~聴覚障害6級~

話せる。歌える。
聞こえているけど聞き取りにくい。
感音性難聴者が適当に呟きます。

習い事(追記あり←青字にて)

2010年09月23日 | 雑記
35才~40才まで、娘が習うクラシックバレエ教室でバレエを習っていました。

大人になってからの習い事のひとつでした。


娘は、6才~12才まで習っていたので、
娘がバレエを辞めてからも、私のみで少し続けていました。

憧れの習い事でしたから、本当に楽しかったし、
先生も尊敬できる人だったので、今も復帰したい思いは少しだけあります。


ママさんクラス、つまり初心者コースだったので、
本当に手取り足取り1から教えて頂き、
2年後にはトゥシューズを履いてのレッスンも受けられるようになりました。


ずっと続けていたかったんですが、レッスンレベルが上がると同時に、
耳から入るレッスン内容に限界を感じていました。



レッスンをしながら、バレエ用語を含め指導の言葉が耳に入ってこない。(聞き取れない)

紙に書いて頂いて覚えたバレエ用語とその振り付けやポーズ。

頭では(専門用語を)覚えていても、
今言われたバレエ用語を瞬時に踊れるようにするレッスンもあり、
どうしてもわからない。(聞き取れない)

ゆえに、どうしてもできない。


目で覚えた振り付けなら覚えることはできても、
言われた言葉で(耳で)動きを作ることが、どうしてもできない。(聞き取れていないから)


あの頃の私は、聴力が悪いことを認識し、周りに告知していても、
言葉の鮮明度が悪いことを、自分自身も理解できなかったので、
言葉によるレッスン内容がわからない(聞き取れていない)ことを、うまく説明できませんでした。


楽しい習い事も、
耳からのレッスン内容がわからない(聞き取れない)、そして上達しないことに、
コンプレックスを感じていまいました。

年に1度の発表会の振り付け練習の際も、
音への反応と動きが合わず、立ち位置を変えられたこともありました。



身体を動かす習い事をしたくても、
いつも言葉による指示や指導が理解できません(聞き取れません)

インストラクターや先生や講師が何を言っているのかわからない。
ゆえに指示通りに動けない。
指導してもらってるのに、理解できないから上達しない。



私の住む街はテニスが盛んで、74才のうちの父も週4回はテニスをしています。

テニススクールのレッスンを、時々、通りすがりに見学しますが、
コートの向こう側からコーチが指導や指示をしているのを見て、
あ~、私には無理だなと、すでに先入観。

ただテニスをするだけならできるかもしれないけれど、
人との交流の中で、スポーツをするのは難しい。

スポーツをしながらのコミュニケーションができない。


それを考えたら、スイミングも、エアロビも、
サッカーも、野球も、その他、団体スポーツなど、ほぼ難しいんだなぁと。

ただやるだけならできる。
でも、スポーツはそういうものではないからね。



そう思うと、団体に入らずとも、1人で自由にできるウォーキングやジョギングって、
素晴らしいスポーツかもしれません。

団体になったり、指導して下さる人がいる場合、
走っている時に何か言われても、ほぼ理解は無理ですけどね。



こういう障害なので、手話を習うことでさえ、勇気がいります。

言葉で手話を習うわけですから、結局、聞き取れないことで、
耳から入る学習が劣ることがわかっているからです。

聞き取りの悪い人達のために、
タイムリーな字幕や筆記付きの手話教室なんかがあれば参加してみたいけれど、
そんな都合の良い教室は、身近にはないですね。

聴こえる聴覚障害って、本当に社会では蚊帳の外なんだな。




話しは戻して。



この秋、ちょっとしたスポーツをしています。

ほんとにちょっとした。

アスリートではなく、ボランティアとしての参加で、
ある団体に所属し、先日、初回の練習に参加してきました。

月に2回程度なので、無理なく。


次は、コーチクリニックに参加します。

聴覚障害だと言うことにも(どんな障害を持っていても)理解がある団体なので、
何とかコンプレックスを感じなくて済むかな。


このお話しは、もうちょっと経験をしてから、またいずれ。





余談ですが、私の習っていたクラシックバレエ教室の先生の、
3人の息子さんのうち1人は、熊谷哲也さんのカンパニー所属です。

当時は教室で一緒に習っていましたし、
近所に住んでいるので、たまに見掛けるけれど、
かっこいいです。

現在、25才かな。

今後の活躍を楽しみにしている、彼の隠れファンの1人であります。


と、思っていたら、25才の彼は、今年の6月にKカンパニーを退団していたそうです。
約3年間、頑張りました。

今は、フリーのバレエダンサーとして、色々な場所で公演などで活躍しているもよう。

一応、彼のスケジュールは、私の習っていたバレエ教室で管理していました。

彼の公演を見た人達の感想を読んだけど、本当にかっこいいっ、
と言う人が多数。

ちらほらファンがいますからね。
本当にかっこいいです。

でも、私は彼がちっこい小学生の頃から知ってるので、
かっこ良く成長した彼を、近所で見掛けると、何だかちょっとドキドキです。

あは。

携帯電話

2010年09月11日 | 雑記
先月、携帯電話の機種変更をしました。

私が携帯電話を初めて持ったのは、16~17年前。

今回の携帯は、6台目となります。


1台目から経緯は、ココで、だらだら書いてみました。



そこに書いていないことがひとつ。


身体障害手帳を掲示したら、ちょちょいのちょいで手続きして頂き、
今後、基本料はずっと無料となりました。

私は何もしてないし、←サインや捺印さえしてない。
手帳のコピーも取らなかった。←と思う。


年単位で考えると、かなりの支援になります。
感謝です。


手続き中の店長さんとのカウンターでのやり取りは、
ちょっと聞き取りづらいこともあったけれど、まぁ、何とか出来た方かな。





今さらかもしれませんが、携帯電話でできるかもしれないことに、ツィッターが。


この記事によれば、イベント会場などで、
ツィッターで、聴覚障害者に要約筆記を瞬時に発信とのこと。


つまり、携帯電話をオンにして常にツィッターに接続し、
イベントに参加しながら、画面を見ると言う仕組みってことですよね。


携帯電話が使える野球場や野外などの会場じゃないとできませんよねぇ。


映画館や舞台、ホールなどの屋内でのコンサート会場では、
ちょっと使用が難しい。

と言うか、不可能。


そういう場は、携帯の電源を切るのが常識だし、
電源を切らないとしても、使用は禁止。

場内、暗転するので、携帯の画面をチラチラ見せたりする人が近くにいると、
舞台や映画に集中できません。

それに、ホールによっては、
上演(公演)中は電波が入らないようなシステムになっていることも多い。

また、元々、客席を圏外に設定されている会場もある。



でも、小さなことでも、色々と考案して下さる方々がいらっしゃる。

自分的に、利用はできなくても、感謝しています。

続・代弁

2010年09月05日 | インターネット上のこと
引き続き、老舗サイトの掲示板で、見つけた書き込みで、
私の気持ちを代弁して下さっているかのような文章を紹介します。

かなり前に読んだものですが、共感したのでコピーしておいたものです。


勿論、多少、手を加えます。



以下、私の言いたいこと全てです。






子どものころからの感音性難聴ですが、
高音以外は何とかなって長くごまかしごまかししてきました。


難聴って、聞き取りづらいという弊害よりも、
それを思い悩んで、びくびくしたりごまかそうとすることで、変なパワーを使っている。


聞こえづらさやコミュニケーションの取りづらさよりも、
それにコンプレックスを感じて、挙動不審になる、
抑うつ症状になる、自分の不幸不利益にばかり注目する、
耳を恨む、より耳に注目する。

結果、
他人に心を開かない、話しかけにくい人になってしまいがちなのでは、と。


話しかけられてわからない、ということよりも、
話しかけたくない人、になりがちではないか。


そこを何とか改善したほうが、難聴の人の人生を良くするには効果的ではないかと。

もちろん聞き取りづらさをフォローする働きかけや、
グッズは欠くべからざる重要なのですが。


自分の難聴に浸らず、耳以外の自分を、のびのびさせて高めて、人に示す。

明るく、他人の話を聞くこと。

聞こえのことではなく、気持ちの寄り添うこと、愚痴や悩みを受け取ること。

基本的に、こぎれいな格好をしてさわやかに対応すること。


そんなことの方が、聞き取りを少し良くするための必死の努力よりも、
よほど効果的なのではないかと。


難聴が、うつを併発しやすいのは、
上記のような悪状況になりやすいからかと、分析したわけです。


難聴以外の自分を大事にしていきましょう。










「聞こえてるんだから障害者じゃない」と小さい頃から言われ続けてきました。


悩んできたそれまでの自己を捨て、
自分は障害とどのように向き合って、新しい自己を形成していくか、
ということを考えているところです。


その手段の一つとして、手話・要約筆記通訳は欠かせませんが、
もう一つ大切なことは難聴の健全なコミュニティ・モデルが、
公的社会の中で存在することではないかと思います。

ろう社会があるように、難聴にも必要だと思います。







聴こえる聴覚障害と聾の方は、
一般的には、聴覚障害と言う同じ括りと思いがちですが、
世界(社会)が全く違うと私も思っています。


聾の方は、子ども時代は県や市から充分な手当て金があり、
20才からは年金が貰え、障害者枠で就職も決まりやすい。

年金は、普通の人が40年払って貰える基礎よりも、高額です。


そして、聾社会と言うものがあり、社会的にも認められていると言うか、
変な話し、聴こえる聴覚障害より地位が高いし、立場も上でしょう。
←ただの例えです。


聴こえる聴覚障害も障害手帳が取得できれば障害枠での就職は可能ですが、
企業側からすると、助成金が多く入るのは聾の方なので、
聾を採用する確率が高い。

聴こえる聴覚障害者は、年金は貰えません。

判定や審査により年金を貰える聴力だとしても、聾の方より金額はかなり少ない。


何より、障害手帳を取得できないギリギリの聴力だと、
健聴者と同じ扱いとなり、社会で挫折が多くなります。


つまり、年金を充分に貰え、就職先もあり、
必要ならば手話通訳などを常につけて貰える聾の方と、
年金もなく、就職も難しく、手話を習得していない聴こえる聴覚障害者では、
やはり社会が全く違うと思います。


私達、難聴者だって、幸せに穏やかに生きる権利があるし、
働くことだって諦めたくないと思ってます。

そのためには、聴こえる聴覚障害の「社会」を作ることも、
今後、必要なのかもしれません。


どうしたら良いものかは全くわかりませんが。


聴こえる聴覚障害の息子を持つ大沢氏が、
何か動いてくれないかと期待しているところですが、
彼のブログを読むと、それはちょっと無理かなぁと(笑)。

ただ、彼の息子くんを紹介しているメディアが、今も細々とあることは強み。

息子くんが、もう少し大人になった時、アクションが起こるといいな。


なーんて、他力本願ですね。
すみません。