高次脳機能障害ではその人のそれまでの人生が如実に出る、といわれている。
脳の一部が壊れたとき、脳は残された正常な機能を総動員して、
壊れた部分を補い、危機を乗り越えようとするものらしい。
そのため、昔とった杵柄にしろ叩けば出る埃にしろ、
その人の歴史が浮かび上がってくるというのである。
壊れた脳存在する知 著者 Yamada Kikuko(講談社)
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考えてはみるもののまったく思い出せないことがある。
それは健康である状態、
つまり、どこまでが健康と呼び、どの線を越えると健康ではないのかが私にはわからない。
自覚の問題なのかとも思うが、以前の主治医に「本人の自覚なし」と書かれた診断書を目にしたとき、
確かに私には自覚がなかった。
が、その主治医のいうとおり、診断書を通して「今の自分」を確認できた経験は、非常に面白いものだった。
また同様に、病前性格がどのようなものであったのかふと知りたくなるときがあるのだが、
明るかったのか暗かったのか・・・・・という過去の継続である現在の私を知りたいと思うものの、
今のところ「私はこうでした」とは自信を持って言う状態にない。
ただし、大型バイクに乗って事故に遭ったわけだし、当時は全国的にも有名なヨットクラブにも所属し、
紅一点、男になんか負けるものかと仕事や遊びに夢中だったわけだから、大人しかった・・・は通用しない。
中村先生にご紹介いただいた本の読後、私が物を書くようになったのは事故後であることに気付いた。
上記著書を読みながら泣き、そうそう私も同じとか、足の、地面に、階段に置く感覚の不安定さ、
やさしくない街に住んでいることも、やり場のない感情の消化も、言うほど簡単じゃないと嘯いた。
もともと散文は書いていたものの、
継続的に、書くきっかけになったのは怒りの矛先を「書く言葉」にぶつけはじめたからではないか、と思う。
呂律が回らない時期があり、以前勤務していた会社上司と筆談やメールでやりとりをした。
またどのような経緯があったのか不明なのだが、
知人に某出版社社長を紹介され、寝たきりでも本を読んだり、書いたりはできるのではないかと提案され、
その社長が編集者の役割をかってでてくれたのだと、この文章を書きながら思い出した。
読み手という対象者がいるといないのでは、書き手の言葉の使い方や丁寧さや思いの込め方が違ってくる。
高次脳機能障害ではその人のそれまでの人生が如実に出る、といわれている。
その人の歴史が浮かび上がってくるというのである、と。
私の人生が、歴史がなんであるのか、なんであったのか、なにが如実に出ているのか検証をしていないが、
タイトルにもある上記著書内に“刹那の人”という表現が、私を読後、いつまでも魅了し続けている。
ちなみに刹那とは、『大毘婆沙論』同所の科学的説明によると、
1昼夜=30須臾(しゅゆ)、
1須臾=30臘縛(ろうばく)、
1臘縛=60怛刹那(たんせつな)、
1怛刹那=120刹那である。
1昼夜を24時間として計算すると、1刹那は75分の1秒になる。
仏教哲学では「刹那」は、物質的、精神的、
なかんずく精神的な現象の瞬間的生滅を説明するときに使われる、と辞書には書いてある。
私には難解過ぎてまったくわからないのだが、感覚的には「瞬間的生滅」という言葉で
今の自分を他者へ説明しなければならない場合、これは使える、と思った。
このフレーズがしっくりくるのは間違えではないし、嬉しい発見にもなった。