どうか僕にこの案件を最後まで任せてもらうことはできませんか?
彼の経歴は華麗で見事だ。
ただひとつ難点があるとするのであれば、若いという以外私には思いつかない。
性格も温厚で、人格も整った人物。
以前、紹介されたときに、こんな人が世の中にいるのだと私は思った。
やっぱり日本人は優秀なんだ、と。
不安定なものをどこまで受容できるのかが、たぶん人生というやつの正体だろう。
その不安定極まりない「私」という存在を、見捨てるのではなく、任せて欲しいと頭を下げたというのだから
腹の奥行きや器量や許容や根性に至るまで、私は「彼」を見せ付けられた気になっていた。
輪郭があるわけではない。
人間の関係性という存在を語るとき、自分という“素”を表現するには、誰を受身に選ぶのかが重要になる。
目に映る世界が同じ人でなければならないだろうし、生きる尺度、思考、フレームワークといった領域まで
膠着語である日本語が通じ合う相手でなければ意味を成さない、それが関係の存在なのだと思う。
数値化できないものをどれだけ大切にして生きているのか。
人間というものは関係の中でしか存在できない生き物であるという本質を無視して、
取引の材料に、消費の対象に、資本の基本とでもいうような現状を
厳しく非難する目を持っている人間にしか、その素質を持っている人間にしか、
損得では語れないはずの領域を、つまり、品格や人格、価値や人間性といった力量を
身に付けていくことは困難だと思うのが、長く人生を、弁護士をやってきた自分の人生への私見だ、と。
どうか僕にこの案件を最後まで任せてもらうことはできませんか?と言ってくれた彼の上司との会話で
あなたという人物も、あなたが抱えている案件も、彼の人生を大きく左右するものになる。
だからこそ、あなたの素というものを彼にぶつけてやってはくれませんか。
彼はそこから必ず「人間の関係性」を確実に学ぶはずですから、と。
台風が去った後の日本橋には、爽やかな風がそよぎ、緋色に染まる西側の空のなんと美しいこと。
日本も悪くないわよ、と思わせてくれる人たちがいる。
そう思わせてくれるたびに、私の不安定極まりない立ち位置がすこしだけ地に近づく錯覚を覚える。
日本も悪くはない。
彼らに育てなおされている自分が心地よい。