イングリッシュ・ナショナル・オペラ。2009年6月12日、ロンドン、コリセウム(Coliseum)にて。
Puccini: Madam Butterfly
Anthony Minghella: Production
Carolyn Choa: Director and Choreographer
Judith Howarth: Cio-Cio-san
Christine Rice: Suzuki
John Marshall: F.B. Pinkerton
Brain Mulligan: Sharpless
Michael Colvin: Goro
Richard Burkhard: Prince Yamadori
イングリッシュ・ナショナル・オペラで今同時にかかっている「コジ・ファン・トゥッテ」が良い、との話をきいて、土曜日のそれとあわせて聴いてみることにした。
イングリッシュ・ナショナル・オペラでの出し物は基本的にすべて英語である。原語よりは分かりやすいが、何となく納得いかない。その上、この日はピンカートン役のHymelが体調不良でMarshallに。いやな予感である。
(本演目を鑑賞予定の方は、ご覧になってから以下お読みください)
英語でオペラ、なんだかそれだけで「オペラではなくミュージカル?」と思ってしまう。その上、衣装!私がパトロンなら間違いなく担当者はクビだ!男も女も原色多用の品の悪い十二単様着物を着ている。申し訳ないが、男性陣は相当気持ちが悪い。同じ衣装なのに扇子を持つもの団扇を持つもの。結婚式に団扇はないだろう?髪飾りも、親類全員が踊り子でもあるまいに?また、花嫁でない人に角隠しをさせている。インターネットのこの時代、もう少し勉強できるのではあるまいか?
そして極めつけは、ヤマドリの衣装。まさに
志村けんの『ばか殿様』。
笑いを抑えられなかった。
歌手も、シャープレス役のMulliganは気に入ったが、全体として「ミュージカル」レベル。途中まで、これは「安物買いの銭失い」(2階正面で84ポンド=ミュージカルレベル。ちなみにロイヤルオペラは倍以上)だ、お薦めのコジを観てから蝶々夫人を観るか判断すべきだった、と反省していた。
しかしながら、始まりから好感を持っていた演出は舞台が進むに連れて満足感がどんどん増していった。モダンではあるが、Cio-Cio-sanの帯、障子が効果的に使われ、最小限の大道具/小道具で全てが表現される。また、第一幕は桜の花びらが舞台を覆って終わる。この演出家は日本人にとって春の代名詞「桜」-特に散りゆく桜-は「死」の隠喩でもあることを理解して、第一幕の最後でCio-Cio-sanの死を暗示して終えるのかと感心した。
第二幕に入ると、演出効果は益々冴えた。今回は第二幕第一部と第二部の間に休憩が挟まれ、リンカーン号の接岸からその日の夕暮れを待つ、第一部最後の舞台は素晴らしかった。Cio-Cio-san、Suzuki、子供の3人が、座布団に座って同じ方向(港)を観ている姿は、ちょっと小津の映画を思い出さないでもない。
さらに今回の演出では、Cio-Cio-sanとピンカートンの間に出来た子供を、文楽にヒントを得たという人形が演じた。最初こそ、これを「文楽」と言われると参るな、と思っていたが、舞台上に黒子が現れることを参考にした、程度のことだと思えば腹も立たない。その上、こちらも時間が経つにつれ、この人形の表現力の高さにすっかり魅せられてしまったのである。
第二幕第二部、ここへきて、なぜ舞台の上面が鏡面になっているのかが分かった。Cio-Cio-sanの自害の直前、Suzukiを下がらせる演出/演技は涙物である。
今回は歌手のことは殆ど記憶にないのだが、演出の素晴らしさ(衣装は置いておいて)を堪能した。どれほど演出がオペラにとって重要であるかを教えてくれた(従って今、Production, Direction, Set Design, Costume Design, Light Designとあるが、誰がどこまで責任を持ち、どの程度協働するのか興味津々である)。
とても残念なことにMinghellaは昨年54歳の若さで亡くなっていて、彼の演出オペラはこの蝶々夫人1作しかないようである(ちなみにDirectorのChoaがMinghellaの奥様のようである)。この演出はメトロポリタンオペラなどでも上演されている、とのことなので、是非NYでMetで観てみたい一作となった。