~聴覚障害6級~

話せる。歌える。
聞こえているけど聞き取りにくい。
感音性難聴者が適当に呟きます。

パートの仕事

2009年12月10日 | 子ども時代~成人時代
子育てで専業主婦が続いた私は、
趣味関係で遣うお金を自分で捻出したくて、働き始めました。

フルタイムではなくパートですが、私にすれば一大決心です。

ずっとやってみたかった仕事があったので、
その仕事の求人募集を知り、応募し、面接を受けました。
35才の時でした。
結婚して、10年ちょっとぶりの社会復帰です。

面接は、その営業所の所長の女性上司と1対1でした。
距離が近かったためかスムーズに面接ができてしまい、
難聴のことは言えませんでした。

採用され働くことになり、本社で1週間ほど研修を受け、
さらに3週間ほど、女性所長と先輩女性に指導を受けました。

所長は私の難聴に気付くことはなかったのですが、
指導係の先輩が、「あなた、ちょっと耳が遠いよね。」と。
そして、所長に報告したようです。

所長は私を営業所の裏に呼び出し、
「何で面接の時に耳が悪いことを言わなかったの?」と、少々怒り気味。

「耳が悪いことを言えば、採用してもらえないと思ったからです。」
と、正直に答えてしまいました。

「でも、みんなとコミュニケーションがちゃんと取れないと、
 感じ悪いとか誤解を受けるのはあなただよ。
 誤解される前に、ちゃんと耳が悪いことをみんなに言わなきゃ。
 何かあってもあなたの責任だからね。
 それでもいいのなら仕事を続けてください。」
と、このようなことを言われました。

所長の仰ったことは、正に的確でその通りだと思います。
きちんと言わなかった私が悪い。
本来なら面接で言うべきことだったと思っています。

言えば、採用されないだろうし、
言えば、壁を作られるし作ってしまう。

そして、新人の私が、先輩達みんなに簡単に言えるなら、
最初から言ってます。
言いたくても言えなかった心理。

でも、言わなかったら責められる。


所長はとても優秀な人だったけれど、
私は、これらの言葉がずっと胸にこびりついていて、
心を開くことはなかったです。

私が働き始めて1年しないうちに異動して行った時は、正直ホッとしました。

それ以外の仕事の仲間はいい人達に恵まれました。

しかし、昇格もなく、班長や企画長など任されることもなかったです。
会議での発言力がほとんどないので、
長の付くポジションは無理と判断されていただろうし、
ただもくもくと自分の仕事をしっかりやり遂げるのみでした。

精神面で色々と限界を感じ退職したのは、ちょうど5年間勤務を続けた頃。
もう夢を仕事にしないと、再度決めました。


その後、今の仕事に出会うまで、
短期アルバイトをたくさん経験しました。

短期で、大勢の中での仕事だからか、
難聴で困ったことはほぼなかったです。


巨大倉庫で、本やCDの梱包。
クリスマス時期の玩具の仕分け。
洋服メーカー倉庫でピッキングやタグ付け。
食品メーカーでお歳暮伝票整理。
飲料メーカー工場で景品付け。
郵便局で葉書の仕分け。
葬祭場でのパントリーや清掃。
国勢調査員。

私としてはとても楽しいアルバイト生活でした。


今の仕事に出会ったのも、これの経験があったからだと思ってます。

まぁ、そんな大袈裟な仕事ではなく、
誰にでもできる、ほんの小遣い程度のささやかな仕事です。

今の仕事は、4年目に突入。
1人で自由な時間にできるので、ストレスが全くないです。

仕事をくれるお取引先が、私の難聴を考慮し、
メールで伝言をくれることも助かっているひとつです。
私からの仕事の報告も、メールでできるようにして下さっています。

体力気力の限り、またお取引先が仕事を持ってきてくれる限り、
ずっと続けていけるといいなと思っています。
今後も変わらず、よろしくお願いします。

教習所にて

2009年11月27日 | 子ども時代~成人時代
今から18年前の28才の時に通った教習所。

教習所では、補聴器をつけて通いました。
補聴器に対する期待は少々はずれたけれど、
しないよりは補聴されていると思ったからです。


講義は必ず最前列の席に座ったので、
内容はほぼ理解できたと思います。
筆記試験は、全て一発合格でした。


問題の実地。

車と言う密室で、隣に教官がいる状態でしたので、
補聴器を左耳につければ、教習内容はほとんど理解できました。

が、声の波長と言うか、声の質と言うか、渇舌なのか、
すぐそばで話してくれても、聞き取れない場合がありました。

聞き返すと、「何で1回の説明でわからないのかっ。」と怒られました。

健聴者にとって、同じ話しを2度させられることは、
こんな簡単な話しの内容が理解できないほど頭が悪いのか、
人の話しを聞いていないのか、と解釈していることが多く、
本当にうざいようですから仕方のないことです。

そこで補聴器をしている耳を見せ、
「難聴なんです。すみません。」と申告をしました。

「それならそうとちゃんと言ってください。」と言われました。


難聴なんです。
聞き取れません。


そのたびに「すみません。」と謝ってしまう。
よくよく考えると、何で謝らなきゃならないんでしょうね。
こちらは何も悪いことをしていないのに。


そして「難聴なら初めにちゃんと言ってください。」


今なら最初からそう言えることも多いけれど、
言えない空気、言えない環境、言えない雰囲気と言うものがあるのです。
難聴を言ったらそこで終了的な。

「すみません。」と謝らなければならない障害です。
言い出しにくい障害だと言うことです。
聾の方に比べると、はるかに理解されにくい聴覚障害です。


怒ってくれた教官のおかげで、
その後は難聴の生徒だと言うことでの教習となりました。

まぁ、特に何かの配慮があったわけではありません。
無線教習が免除されたくらいでしょうか。
教官達も配慮して聞き取りやすく話してくれたかどうかは、
私にはわかりませんでした。


ある若めの教官は、路上教習の際、
私が難聴者だと言うことなのか、一言も言葉を発っしませんでした。

指で「そこを左。」「そこを右。」と合図するのみ。

何か話しても聴こえないと思ったのでしょうか。
どう接すれば良いのかわからなかったからでしょうか。


結局、申告すればしたで、何も教えてくれなくなるのです。

何も話してくれなくなることはよくあることです。
だから、申告することに多少の抵抗があるのです。


一部の教官からはきちんと教えてもらえなかったけれど、
実地試験も本免で1回落ちたのみで、無事、免許取得。


今思うと、あの時、免許を取っておいて本当に良かった。
今の車生活に大いに役立っています。

馬鹿にする人

2009年11月15日 | 子ども時代~成人時代
自分に自信を失くし夢に破れた私は、
規模が巨大な職場に身を置きました。

大勢の中でもくもくと働ければ、もうそれでいいと思うようになりました。

もくもくと働くと言えども、
色んな場面で職場の人とのコミュニケーションが必要です。


ある時、私の母親と同じくらいの当時40代の女性社員が、
「ほら、○○さんってつんぼでしょ。ハハハハハハハ。」と、
私に聞こえるような大声で周りの人に言ったのです。

どうやら、健聴者なら聴こえるくらいの小さい声で、
ちょっと離れた場所から私の名前を何度か呼んだらしいのです。

勿論、私は聴こえなかったから振り向かなかった。
それを何度か試していたようです。

私は反論できなかった。
苦笑いしてごまかすしかできなかった。

その後もその女性社員は、
何度も小さい声で少し離れた距離から色々話し掛けてきたりして、
聞き取れない私のことを笑っていることはわかっていました。

そんな私を見て、
「そういうことするもんじゃないよ。」と言ってくれた先輩達がいました。

今思えば、みんな私の難聴に気付いていたんでしょうね。

「○○さんは、もしかして耳が遠いの?」と、
こっそり聞いてくれた先輩には、「はい。」と言えました。
しかし、だからどうして欲しい、どう接して欲しいなど、
明確なことは言えませんでした。


部署が変わっても、同じようなことをして試して、
「○○さんって、耳が遠いんだねぇ。」とニヤニヤと笑いながら、
話し掛けてきた同年代の女性社員もいました。


勿論、耳が遠いことは事実で、本当のことを言われたまでです。
隠しているわけではなくて、あえて言わなかっただけ。

仕事にはそれほど影響も出ていませんし、
迷惑は掛けていないと思っていました。
そう思い込んでいただけかもしれませんが。

そう言えば、男性社員からは、そのようなことをされたことは、
一度もありませんでした。
人の欠点を笑うと言う卑屈なことは、
やはり女性同士だからなんでしょうか。


難聴って、馬鹿にされなきゃならない障害なのでしょうか。
名前を呼んで聴こえてなくて振り向かなかったことが、
そんなに面白いんでしょうか。

志村けんさんがおばあちゃんに扮して、
耳が遠いリアクションのコントがありますが、
耳が遠いことで笑いが取れるってことですよね。

つまり、馬鹿にしても良いってことでしょうか。

難聴者以外にとっての難聴への理解度は、
ハゲやデブで笑いを取っている芸人さん達と同じような感覚の、
気軽な障害なんでしょうか。

笑い飛ばせれば、どんなに楽か。


聾の方々は、幼いうちから手話での会話を習得しますし、
難聴者よりは障害が理解されやすいためか、
馬鹿にする人はいませんよね。

むしろ、音のない世界で頑張る姿に励まされるとか感動するとか、
手話を習って社会との架け橋を作りたい、
などと思う心が芽生える方々もいらっしゃる。


難聴者は手話などの教育を受けて来なかった人がほとんど。
音も聴こえるし、環境と声の質によっては聞き取れていることも多い。
ゆえに、言葉の習得もできていますから話すことができる。

理解が得にくく、誤解も多い。


そう言えば、子供の頃、母親の言ってることが聞き取れなかった時、
「つんぼっ。」と怒鳴られたことがありました。

時代も関係しているかもしれませんが、
私の親世代は、私のくらいの聞こえの悪さくらいは、
たいしたことないと思っていたんでしょうか。


難聴は耳の聞こえが悪いだけではないこと。

対人関係やコミュニケーション能力。
耳から入る情報。

それらが少しずつ欠けてしまい、それによって自信を喪失したり、
偏屈な考えを持ってしまったり、気持ちが歪んでしまったり、
生きていく上で、様々なことに支障が起こる。


私の両親は、難聴から生ずる支障についての理解がありませんでした。
だから私は、成人するまで、
自分の能力を勘違いしていたのかもしれません。

難聴なんてたいしたことないから、
頑張れば普通の人と同じように何でもできると。


社会に出て、自分の能力の限界を知り、
意地悪な人に出会ったことで、
難聴から生ずる様々な支障をやっと理解しました。

儚い夢

2009年11月13日 | 子ども時代~成人時代
面接で難聴であることの現実を思い知ったのに関わらず、
私は夢を諦めませんでした。

諦めたくなかったんだと思います。
プライドと意地。
身の程知らずもいいところです。


短大卒業ぎりぎりに、市内の保育園の面接を受け、
何とか採用の運びとなりました。
面接の他に、当時流行った有名映画の感想文も採用ポイントでした。

採用面接の内容は、全く記憶にありませんが、
比較的狭い部屋で、園長先生と1対1の面接だっと思います。

狭い空間で1対1。
当時の聴力なら、聞き返すことなく対話ができたのかもしれません。


晴れて子供時代からの夢が叶い、私は希望にあふれていました。
しかし最初の月から、数々の壁にぶちあたりました。


保護者会の進行がうまくいかない。
保護者からの苦情が来る。
子供達の声や言葉が拾えない。
職員会議の内容が理解できない。
ゆえに、会議という場で意見が言えない。
各行事の司会と進行がうまくできない。
職員達とのお茶の時間で雑談ができない。
ゆえに無口でおとなしい人にしかなれない。


どんなに集中しても努力しても、
大勢の人達を前にした広い空間の中で、
言葉を拾うことが困難であることを痛感する毎日でした。

各行事の司会や、職員会議や保護者会の進行など、
いつもぐたぐたになってしまい、
沢山の人達に迷惑をかけていたように思います。


保母として完全に無能でした。
誰しも初めからうまくできるわけがないとしても、
1対何十人の言葉をきちん拾い、
その場その場で対応がする能力が、私には完全に欠けている。


そう言えば、短大時代の保育園や幼稚園などでの実習先でも、
課題に取り組む際、1クラス分の子供達を集中させることが困難でした。

経験を積めばきっとできると思っていたけれど、
現場で働いてみて改めて、自分の力には限界があることを知りました。



一番重要なそれが欠けているのだから、保母には向いていないし、
これ以上、子供達や保護者や職員にご迷惑をかけることはできないと思い、
たった1年で退職しました。

退職の本当の本音は、もうこれ以上、
自分の無能さに傷付きたくなかったからかもしれません。

またひとつ、自分に自信がなくなりました。


職員達からは何ひとつ責められたことはなかったんです。
むしろ、「悩みがあったらいつでも聞くよ。」と言ってくれる先輩もいたし、
雑談に加われない私なのに、舞台や食事会などにいつも誘ってくれ、
皆さん、本当にいい人ばかりでした。


それなのに、私は難聴のことを最後まで言えませんでした。
難聴に気付いて皆さん気を遣って下さっていたのかもしれません。
今さらながら、ありがとうございます。

儚い夢でした。


もしかしたら、私は難聴と言うコンプレックスが、
イコール欠点だと言う思いに凝り固まっていて、
人に心を開けない心の病気なのかもしれません。

難聴を隠していない今でも、人に心を開けない。

自分の弱さを見せたくないプライド。
本当の自分を知られたら、きっと嫌われると言う思い込み。

難聴を自分の最大の欠点だと思う気持ちを取り除くにはどうしたら良いのか。
今もわかりません。
これが克服できない限り、人に心を開くことはないかもしれません。

欠点でなく個性。
難聴と言うコンプレックスなんかくそくらえ。
こんな風に思える時が来るのでしょうか。


保母を退職して、結婚するまでの職場では、
難聴であることを馬鹿にする人と出会いました。
初めてのことです。

耳が聞こえにくいことを笑いながら馬鹿にする大人がいるとは。
何の悪気もなく、何人かの人達から。
今思い出しても悔しくて涙が出てくる経験です。

それについては、また。

成人まで

2009年11月11日 | 子ども時代~成人時代
都立高校卒業後、短大の保育科に入学しました。

これまた難聴の自覚なしの身の程知らずな私は、
保母さんになりたかったのです。
今現在で言う保育士ですね。

怖いもの知らずと言うか、
若さゆえに自分の力を過信していたのかもしれません。


短大では、ピアノの授業以外の影響はほとんどなかったと思います。
高校までのように、席が決められていませんから、
いつも講義は一番前の席を陣取っていたからです。

ダンスの授業も、音は聴こえますからリズムは取れる。
ダンスは得意分野でした。

ピアノの授業では、個人でピアノを弾いている時に、
先生の「はい、そこまで。」と言う声がわからないことが多かったんですが、
これはピアノに集中していると誰でもよくあることでした。



短大2年の秋。
難聴の現実を思い知ったことがありました。
今でも思い出したくない場面です。

短大では担任などから選考されて、
3ヶ所にある付属幼稚園に就職できるシステムがありました。
その年度は、10人程が就職できると言うことで、
12人が選考され、私もその中に入ることができました。

選考は面接のみ。


面接の順番が来て、部屋に入ると、
がらんとした広い部屋に、面接官が10人ほど。
面接官と私との距離は5メートル以上ある。
一番遠い面接官とは10メートル位の距離。

広すぎる空間と、面接官と距離がありすぎることで、
これは質問が聞き取れないなと一瞬にして悟り、
一瞬にして絶望しました。

面接を甘く見ていた私に罰が当たったんだと思います。


面接内容はほとんど覚えていないのですが、
「聞き取れませんでしたので、もう一度お願いします。」を、
2回ほど言ったことと、
これ以上、聞き返すことはできないと思い、
質問を勘で憶測して答えてしまった記憶があります。

相当、感じ悪かったと思います。


今思えば、面接で聞き返すと言う行為は、
それだけでも不採用決定ですね。
人の話しを聞いていないと判断されてしまうのだから。

まして幼稚園教諭の採用面接だけに、
わざわざ難聴の者を雇うことはないでしょう。
難聴であることを、また言えませんでした。


結果は勿論、不採用でした。
同じクラスから受けた人は採用だったので、
その後、何となくお互い気まずい思いがありました。


でも、不採用で良かった。
採用されたとしても、付属幼稚園で勤まる自信はない。



こんな苦い経験をしたと言うのに、私はさらに身の程知らずだった。
若さゆえの馬鹿さと傲慢さだったのかもしれない。