない。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 十四日の法語  谷 口 雅 春 先 生 







目が覚めると先(ま)ず神を思い起せ

2015-03-04 20:31:07 | 今日の光明法語

毎朝 目が覚めたら まず神を思いおこすべきである。

然(しか)らば 神も亦 あなたを思い起し給(たま)うであろう。


否、寝ている間も 神は吾(われ)らを導き給うていたのであるが、

今や吾らは意識的に神に波長を合わせるのである。


静かに坐(ざ)して感謝の言葉を念じ、神想観をして

「 神の完全なる智慧(ちえ) 吾を導き給う 」 と念ずるのである。


こうして一日の最初を神の智慧に波長を合わして出発する時は、

神は内から 「 自然のよき考え 」 となって導き給い、

外から人々の自然の動きとなって もっとも適当なものを成就せしめ給い、

また、不適当なものを妨げる働きとなって出て来るのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 十三日の法語  谷 口 雅 春 先 生 





神は一羽の雀(すずめ)も見戍(まも)りたまう

2015-03-04 20:02:31 | 今日の光明法語

「 吾々の髪の毛の一本一本だに神によって見逃されるということはないのである。

一羽の雀も 神の赦(ゆる)しなくしては 地におちない 」 とキリストは教えているのである。


愛する者が失敗しようとしているのを嘆くことは いらぬのである。

その人は失敗するようにみえていても 神が導いて訓練していられるのである。


神は決して その人から目を放ち給うことはないのである。

あなたの智慧の導きよりも 神の導きは もっと正しく彼を導くのである。


神に祈れ。 「 彼をあなたの完全なる智慧によって導き給え 」 と。



『 生長の家 』 昭和二十五年三月号 十二日の法語  谷 口 雅 春 先 生