唐茄子はカボチャ

映画と音楽と・・・

塩狩峠/三浦 綾子

2008年10月05日 | 
塩狩峠 (新潮文庫)
三浦 綾子
新潮社

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駅の本屋で買って電車の中で読みはじめました。
なんの予備知識も無く読み始めたので、先がまったく読めません。
キリスト教の話が出てきて、(ああ・・・そういえばこの人、キリスト教の人だったな・・・)などと思いながら・・・

前半まで読みました。
時代は明治の話です。
士族の家に生まれた信夫さんの子どものころからの心の成長を描くのですが、そこに、キリスト教が絡んできます。
死んだと思っていたお母さんが「ヤソ」で家を追い出されて生きていたことを知ります。最初のお母さんとの距離が切なくていいです。好きなんだけど、交われない遠慮があって、心から、お母さんを信頼していない感じ。

親友とのやりとりとか、妹とか、淡い恋心とか、人間の死についてとか、強烈に襲ってくる性欲とか、父の死とか、いろんなことがあって心の葛藤があって・・・

そんなこんなで、半分読み終わりました。
子どものときのお話は結構泣けます。正直、キリスト教色が強くなってくると、少し引き気味になってしまいます。同時に、今でこそ信教の自由なんて当たり前のようになっていますが、当時のキリスト教の信者の立場が描かれていて、そんな中で筋を曲げずに信仰を守る姿に、少しだけ感動します。

その人が生きていくために捨ててはいけないものなんですね。

でも、そのために子どもと離れなければならなかった・・・子どもより信仰を選んだ母、それを認めた父、そして、結果的に捨てられた息子。母の元で育った妹・・・いろんな立場でいろんな思いがあるのです。
自分は捨てられた息子の立場から本を読むので・・・(当たり前ですね。主人公なんだから・・・)母親にちょっとだけ恨みを言いたい気になります。いくら親が仕方が無かったと言って言い訳しても、子どもにしてみれば「そんなの関係ねえ」ですもんね。自分より信仰を選んだというのは、やっぱり納得いかないでしょう。

同時に、信仰が自分の生きる証というか、自分自身とでも言いますか。自分の信条であるならば、不当な弾圧にも筋を曲げずに行き方を貫くというのもわかる話です。

お母さんは、自分の選んだ道を後悔はしていないと思いますが、その犠牲にしてしまった子どもに対しては、ずっと罪を背負っていくのかもしれません。正しいことを貫き通すために、罪を背負うことってあるのかもしれません。(犯罪とかいう意味ではないですよ)

罪って何だ?っ手話しが出てきます。

ある1人の人のいい面もその人であり、悪い面もその人である。わるいことをしてしまったら当然悪いんだけど、じゃあ、悪いことを考えたのにそれを実行に移さなければわるくないのか。考えてしまったこと自体に罪は無いのか・・・なんて話になってきたりして・・・

そんなこんなで、ちょっと最後のほうを読んじゃったら・・・ああ・・・こういう結末なのね。と思いました。表紙の絵も納得です。

また後半はあとで。

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後半を読みましたが、あっという間に読み終えました。読みやすい本です。

ふじ子さんとの恋愛は美しいです。告白のときのやり取りは泣いてしまいます。
主人公のいろんな心の葛藤があるだけに、そこのシーンが余計に美しく感じるのでしょう。
それだけに、最後の結末が正直納得行かないというか・・・そうしちゃったものはしょうがないけれど、これからというときに・・・・まったく・・・

北海道に出て行く話、給料泥棒の話、そんなこんなで最後はあんなで・・・

自分自身、人としての正しい生き方というものを考えさせられました。

同時に(最近は「同時に」がすきかも)違和感を感じたのはやはりそれが宗教と結びつくというところです。
本人がキリスト教に近づいていく後半は、彼自身の真理に到達すればするほど距離が離れていってしまいます。
最後のあの決断も、その宗教だからその判断ができた・・・といわれるとちょっと違和感があるし、その行動が美しい行動といわれても(言ってないか)確かにえらいけど、なんとなく薄い気もしないでもない。
多分、そこのところのもやもやとしたものは、社会的な背景があまり描かれていないことからくるのかもしれません。

ただ、人間の心を人間の観点から描くという点では深い・・・気がします。
何を言ってるのか・・・

もうひとつの違和感はセリフです。それは時代を反映しているのか・・・育ちがいいからなのか・・・わかりませんが・・・

聖書に書いてある文章を徹底的に実践する・・・というのは面白いと思いました。それを貫くというのは難しいことです。だから人間は罪深い・・・みたいですが・・・

宗教的な人としての生きる道・・・

ランボーのように手段としての宗教の考え方を実践するというのは効果的な気がします。
主人公の人間的にしっかりした部分・・・最後の状況判断も含めて、宗教によって作られたものであるならば、そういう心を持つために、宗教は有効に働いているともいえるのかなあ・・・

同時に(まただ)そのまじめな気持ちを利用している悪いやつらもいるというところも見なくちゃいけないですよね。
思い込みは怖いです。