魔法が解けたそのあとで

結婚、出産、育児、介護、お仕事。来た球を打ち返す、毎日のつれづれをつづりました。

豹変3

2009-03-07 11:42:09 | ママになれるかな編
そしてもう一つ、わたしの心の底にあったもの。
それは
「彼は結婚したかったから、結婚してくれるのなら誰でも良かったのではないか」
ということでした。

なぜわたしがそう思うようになったか。

それはやっぱり展開がすごく早かったこと

彼は5年近くまったく音信普通だったわたしに電話をかけてきたのが7月あたま。
そして入籍したのは11月でした。

一度破談になって、家を出て一人暮らしをしていた彼は、相当寂しかったんだと思います。そして、家事をやってくれる人が欲しかったんだと思います。

1年位前、わたしは彼の古い携帯メールを見たことがありました。
それで前の彼女のことについての嘘も分かったのですが。
彼が他に昔かかわりがあった女性に送っていたメールがありました。
それは、わたしに連絡を取る前の1,2ヶ月前に送信していて、かなりの部分、わたしに送ってきたメールと同じ文面のものだったのです。

それを見た一年前。
「ああ、誰でもよかったのか・・・結婚したかったんだな。結婚してくれる人を、彼は探していたんだな」
と思いました。
そこでわたしが引っかかってきた。
東京に行って、テレビでも取り上げられるような仕事をするようになっていた。
これはいい、と思ったんでしょう。
でも、あとからいろいろ、母のこととか面倒なことが出てきて、破談になりかけたけど、まあここまできたら仕方ない、と思ったのか結婚にこぎつけた。
二度も破談は世間的にもまずいし。

そう思いました。

でももう結婚してしまったし

何より彼のことが好きだったから。

それでもいいと思っていた。

「結婚してくれるなら、誰でも良かったんだ」
という思いは、ずっとそれからわたしのなかにあったのです。

でも、今、夫と、夫の両親が憎くて仕方なくなってしまった。
誰でもいいなら、別に私じゃなくていいなら、わざわざ大事なものをすべておいて来ることなんてなかった。
そういう思いがわき上がってきたのです。

夫は、わたしが携帯をみたことも知りません。
普段は夫の携帯なんて、まったく興味がないので見ることもないです。

忘れていた、忘れようとしていた思いが、表面に出てきてしまった。

不思議なことに、夫への変わることがないと思われた愛情が、わたしのなかから消え失せてしまったのです。
まるで、最初からなかったもののように。

夫の姿は何よりも愛しいものだった。
夫が寝ている顔を、なんとしても守りたいと思った。
夫が喜ぶ顔が見たいと思った。
夫の喜びが、わたしの喜びだった。
それが、わたしの生きていく、行動する基準だった。
生きていくうえの、決してなくなることがない気持ちだった。

それが、ある朝、わたしにとって、夫はただの男になってしまったのです。
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豹変2

2009-03-07 11:15:03 | ママになれるかな編
でた~!
夫の
「やってやってるのに」

これも喧嘩の原因のひとつ。

わたしも黙ってなくて
「じゃあ言わせてもらうけど」

妊娠してから8ヶ月、いくらわたしが妊娠に関する本を読んで欲しいと言っても「そういうのはお前が考えてやってくれ」
子供の名前を考えてと言っても
「試験があるから、それ終わったらやる」

でも、ネット・オークションだけは睡眠時間削ってもやってるよねと。

別に、何が重要かをジャッジするのはその人だと思う。
だからわたしの体のことを考えたり、子供の名前を考えたりすることより、オークションが大事なら、それはもう仕方ないと思う。

確定申告のようなことは、夫がやればいい。
わたしは彼がやらないことをやっている。
それで何がいけないの?責められないといけないの?

自分はよくて、わたしはだめ。
「ジャイアンか、お前は

そうしたら反省していた。
別に、謝って欲しいとは思わないけど。
「子供の名前も考えるし、妊娠の本も読む。産後に備えて料理の勉強もしたいから、教えて」
と言ってくれた。

この人の好きなところは、改善するキャパを持っていること。
いつもここに落ち着いて終わる。

しかし今回は違ったのです。

口論の途中で
「子供の名前なんて俺が決めるんだ。お前の実家にいろいろ言われたくない」
と言われた事なのか
「すぐ実家に帰るとか言って、恥ずかしくないのか」
と言われた事なのか。
(わりと頭に来ていると、夫はすごいことを口にすることがあります。
長男様、で相当好き放題なことを言ってきたんだろうな、それが許されてきたんだろうな、と思います。)

夫が謝ってきてからも、なんだか怒りがおさまらないのです。

そして次の日の朝。

わたしはいつもと違うことに気づきました。

起きて、夫の朝の食事と支度を手伝うためにキッチンで用意をしていたのですが。

夫の顔を見たくない。
夫のためになにもしたくない。

そういう気持ちがこみ上げてきたのです。

いつもの口論でした。
でもいつもと違った感情が湧き上がってきた、というか・・・いや、夫への気持ちがまったくなくなってしまったのです。

夫が、始めてみる人みたいに見えました。
なんでわたし、この人と住んでるんだろう?結婚したんだろう?

あんなにひどい目に合わされたのに。
3回も別れて、破談にもなりかけて、捨てられかけたのに。

「なんでこんな人を信じられたんだろう?」

そういう気持ちが、生まれていた。

「何があっても夫が好き」

という、長年わたしのなかに絶対になくならずにあった気持ちが。
自分の身のように、夫を愛して大事に思っていた気持ちが、どこにもなくなってしまったのです

何をするにも、ベースにあったもの。それが夫への気持ちでした。
何があっても、絶対になくならないと思っていたもの。
それが、一夜にしてまったくなくなってしまったのです。

夫の顔を見たくなくて、食事を出したら寝室に戻ってベッドに入りました。
夫は顔を出して
「行ってくるね」
と出勤しました。

おかしい、なんでだろう、どうしたんだろう?
わたしはベッドの中で混乱しました。

考えても考えても、夫がわたしにしたこと、夫の両親がわたしにしたこと、そういうことが思い出されて、悲しくて、悔しくて、涙があとからあとから溢れてきました。

夫と結婚するにあたって、わたしのなかで
「この人を信じていいのだろうか?」
ハードルがありました。

それを越えられたのは、彼の優しさと、自分の彼への気持ちでした。
だけど、信頼というものはレンガを積むように、ひとつひとつ築いていくものであって、一日にして出来るものではありません。

夫との、1年に及ぶ結婚生活の中でようやく培われたものだったのです。わたしのなかで。

逆に、夫は自分のことを思い続けてきてくれたわたし、というものに全体重をかけて甘えてきます。
それはそうでしょう。だって、10年、あんなにひどいことをしても気持ちは変わらなかった女は、わたしくらいなものでしょうから。

とても傲慢に聞こえることだと思いますが、夫への信頼と、夫の私への信頼は、まったく違った経緯を辿っているものなのです。

あれだけいろいろあって、その上で信頼を築いてきたのに、それを当たり前だと思っている、夫の脳天気さに、怒りを感じたのです。

そして、前の彼女のことで嘘を突き通したこと。
これも許せませんでした
流産した直後、夫の嘘が分かり、追及した時に最後まで嘘をついたこと。
そうやって騙していて、信頼に値する人間なの?
そういう怒りもわいてきたのです。

夫が、憎くてたまりませんでした。

なんで、好きだっただけなのに、こんなに苦しまなくてはいけないのか?

そういう思いで頭がいっぱいになってしまいました。



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豹変。

2009-03-07 10:47:55 | ママになれるかな編
前回のブログ、1月でしたね
す、すみませぬ・・・
もう三月だし

実は訳があります。

過去のことを書いていくにあたり、昔の日記など読み返していたのですが。
結構つらい記憶でしたわたしにとって。

そのせいか分からないのですが。

2月にはいって、夫と口論になりました。
いつもとかわらない、夫が不機嫌になって怒り出し、わたしが反論して口喧嘩になり、夫が謝る、という。
なぜいつも夫が謝るか、というと、
2人の人間が一緒に生活しているうえで生じる「やり方のちがい」というもの。
それをわたしはあまり指摘しないんですね。

人に迷惑になることは言いますけど

わたしの家でもあるけど、夫の家でもあるから。
以前ひとりで住んでいたマンションとは違うのだから。
そして2人で住んでいても、個人なのだから、ひとりで何かやっている時は干渉しない。

だけど夫は結構言うんですね。
なんでも一緒にやりたい人なので

そして結構自分がやってないのに、人には言う

それでわたしが
「じゃあ自分はどうなの?わたしはこうこうしてやってるけど、いろいろ理由つけてやってないよね?」
って言うと、大体我にかえって謝る
その繰り返し。

今回は夫が確定申告を自分でやる、と言ってて、数字を調べて入れてきたものを「見て」
って言われたんですね。
でもさっと目を通して見ても、まあこんな感じ。というわけですぐ置いといたわけです。
そしたら
「やってやってるのに、協力する気がない」
と怒り出したわけです。

「やってやってる」
これは夫の口癖。
わたしは悪い癖だと思っているのです

これを言い出したらキリがない。
わたしも以前は「こんなにわたしがやってあげてるのに!」と思う気持ちを持っていた。
でも、
「やってあげたいのは自分の気持ちであって、それに対して感謝されたいとか見返りを求めるのは違うのでは。
やってあげたい自分の気持ちが済んでるのだから、それでいいじゃないか」
と思うようになってから、無理に人の都合に合わせたりすることなく、自分の余裕がある時にやれることをやる、というスタンスに変わりました。
だから
「やってやったのに」
という言葉は出ない。
むしろ
「自分にさせてくれて、ありがとう」
という気持ちが出てきた。
不思議です。

それでもたまに
「やってあげたのに」
という気持ちが出ることも、ありますけどね

実は
「こんなにやってやった」
というと
「台無しだ」
と言っていたのは父なのです。
父はそういうことは美しくない、と思っているところがあり、一切自分が骨折ったことは人には言いません。
損してるよな~と思う娘でありますが、いさぎよいな、と尊敬しています。
逆に「やってやったのに」という言葉が多かったのは、母なのです。

人は往々にして「やってもらったのはその人が余裕があるから。」と思いがちだし、人にしてもらったことについてどんなに大変だったかなんて思いをはせることがあまりないものです。
たんに「ありがとう~☆」で終わってしまうのはそのせいだと思います。
たまに察してくれる人もいますが。
そのため、母はいつも
「私はあんなにやってあげたのに、あの人は何もしてくれない」
という愚痴をこぼし、恨みに思っていたりすることがありました。

それを見て、そういう風に言うのはやめよう、と思ったのも事実です。
教師・反面教師。

つづきます。
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