国際社会・国連承認の下、イスラエル建国
第二次世界大戦後の1948年5月15日、国際社会・国際連合の承認の下、平和裏にイスラエルとアラブは分割されました。 テルアビブの住民は街頭に繰り出し喜び踊りまくっていました。
1948年5月15日、午前零時11分(ワシントン時間5月14日午後6時11分)、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、暫定政府を「新生国家イスラエルの事実上の政府」として承認しました。
米議会は翌1949年1月31日付けをもってイスラエル国を正式に承認。建国3日後の5月17日、ソビエト連邦も新生国家イスラエルに国際法上の承認を与えました。
一次中東戦争の幕開け
ようやく平和が訪れたと思ったイスラエル市民でしたが、独立宣言から数時間後、14日夜半から15日未明にかけて、トランスヨルダンなど隣国アラブ5ケ国(レバノン・シリア・イラク・エジプト・サウジアラビア)の正規軍が、深夜に不意打ちのごとくイスラエルを攻撃。
最初にエジプト機が来襲しyテルアビブを爆撃を開始し、今のガザ地区を占領。 東エルサレムを含むヨルダン川の西側(ヨルダン川西岸地区)はトランス・ヨルダンが占領しました。
今、パレスチナ(アラブ)と呼ばれているアラブ人ではないのです。 これが、第一次中東戦争の始まりです。
第一次中東戦争の結末
もちろん、イスラエルは反撃し、15ケ月に及ぶ戦闘・停戦・戦闘を繰り返し、ユダヤ人口の1%近い犠牲者を出しながら独立を守り通し、翌1949年7月をもってイスラエルの勝利をもって休戦を迎えました。
この第一次中東戦争で、イスラエルはイギリス委任領パレスチナの約77%を支配下に治めました。
一方、東エルサレムを含むヨルダン川の西側(ヨルダン川西岸地区)は、トランスヨルダンが占領。
東地中海沿岸のガザを中心とした帯状の地域(ガザ回廊)はエジプトが占領しました。
さきの国連分割決議でアラブ領に割り当てられた地域の大部分は、ヨルダン、エジプトのアラブ2ケ国が占領しました。
イスラエルは北方のリタ川の線まで進行中でしたが、レバノン領からは完全に撤退しました。エルサレムは東西に分断されたままでした。
1949年、交戦国イスラエルとアラブ諸国は国際連合の仲介でそれぞれ個別に交渉w開始し、休戦協定(1月~7月)を結びました。ただしイラクは交渉を拒否。
この戦争で、双方に難民が生まれ、スラエル国内には約16万人のパレスチナ・アラブ人が残留し、イスラエル国籍取得しました。
イスラエル側の犠牲者は約6千人、負傷者はその3倍でした。こうしてイスラエルは民族存亡の激戦を戦ったのです。
無知で阿呆なネット民
こんな現実の常識も知らず、実社会で評価されない阿呆のyoutuberとそのフォロアーたち(不思議と反日・反欧米で、ウクライナ戦争でもプーチン・ロシアを応援)が、デマまがいの情報を毎日のように垂れ流しプロパガンダしています。
まさに、ひねくれリベラルど左翼の典型ですが、ニーチェの名言を紹介します。
「ひねくれずに真面目に働け!」
『何事も失敗の原因の本質は、無知・根拠なき思い込みと楽観! そして劣等感』
『正しい情報と正しく認識し、正しく論理を組み立てる。 また、倫理観も忘れてはならない。 そして形而学上の物事の考えを持つこと! これが哲学の心理の追求、科学技術について、最低限必要な考え方です』
Renaissancejapan