1/27に南海高野線(通称汐見橋線) 西天下茶屋駅でレトロな駅舎、ホームを撮りました。
1枚目は、西天下茶屋駅の下りの駅舎です。
中間駅としては立派な駅舎だと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/47/d1401f0c2519eaeb34d67079bf48c80c.jpg)
2枚目は、西天下茶屋駅の下りホームです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/6a/a16413f5d14be185719e6f5eb7bba10a.jpg)
3枚目は、西天下茶屋駅の上りの駅舎です。
下りの駅舎に比べればこじんまりしていますが、一通りの機能を備えた支線の駅舎らしい佇まいだと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/71/935cc8e1af56a38e3b90fdc20279853b.jpg)
4枚目は、西天下茶屋駅の下りホームの古レールを再利用した上屋の支柱、木製のベンチです。
昭和時代までは鉄道施設には古レールは活用されていましたが、今では数少なくなっていると思います。
木製のベンチともども貴重な光景になっていると思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/3a/d460ff921ea41fe330c227bf909317a4.jpg)
2200系の復元塗装で注目されている、高野線 汐見橋~岸里玉出駅間の通称汐見橋線ですが、正式には高野線の一部ですが、1985(昭和60)年の線路分断後は事実上、高野線から分かれた支線扱いになっています。
1900(明治33)年に高野鉄道の大小路駅(現在の堺東駅)から道頓堀駅(現在の汐見橋駅)が延伸したに開業し、1912(大正元)年に電化された当時は本線として活況だったと思います。
1925(大正14)年に当時の岸ノ里駅で南海本線との東連絡線が開設されて高野線の難波駅乗り入れ開始され、1929(昭和4)年に高野線の全列車が難波駅より発着するようになり、事実上、支線化されてからローカル線化したと思われます。
1945(昭和20)年には一時的に高野線の難波駅乗入れが休止されましたが、1946(昭和21)年には難波駅乗入れが再開しています。
1971(昭和46)年には貨物列車も廃止され、以後は2両編成の各停列車が行き来し、運転間隔も以前は15分間隔だったのが30分間隔となり、都会の秘境線になっています。
新大阪駅から梅田、中之島、難波駅を結ぶなにわ筋線構想が持ち上がった際には、汐見橋線が接続路線として活用される期待もありましたが、2019年に北梅田~新難波~新今宮駅の経路で事業許可が下りたことから、今後の動向は気になります。
2200系の復元塗装のレポートでは、始発の汐見橋駅や旧貨物ヤードの路線跡が残る木津川駅を伝える情報は見掛けますが、立派な駅舎のある西天下茶屋駅は余り話題にならないようなので紹介しておきます。
1枚目は、西天下茶屋駅の下りの駅舎です。
中間駅としては立派な駅舎だと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/47/d1401f0c2519eaeb34d67079bf48c80c.jpg)
2枚目は、西天下茶屋駅の下りホームです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/6a/a16413f5d14be185719e6f5eb7bba10a.jpg)
3枚目は、西天下茶屋駅の上りの駅舎です。
下りの駅舎に比べればこじんまりしていますが、一通りの機能を備えた支線の駅舎らしい佇まいだと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/71/935cc8e1af56a38e3b90fdc20279853b.jpg)
4枚目は、西天下茶屋駅の下りホームの古レールを再利用した上屋の支柱、木製のベンチです。
昭和時代までは鉄道施設には古レールは活用されていましたが、今では数少なくなっていると思います。
木製のベンチともども貴重な光景になっていると思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/3a/d460ff921ea41fe330c227bf909317a4.jpg)
2200系の復元塗装で注目されている、高野線 汐見橋~岸里玉出駅間の通称汐見橋線ですが、正式には高野線の一部ですが、1985(昭和60)年の線路分断後は事実上、高野線から分かれた支線扱いになっています。
1900(明治33)年に高野鉄道の大小路駅(現在の堺東駅)から道頓堀駅(現在の汐見橋駅)が延伸したに開業し、1912(大正元)年に電化された当時は本線として活況だったと思います。
1925(大正14)年に当時の岸ノ里駅で南海本線との東連絡線が開設されて高野線の難波駅乗り入れ開始され、1929(昭和4)年に高野線の全列車が難波駅より発着するようになり、事実上、支線化されてからローカル線化したと思われます。
1945(昭和20)年には一時的に高野線の難波駅乗入れが休止されましたが、1946(昭和21)年には難波駅乗入れが再開しています。
1971(昭和46)年には貨物列車も廃止され、以後は2両編成の各停列車が行き来し、運転間隔も以前は15分間隔だったのが30分間隔となり、都会の秘境線になっています。
新大阪駅から梅田、中之島、難波駅を結ぶなにわ筋線構想が持ち上がった際には、汐見橋線が接続路線として活用される期待もありましたが、2019年に北梅田~新難波~新今宮駅の経路で事業許可が下りたことから、今後の動向は気になります。
2200系の復元塗装のレポートでは、始発の汐見橋駅や旧貨物ヤードの路線跡が残る木津川駅を伝える情報は見掛けますが、立派な駅舎のある西天下茶屋駅は余り話題にならないようなので紹介しておきます。