久しぶりにテレビのスイッチをONに。
すると、オリンピック招致プレゼンの真っ只中で、
シンガポール在住の15歳の体操少女が満面の笑みを添え、スピーチをはじめるまさに瞬間だった。
そこから日本のプレゼンははじまった。
言葉ってすごいなぁ・・・・・とあらためて思った。
いいや、思わされたといった方が正解かもしれない。
失敗の許されない責任重大な場面において、
少女も大人たちも、心の、熱の、力のこもった言葉を話していることに、私は呆然とした。
言葉といえば、私の拙い英文では気持ちが伝えきれないと思い、
日本語で綴ったエッセイを、一方的に別れを切り出して終焉をしたと思い込んでいる彼に送った。
以前、ネイティブアメリカンが「つむじ」について触れた文章をみつけ、
私たちにはつむじや指紋があって、それは風の容れ物だという神話を日本語で伝えたとき、
完璧に英訳したことがあったので、今回の私のエッセイも、英訳して理解できると信じている。
指紋は風で、それがあるから人間は繋がり合えるのだということを確か書いた記憶がある。
これだけやってみてダメなら、私の言葉が軽かったのだときっぱりと諦めることにすると決めた。
私の頭の片隅には、今でも残っている言葉がある。
“障害を持っていても、それを僕たちはシェアすればいいじゃないか”と。
その言葉は嘘だったの?とは聞かない。
問いただしたりもしないわ。
でも、その言葉が嘘だったと信じるには、考える以上に私たちには時間が必要なことを
あなたは知らないと思った。
自分の言葉を信じよう。
そしてその言葉が彼の心を動かすにいたらぬものだったなら、きっぱりと諦めることにする。
夢をみていたと思えるかしら?
長い長い、あまりにも甘く、幸せ過ぎた夢だと。