ミケランジェロのモーゼ像
ローマのサン・ピエトロ・インヴィンコリ教会
出エジプト記の背景にいささかなりとも史実があるとすれば、学者はつぎのようなことだったろうと考えています。
イスラエル人は周到な計画の下に、夜のうちに用意を整え、一家に一頭の子羊を食べ尽くして腹ごしらえをし、夜明け前にまわりのエジプト人を皆殺しにして出発した。
通信、交通がまだ発達していない時代のこと、こうしておけば通報が遅れ、追手がくるまでに時間を稼げる。
ついでに皆殺しにしたエジプト人の食料や家畜なども奪って逃げtのだろう。
しかし、遅ればせながらも「イスラエル人が良民多数を殺して逃亡した」とい通報が届き、俊足の戦車隊が追ってきた。
戦車とはニ、三頭の馬にひかせる二輪車で、当時のオリエントでは戦闘の花形だった。
大きな岩がゴロゴロしているような荒地では威力を発揮できないし、湿地や柔らかい砂地では車輪がめり込んで動けなくなってしまう。
それがモーゼの目のつけどころだった。 エジプトの戦車隊が迫ってきたとき、イスラエル人はむ海のほとりの湿地まで逃げてきていた。
この海は紅海ではなく、「葦の海」とよばれていた湖(現在はスエズ運河が通っているティムサ湖)だろうというのが、学者の一致している意見です。
エジプトの戦車隊は湿地にはまり込んで動きが取れなくなり、追跡をあきらめたようです。
エジプト軍がみな海に溺れたてしまったというのは、イスラエル人が後から付けた尾ヒレだというわけ。
聖書には「ファラオは戦車に馬を繋ぎ、自ら軍勢を率い・・・」とありますが、ラムセス2世が自ら出馬したといのは極めて疑わしく。
そしてイスラエル人が不毛のシナイ半島に逃げ込んだと聞いて、追討軍を差し向けることもしなかったようです。 これが真相。