月の瓶詰~ブログ版~

こぼれゆく時の欠片を瓶詰に。

『武士道』について考える。

2011-11-20 15:11:41 | モノガタリ
通勤途中、高校生や大学生を見てつくづく思う。
私に、「女子高生」とか「女子大生」とかいう時代ってあったかなあ、と。
これって共学は対象外…ということはないよな(^^;

さて。
『すべての人生について』(幻冬舎文庫)をきっかけに、
新渡戸稲造さん著・矢内原忠雄さん訳の岩波文庫版『武士道』を読んでみた。
浅田センセや李登輝さんに影響を与えた本とは、どういうものだろうかと。

「第17章 武士道の将来」の遺産のくだり(P163~P164)には、
『日輪の遺産』の「遺産」って、これだよ!と思いつつ。
けれどこの本全体については、ぼんやりとした違和感が残った。
浅学菲才の徒が、何をか言わんや。
しかし一応、その違和感について考察してみる。
…そもそも私が武士道を解しているか、という大問題はさておき(^^;

ひとつ。
これは他者に自らのことを伝える際の宿命だけれど、
言葉にできないなにものかを言語化しようとしたところに困難さがあると思う。
言語化されたそれは、もはやそれそのものとは違っているのではないか。

ふたつ。
ここに想定されている武士の姿と、私が慣れ親しんでいる武士の姿にずれがある。
この本における武士は様式化されたそれで、
私がイメージする武士は躍動する生命そのもの。
私にとっては、網野先生の描く中世の世界がこの国の姿なのかもしれない。
世の中って、きれいなだけじゃない。
豊饒で、ごちゃごちゃしていて、―だからいいんじゃないか。
だから美しいんだよ。


…なんて考えながら、暢気に森永のチョビスケをつまんでいたりする。
いやあ、世の中っていうのは矛盾に満ちているなあ~。
って、矛盾が満ちているのは私の方か(^^;