もう11月ですね。
イベントがやっと終わり、忙しい時期が過ぎ、一山超えられました。
波があるのは変わらず、予定が2つ重なったりするとちょっと疲れてきてしまう感じです。
以前だったらこともなく、まあ少し大変だけど!と乗り越えられたことが、今は出来ない・・・
悲しいことです。
11月あたまに、両親が上京して、ある漢方医さんの診察を受けることになっていました。
それにわたしが付き添うために、子供の行事を早く切り上げて上京。
前日まで「行けるかな・・・親になんて言ったらよいのだろう」と不安でした。
姉にはうつ病になってしまったことは知らせてあったのですが、親には言えなくて。
両親はふたりとも不治の病に罹ってしまっているので。
でもその漢方医でわたしも診てもらうことになっているので、言わないわけにもいかず。
山手線をほぼ半周する間に、父と母の間に座って、久々に話をしました。
母はその前日に後楽園のホテルで催された同級会に出席して、その時のことを嬉しそうに語ってくれました。
母は10歳に父を脳溢血で亡くし、それまで世田谷で乗用車がある生活をしていた人でした。
行政関係だった祖父が満州に渡り、そこで産まれた母は、あやうく置いてこられるところだったそうですが、2歳の母が必死になって祖母のあとを着いてきて、「置いてこれなかった」と祖母は言っていました。
満州では宝石や毛皮をたくさん持っていたけど、全部置いてきた、とも言っていました。
戦後史を大学で学んだわたしとしては複雑な気持ちではありましたが。
その後、東京で生活していたのですが、大黒柱が急逝し、祖母は実家のある地方に帰り、そこで母は育ちます。
当時、東京から来た転校生は「マドンナ」だったそうで。
母は私のことを見に、休み時間になると教室の窓や扉に人だかりが出来た、と言っていました。
ある時母の同級会に父が付いていったら「奥さんはマドンナだったんですよ!」と同級生たちに言われ、父は「本当だったんだ」と態度をあらためて、母を丁重に扱うようになったとか?
そして今回も、スピーチをさせられちゃった、と嬉しそうに話していました。
いつも話題に上るのが、Aさんという男性のことなのですが、この方はある有名人女性の旦那様で、今はご自分で会社を経営されているのですが、母の初恋の男性なのです。
母は自分の病気のことを、同級会のお開きの直前に打ち明けたそうです。
そしたらその方は自分の奥様も20年も患っている。頑張れ、と言って、別れ際背中をさすってくれたそうです。
気持ちが優しい人なんだなあ、と思いました。
母はとても嬉しかったらしく、また、マドンナとしての自覚に再度目覚め、
「みんなまだ現役で頑張ってる、わたしも頑張らなくちゃ!」
と元気を出してました。その時に撮った写真は、とても綺麗な母で、少し驚きました。
あと少しで着く、という時に母に「実はいろいろとあって、調子が悪くなって、うつになってしまった」と打ち明けました。
母は
「わたしもお母ちゃまが亡くなった時にうつになって病院に行ったよ。
薬もらって飲んだけど、変にハイになっちゃって、飲むのやめたけど。
もし旦那さんと一緒にいるのがつらいなら、こっちに来ればいいじゃない」
と言ってくれました。
その時、わたしは老いた両親を知らないところに連れて行かなくてはいけない、という緊張感もあり、しっかりしていたと思います。
でも母は「大丈夫そうじゃないの、なに言ってるの!」などと言わず、受け止めてくれました。
その後、漢方医に見てもらい、後日診察の予約をして帰りましたが、父の病気は得意な先生らしく、
「良くなりますよ!大丈夫!」
と言っていただきました。わたしも
「あなた、目がしっかりしている。大丈夫、良くなりますよ!」
と言われました。
久々に両親と会い、途中でゆっくりお茶を飲んで、また山手線を半周して帰宅しました。
姉が餃子をたくさん作っておいてくれ、それをたくさん食べて、また新幹線に乗って帰ってきました。
昼に着いて、8時ごろ帰宅、短い滞在でしたが、「本来のわたし」に戻ったようでした。
娘を置いてきたので、姪も「りおちゃんいないと、前に戻ったみたいだね」と。
そう、わたしはこうやって、両親と姉の家族と一緒にいつも居たのです。
楽しかった。
わたしは仕事から帰ってきて、姉は食事を用意してくれ、みんなでご飯を食べる。
そう、こういう生活をしていたのです。
今回、弟家族が近くに引っ越してくれたので、この冬から両親は姉と同じマンションの部屋で避寒生活に入ります。
弟家族が出た部屋は、わたしが以前住んでいた時のようでした。
そう、ここがわたしの居場所だったのだ。
わたしがかつて居たところは、元に戻ったのです。
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