燃えた、振った、本気で打ちに行った。内角高めのボール球。左手の600グラムのバットが一閃(いっせん)する。見事な空振りだ。大歓声。まばゆいフラッシュの洪水の中で、ミスターは悔しそうな表情を見せた。
「気持ちが高ぶっていて“さあ、打とう。打ってやるぞ!”という気持ちがあった。ボールが顔の辺りに来て打てなかったけど、いい球だったら打っていたと思う」
夢の始球式。愛弟子の松井が投げ、原監督が捕手、安倍首相が球審を務めた。まさにオールキャストのセレモニーだ。でも、栄光の背番号3のユニホームに身を包んだミスターには、打席は真剣勝負の場だった。まだ麻痺(まひ)が残る右手は握力が戻っていない。ポケットに入れたままだ。バットも左手だけで振れるように軽量の特注品。ただ、バットを構えると背番号3が輝きを放つ。444本塁打、2471安打を放った大打者・長嶋茂雄がそこにいた。恐ろしいほどの威圧感。それに圧倒されたのがマウンド上の松井だった。「監督の“打つ”という殺気を感じました」。ブルペンで10分間の投球練習をしてきたが、ボールは高めに外れ、ミスターのバットは空を切った。
頭を抱えた松井は会見で「すみません」と謝罪し、こう振り返る。「監督にインハイを打たないといけないと練習させられてきた。だから同じところへ投げた。実はもう1球投げたかった」。04年に倒れて以来、初めての打席、初めてのスイングだったからこそ、打ってほしかったのだ。
実は、事前の打ち合わせでは空振りする予定だった。球審役の安倍首相に、ファウルチップが当たる危険性を考えてのことだ。打ち合わせで「空振りしてください」と頼まれたミスターは渋々了承したという。捕手役の原監督もマスクを付けなかった。でも、打席に入った瞬間、野球人の血が騒いだ。本能で打ちに行っての空振り。異変を察知した原監督も避けるようにして捕球した。
この日のため、毎日50スイングの素振りをしてきた。バットを使うリハビリメニューは医師の薦めもあって以前にも取り組んだが、この素振りはミスター自ら取り入れた特別メニューだ。関係者は「始球式で打つつもりで練習していた」と明かした。全国のファンにボールを打てるまで回復した姿を見せたい。だから今回の始球式が決まったとき「松井はストライクが入らないんじゃないか?」と真剣に心配していた。そんなミスター得意の予言は図らずも的中してしまったが、愛弟子に野球人としてあるべき姿をしっかり示した。
常に「ファンのために元の自分に戻りたい」と話すミスター。どんなときもファンの期待に応えるのが野球人という信念は、脳梗塞に倒れてからも不滅だ。ファンが待っているから、つらいリハビリに耐え、いつか必ず元気になってグラウンドへ戻る。この始球式だって通過点。ファンと松井に見せた空振りは、完全復活への序曲だった。