〇野さんの印鑑がない。
わざわざ作った印鑑なのに見つからない。
中間検査の書類に〇野さんの押印が必要だ。
昼イチで提出する予定だったのに見つからない。
なぜない。
どこに消えた。
机の下に落ちたのか?
机の下は配線やら機材のスクラップやら書類やらのゴミ溜め状態。
見るもおぞましい無法地帯。
懐中電灯なしでは捜査不可能。
その懐中電灯が見当たらない。
懐中電灯を探すだけで時間を費やしてしまう。
しぶしぶと薄暗い鬱蒼とした机の下を目を細めながら印鑑探しを始める。
床に堆積した、綿埃や髪の毛、付箋紙やクリップや爪楊枝をかき出す。
それだけでやる気が失せる。
まて、このような無駄なことをするでない。
もっと知恵を働かすのだ。
推理するのだ。
原点に帰って、なぜ印鑑が消えたかを洗い出すのだ。
キーワードは〇野の姓にある。
「〇野」の姓は非常に珍しい。
100均には売っていない。
仕方ないので、あのとき近くの印鑑屋に印鑑の製作を頼んだ。
一時間余りで出来上がるということだった。
出来上がった印鑑をまた事務所に持ち帰るのは時間の無駄。
お店で印鑑を受け取ると、その足で審査機関に書類を届けた。
押印は車の中でした。
そう、車の中で押したのだ。
ならば印鑑はバックの中か上着のポケットの中にあるはずだ。
バックの中はすでに捜査済み。
となると上着が怪しい。
いや、怪しいのではなく、かならずそこにある。
玄関ホールのクロークを威勢よく開ける。
吊り下げられたブレーザーのポケットをまさぐる。
薄手のブレーザー二つと、薄手のジャンパーを調べたところではたと気づく。
印鑑を買ったのは三か月前。
まだ寒かった。
もっと厚手のブレーザーを着ていたはずだ。
厚手のブレーザーをまさぐる。
ひとつめにはない。
では、これか。
これも冬物のブレーザーだが先のブレーザーほどに厚手ではない。
晩冬から春先にかけてよく着ていたブレーザーだ。
これに違いない。
内ポケットをまさぐる。
左の外ポケットをまさぐる。
右の外ポケットを・・・!
あった。
小さな硬い感触。
これだ。
取りだすと、印鑑屋の白い小さな紙包み。
中を見るまでもない。
〇野の印で決まりだ。
バリバリバリ、紙を破くと探し求めていた〇野の印鑑が顔をだす。
推理通りの結末だ。
狙い通りの逆転勝利。
どうだとばかりにバダバタと書類に印鑑を押す。
予定通り、昼イチで検査機関に書類を届ける。
係り員に書類を渡す。
上の空で係員の作業を眺める。
ほどなくして、係員から書類の第一面が差しだされる。
一言。
「印鑑がないですよ」
見ると、それは活字だけの真っ新な書類だった。
申請書の鏡の書類に押印し忘れていた。
押印していたのは委任状とチェックシート。
肝心要の一枚目の書類に印がない。
〇野の印鑑は事務所に置いてきた。
バカとしかいいようがない。
劇的な印鑑捜索が台無しになってしまった。