ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

佐藤隆房著「宮沢賢治」

2013年03月18日 | 随想・日記

    

 米村みゆき著「宮沢賢治を作った男たち」には、佐藤隆房著「宮沢賢治」が取り上げられていない。賢治を作った著書としてはトップに挙げられていなければならない重要かくべかからざる本であったのにと思った。

 さて、表題のこの著はゴーストライター説が以前から聞かれた著である。

 ブログ 「みちのくの山野草」に、あるときゴーストラー説が書かれておられたので、ご本人にお聞きしたことがある。

  なにか資料でもとお聞きしましたなら、菊池忠ニさんからからお聞きしたとの事でした。

菊池氏は佐藤勝治さんから聞かれたとの事である。

 勝治さんは「山荘の高村光太郎」でもそうですが、ご自分に不利であってもまず、他人の拙事は書かないように心掛けられていた方であった。勝治さんは、噂ではなく何か確たる事実を知っていたのか、今では聞きようもない。

 話がそれるが、勝治さんは「山荘の高村光太郎」にも、また他の処でも佐藤隆房の名をかたられない。また、光太郎を山口へ行かれる当時の事が書かれている佐藤進著「賢治の花園」にも、行先である勝治さんを一言も書かれていない。勝治さんも、隆房親子も、お互いに嫌ったように一言もかかれない。「おもいで 光太郎 記念集」没後30回記念で、やっとおしまいから8番目程度に勝治さんがみられた。勝治さんを外すことはできなかったのである。

 さて本題であるが、昭和十七年に冨山房から出版された「宮澤賢治」であるが、ゴーストライター説が最近少しあきらかになってきた。

 

    つづく


勝治さんと光太郎「雨ニモマケズの碑」

2013年03月18日 | 随想・日記

 勝治さんの「山荘の高村光太郎」に、「雨ニモマケズの碑」と題されて記されている処があります。勝治さんの ものの見方 考え方と、情緒あふれる人柄がでている文でわたくしは好きです。以下ご紹介したい。

   雨ニモマケズの碑

 花巻にある宮沢賢治の雨ニモマケズの碑は本文の傍のところどころに、後からの書入れがあって、ちよっと人にふしぎな感じをあたえます。石碑に後から書き入れられ(彫り入れ)があるのはずいぶんめずらしいことでしょう。

 それはこういう事情です。

 ある時私が先生に、桜(碑のある場所)の詩碑は、どうして詩の後半だけを、それも原文とは少し変えて彫りこんだのでしょうかとおききしました。

 先生は例のぎょとした表情をなさいました。

 「あれは違うんですか」

 全く意外だというように答えられました。

 「僕は花巻の宮沢さんから送ってきた通りを書いたですよ。

 僕も詩のはんぶんだけではおかしいと思って、その事はきいてみたのですが、余り長いから前半を略したので、そのまま書いたのです。 

 どこか違うんですか」 

 そこで私は、原文を口誦しながら、碑との違いを説明しました。先生は全く初耳だ、それはどうにかしなければならないと言われます。

「大体詩をなおすなどということはけしからぬ事です。何のまちがいだろう」

 先生は憤然となさいました。

「花巻に行ってきいてみましょう」

 先生はこのことのためにわざわざ花巻へ出かけられたと思います。

 あの、省いた「松ノ」と「ソノ」という文字はあまりたびたび重なるので、宮沢清六氏の提案で、原文から取ることを関係者たちが決め、それを先生に送ったのだそうであります。

 この事は余程先生は気になったものとみえて、間もなく、碑に書き入れをして来ましたよと言って、花巻から帰って来られたことがありました。

 だから桜の詩碑は、世界でもめずらしい書入れがあるのであります。 (146~148頁)

 

 雨ニモマケズの「ひでり」問題に関連して、何時かは「釈明」文を私も書かなければ。照井謹ニ郎氏を東京の研究会で話をしさせた人間として。

      


宮澤賢治の肖像

2013年01月18日 | 随想・日記

    

        

 『「宮澤賢治入門」は、旧著「宮澤賢治の肖像」(昭23)と、「宮澤賢治批判」(昭27)の二冊と、若干の削除・増補した』本だと「みちのくサロン2号」に、勝治さん本人がそのように書いている。

 『「山荘の高村光太郎」あとがき』(207P )には、高村光太郎が、十字屋書店へ照会された経緯及び印税の契約の事などと、『本の題名を「法華経の行者宮沢賢治」とした方がいいではないか』等と言ってくれた。著書名に付いてはあの時は古めかしい名称だとおもい、その名はいただかなかったと書かれている。姉崎嘲風の「法華経の行者日蓮」が思い出されたのである。

 勝治さんはわたくしに、この本は「宮澤賢治の肖像」にしたかったが、「この署名は森さんにもっていがれたもんや」と話された事がある。たしか森さんの本よりも勝治さんの本が世に出たのは早いはずであるが、勝治さんは私に話された様なことは何処にも書かなかった。勝治さんは「肖像」には拘りがあった(「山荘の高村光太郎」ー能面についてー)。むしろ『「山荘の高村光太郎」この本の成り立ち』には、この本の「山荘の高村光太郎」が出来たのは森さん等のおかげだと、感謝の気持ちを最後の一行に記されいて、決して個人名で他人の事を悪く書かなかった人であった。いまだに私は良き先輩のようにできずにいる事が恥かしい。

 「美」のことに関してはここでは省略する。恥の書きついでに次回はもう一つ花巻の人を書きたい。

   つづく

 

 

 

 


美の宗教

2013年01月15日 | 随想・日記

 

 「山荘の高村光太郎」の「高村光太郎の思い出ー懐かしい先生ー」(75頁)に

  私が山口で先生と御一緒に暮らしたのは、昭和二十年の十月から、昭和二十二年の三月までであります。

と記されている。「コスモス協会」が出来たのは二十三年の暮れか二十四年の初めころだったのかもしれないが、その頃からわたくしは佐藤勝治氏を「勝治さん」と呼んでいた。いや正確に言うと「かっんちゃん・かっちゃん」と訛って呼んでいた。いやいや「つ」の小文字には濁点が付いていたかも知れない。佐藤名が多かったからでもある。というわけで、ここでは失礼ではあるが佐藤勝治氏を勝治さんと記すことをお許し願いたい。 

 勝治さんが盛岡にお店を出されて、長男のお子さんがお生まれになったころである。「お手伝いさんが欲しいが、心当たりがないか」との事。中学を卒業したばかりの農家の女の子を紹介したが、はたして役にたったのか私は知らない。その子にもまた勝治さんにも聞く機会を逸した。

 勝治さんは何時の頃からかはわたくしは知らないが、姉崎正治の「法華経の行者日蓮」や「美の宗教」(博文館)を読まれていた。「美は芸術にも、詩にも歴史にも、人の心にも、善の行にも、又聖者の一生にも見える。美を愛する愛が真の無私の愛である」(美と宗教60P)と彼は深く心に抱いていた。著書「山荘の高村光太郎」はそのような本であるとわたくしには思える。

 つづく

 

 


佐藤勝治さんに事

2012年12月31日 | 随想・日記

          

 小倉豊文さんの「宮澤賢治聲聞縁覚録」に、「三人の佐藤さん」(23p~)なる文がある。その一人に佐藤勝治さんがおられて詳しく記されている。

 佐藤さんにわたくしがお逢いしたのは、山口の小学校の教師を辞められてまもなくの頃であった。勝治さんが盛岡で写真屋さんを開業してからもわたくしが東京に来るまでは随分お世話になった。

 花巻の町長に北山さん(後に国会議員に当選・社会党の副委員長。地方行政のエキスパート、国会で活躍の北山愛郎氏)がなられた時に、松舘さん(古本屋さん・北山さんの腹心)や多田実さん(当時町の土木課におられた。「宮澤賢治研究Annualにも論考あり)それから 画家の寺島さん、そして佐藤勝治さん・佐藤薫さん(小原医院の娘さんで津田を卒業された方)そして村井さん、上町の島電気店の島さん等々の面々で、北山さんを中心に「コスモス協会」という文化団体?なる会ができたことがある。ニ階の町長の机や、役場の左隣の建物の土木課で、職員が退社された夕方から私たちはよく集まり、女学校の隣の当時出来立ての「公民館」?で、東京からの文化人を招き講演会を行った。また島さんの好意で店から最新式の電蓄を運び、売り物のレコードで、レコードコンサート等を数度やったことがある。講演会等も含めた会は月にニ度ほど開いたこともあった。ポスター書きや、それを町に貼ったが、集まってくれた人が公民館いっぱいになることはなかった。

 上記の小倉さんの本106頁にこんなことが書かれている。

  佐藤勝治さんは今盛岡で写真屋さんを開業しているとのことだが、勝治さんの兄さんは前から宮澤家と同町内で写真屋さんをしていた。そして花巻農学校へ生徒の卒業記念写真をとりに行った時、賢治から一枚私を写して下さいと頼まれ、校舎に隣接した実習場で写したのが、あの最も流布している、中折帽をかぶり、オーバーの襟を立てたまま、ややうつむいて両手を背後にまわし、さりげなく立っているポーズの写真なのである。

勝治さんの実家(佐藤家)は「藤田屋写真館」で、宮澤家から南・豊沢橋川方向ニ三間隣であった。

 勝治さんについてのお人柄が良く記されてい本は、何と云っても「山荘の高村光太郎」だとわたくしは思う。

この本の92頁に賢治の「月天子」の項に、高村光太郎の詩「月にぬれた手」が採りあげていて、「美の宗教」について語られている。 (つづく)

 

 


宮澤賢治研究

2012年11月06日 | 古書

  

    宮澤賢治研究 (2)    

 

  農民蕘術社     宮澤賢治研究       

  宮澤賢治友の会  宮澤賢治研究       

   

 


宮沢賢治研究 草野心平編 宮沢賢治全集<別巻>

2012年09月10日 | 随想・日記

      

      宮沢賢治研究 草野心平編  宮沢賢治全集 <別巻>

 

  発 行 所  初版 発行月日             ※通称

 十字屋書店   昭和14年9月6日        ※<別巻 (雑編)あり>S19・2・28

  筑摩書房    昭和33年8月15日       ※{全集31年版(上製本)}S31・4.25/32・2・27

  同   上    同  上               ※{全集33年版(並製本)}S33・7・25/34・5・10

  同上    昭和42年8月25日       ※  全集42年版 別巻   S42・8・25/43・12・25

  同上    1980年12月20日       ※  新修全集版  別巻    1979・5・15/1980・8・30

 

  宮沢賢治全集 別巻以外に 新装再刊版 筑摩書房  宮沢賢治研究 Ⅰ・Ⅱ  S44・8・8 

 

   <宮沢賢治研究引用の際はどの版からの引用かを明記されると読者が便利です>

  上記記載で不正確な点は修正を致したいので、ご指摘をお願い致します。

 

 

 

   


「大正デモクラシー」群像のある写真

2012年08月28日 | 随想・日記

 

 

   「 農民芸術の興隆 」の面々

 デフオー  ワイルド  モリス  トルストイ  シペングラー  ワグナー  マイネ  セザンヌ  

 エマーソン  ロマンローラン  カーペンター  トロッキー  

  (更に室伏高信・・・・・)

 

         

       写真画像 は  「日本農民詩史 上巻」より

  大正デモクラシーの源流に、憲法発布前の自由民権運動にあるのではなく、社会主義運動にあるとする吉野作造は、社会主義にも種々のグループがあり、その中で彼が接触したのはキリスと教に関連ある阿部磯雄や木下尚江・石川三四郎のグループだという。日露戦争後、幸徳秋水や堺利彦ら社会主義運動主流と決を分かった「新紀元」の派で、彼らこそ日露戦前における日本社会主義運動の先駆者であったとする。社会民主党の宣言は阿部磯雄の筆に成り、そこには土地・資本の公有、階級制度の全廃など社会主義の「基礎綱領」とならんで、当面の実際運動の為の綱領として記されて有った。

 賢治は、石川は「非進化論と人生」を、『この書を土民生活の殉道者 田中正造翁の霊に捧ぐ」としたこの書に大きい影響雄を受けたであろう。坂井や西山拓が記したように賢治はこの時代を活きていた。また中学先輩の石川啄木の「時代閉塞の現状」おも読んでいたろう。 

 松永伍一は「詩を通じた農民の思想史」を詩に賭け、おのれの階級的立場を掴んできた人間の思想のひだに、歴史の動脈を探りたいとして上記の書を遺した。

   (賢治とユートピアについては後日に譲る)

 

 


E・カーペンター

2012年08月23日 | 随想・日記

  

   ※ 坂井健氏の論を読んでいての雑感 ※

 「農民芸術の興隆」との関連で(以下拡大してご覧下さい)

            第三篇 土民生活   第四章 小農土民 

 本文五行下のほうに「多少は鍛冶屋の仕事も出来る。」とある。「カーペンター 少年機械工の例」とは異なるが、小農の民は大工仕事も鍛冶仕事も行ったのではと連想した。古い話であるが、母の生家に行く時に三差路の鍛冶屋を目標に、そこで道を間違えないようにいった。田の仕事の暇を見つけての鍛冶屋さんで有った。裏の井戸で水を貰い仕事を飽きずに見て居た頃を思い出した。

 写真は、大日本文明協会(大正十三年発行)カーペンター著 宮島新三郎訳「吾が日吾が夢」からである。古本で千円程で売られている。賢治はこの書も読んでおられたと想う。とうぜん坂井氏が記されている本もである。(『吾が日吾が夢』は「近代デジタルライブラリー」でも閲覧可)

 坂井氏が(七)で論じられている「宇宙」に付いて。賢治の「農民芸術慨論」核心をなす同質のものとして、「天地」を「宇宙」「銀河」といいかえたならば賢治のことばであるといっても通用しそうだとしている。

 広辞苑では「天地」を「宇宙」ともしているが、石川の「地」や「天」は、賢治の科学に関する宇宙観とは明らかに異なると思う。坂井氏の「宇宙」論がこの論の成立キーポイントであろうか。

 


非進化論と人生・石川三四郎

2012年08月22日 | 随想・日記

   石川三四郎の「土民生活」は、宮沢賢治の羅須地人協会や農民芸術慨論綱要との関連で話題研究の書である。

         

  坂井健氏に就いては前回触れた。「宮沢賢治研究 Annual 14」(2004年3月 宮沢賢治学会イーハトーブセンター発行)

 「理想社会と自給共同体~アナキスト石川三四郎の『土民生活』~」(左側の「えこふあーむにゅーす」をクリックして更に上記論をご覧ください)及び西山拓「石川三四郎の理想社会論ー新興共同体の連帯についてー」(ソシオサイエンスVOL.8 2002・3でダンロード可)等である。

             

 写真・この本は参考文献・註等が大変参考になる書である。一読お勧めである。又Mixiで「だるま舎」を名乗っている平山氏のブログを紹介する。氏は御子息に「三四郎」と命名する程の三四郎フアンである。http://daruma3.cocolog-nifty.com/nh/ 


ルクリユの進歩観

2012年08月21日 | 随想・日記

               写真図は 『地人論』より

 

 「非進化論と人生 第一編 進化及進歩 第十二章 ルクリユの進歩観」冒頭に

   エリゼ・ルクリユは、其大著『地人論』第六巻の最末に『進歩』と題する一章(五十頁の長論文)を設けて居る。参考の為め左に之を摘録する。

 とある。 紛らわしいので此処で少しく是に触れて措こう。

 「石川は『地人論』第六巻の最末」と記したが、『地人論』は「第四巻 現代史」迄で、この第四巻の「最末」第十二章 進歩であって、訳者の序に(全六冊)と記されているように「巻」と「「冊」の間違いだろう。つぎに

 坂井氏論(三)にも採り上げられているが、「非進化論と人生」に『地人論』から第二篇とされた「地的環境論」末に少し触れたい。石川は『地人論』第二章の最末に

  諸国民の発達そのもそが、即ちこの環境の変化を附帯するのである。時間は空間を絶えず変化する。

  そして坂井論にも引用されているように「石川生曰く、・・・・・・・以下略」が記されている。

 誤解を恐れずに云うと石川はすべからく「進化」ではなく「変化」であって、「進化」が嫌いなのである。進展や発建も変化だと云う。進化学の丘や八杉竜一等の歴史と方法論には与しないのだろう。余談だがわたくしは進化論者に与したい。 

 


エリゼ・ルクリュ・地人論

2012年08月20日 | 随想・日記

       

 坂井健氏の「石川三四郎と宮沢賢治ー『非進化論と人生』と『農民芸術慨論』-が2004年に宮沢賢治研究にでている。

 「非進化論と人生 序」に「『第二篇 地的環境論』はエリゼ・ルクリユの大著『地人論』第一巻第二章の全訳で、」在ると記されている。坂井氏の詳細な論があるのでここでは蛇足を弄しない。

 写真に掲げた「地人論」は春秋社から昭和五年六月に発行されているが、賢治の蔵書「非進化論と人生」は大正14年であるから、写真の「地人論」発行よりは早い出版である。

 第二章は35~110頁の間に17図在るが原本には約三倍ほどもあると云う。アマゾンやタリム川の民俗豊な写真が多い。

 「附地人論第二巻以下總目録」が出ているが、「第四巻 現代史 第十二章 進歩」である。これを覗る限り「第六巻」は無いようだ。

 

  つづく


南部アカマツ

2012年06月13日 | 随想・日記

 

 先月のある新聞に、「昨年度松くい虫被害」の報告が「県花巻農林振興センター」からとして報じられていた。前年比より「減」であったが、今年は多くなりそうだとの事である。センターでは「花巻市の胡四王山や北上市の森林公園など景観上重要な松」は守っていきたいとしていた。

 賢治の作品に、植物で一番多く出ているのは「松」である。わたくしは105位の出典かと思っていたら「宮澤賢治語彙辞典」によると、なんと「都合165か所も登場する」との事だ。 

 余りにも良く知られている羅須地人協会後地の桜の詩碑の書き出しに、最初は「野原ノ林ノ陰ノ」と彫られ、「松ノ」が抜けていたが後に補則された。この近辺は「アカマツ林」が多かったが、今は見られない。

 胡四王山山頂のあの松は、かっては花巻の何処から見ても、最っと茂って見えた。「農林振興センター」ではないが、何とかこれ以上景観を損ねさせたくないものだ。

 アカマツは、岩手の固有の針葉樹資源として、明治20年代の東北本線開通を契機に急速に伸びたとされているが、戦時中までは、実相寺の墓地の南側から飯豊・大谷地にかけては、大半はアカマツ林であった。新国道にもアカマツが並木として植えられていた。賢治詩碑の周りも、松の林で有った。これとは異なるが、近年「アカエゾマツ」が早池峰山北面アイオン沢に100本ぐらいの天然林が石塚一雄氏によって確認されていると言う。

 岩手県の県木は「ナンブアカマツ」だそうであるが、害虫のことおも含めてこの県木をもっと市民に関心を持たれて欲しいと思う。

 松はサイナン続きである。


「畑のへり」 麻 小考

2012年06月11日 | 随想・日記

 

   「宮沢賢治全集7」(ちくま文庫)に「畑のへり」があります。

 この「畑のへり」については、天沢氏の解説や続橋氏の「『畑のへり』のことなど」(初出 ≪宮沢賢治童話の世界≫)昭和51・2)等素晴らしい論考がありますので、この童話の解釈や意味内容に付いてはそちらをお読みして戴くとして、ここでは「畑のへり」のぼうとうに「麻が刈られましたので」とありますので、戦後は見られなくなりました麻に少し触れたいと思います。

 わたくしが子供のころには四・五年に一度ぐらいの割合でどこの家でも麻を畑で作っていました。売ることの出来なかった「クズ繭」や麻を、祖母が農閑期に糸車で紡いだ糸を、隣の松岡さんの機織り機で織上げていた。   チャルカはどこの家にもあった。(註)

 わたくしの家では50坪~60坪程の畑に、秋肥料をやり春4月に整地をしてそこへ麻の種を蒔きました。麻は密集植えをして茎に枝葉を少なく成長させるようにします。麻の種を蒔いたときに一緒に畑のへりにトウモロコシの種も蒔きます。トウモロコシは麻との同時成長によって、麻の横に伸びる枝葉を防ぎ、風害おも阻止する役目を果たします。9月上旬には、麻を刈り取るのではなく、根ごと引き抜きます。麻の根は畑ではなかなか腐らないからです。抜き取った麻は、土をふるい落とし押切で根を切り落とし、根は乾燥させて風呂などで燃します。麻の茎から皮を剥ぐやり方は色々あるようですが我が家では、下の小川に漬け置きをして、皮のはがれ具合を手で触り、頃会いを見て剥がして、水洗いをして持ち帰り白い糸に仕上げるのです。濡れている間に表皮の不尽物を、約幅5寸×長さ1尺56寸程の欅か樫の木の家の梁などの破材で作られた、ツルツル・テカテカした台でそぎ落とすのです。「機械のごとく 麻をうつ」(歌205)と真白い麻が出来上がるのです。

               

      上の写真は「所蔵図書目録99」で、賢治を読み解くのに参考になる辞書である。

 上右の写真に「麻」がみられます。拡大してご覧下さい。こんなかんじです。

 左側の手持ちの辞書は、「麻」の稿の「蕡」(フン・あさのみ)が読めませんでした。真ん中の昭和9年の縮刷版のものを右側に載ました。

 織物に麻だけではなく、からむし アイコ マダ(マンダ)等もあるのですが、マンダに付いて一言。 榀の木の樹皮を使い、田植えの頃から入梅にかけて樹皮を剥ぎ、水に浸して外側の皮を取りさり、内側の白い皮をうすくはぎとりそれを灰汁で柔らかくして使用したり、そのままでケラ・ハバキ・コダンを作ったりした。

 

  (チャルカ)

インドには、社会の基礎である農村の素晴らしさ、精神文明の素晴らしさがある。インドの人々の心の奥底のは、神への深い信仰がある。そして武器が暴力を象徴するように、チャルカはアヒンサー(非暴力)を象徴している。
 ガンジーはイギリス製の洋服を脱ぎ自分で紡いだ白い木綿の腰布だけの姿で集会にで、集まった人々に訴えた。イギリス支配からの独立を訴えた。
 インドの民衆は、イギリス製の綿布を脱ぎ捨て、チャルカを廻して糸を紡ぎはじめた。真の機械文明を築くために。ガンジーはチャルカに未来を託していた。(ムンバイの記念館の思いでより)


 詩でない詩

2012年06月08日 | 随想・日記

  

 

   

 

 誰我詩謂詩  誰か我が詩を詩と謂ふ       謂い

 我詩是非詩  我が詩は是れ詩に非ず

 知我詩非詩  我が詩の詩に非ざるを知つて

 始可興言詩  始めて興に詩を言ふべし      興とも

 

  良寛は「我詩非詩」といふ。詩に非ずといふのは、世間で通常詩と稱してゐるやうな詩とは違うといふのであろう。そしてその非詩たるところが実は詩そのものではないかといふ。漢詩の専門家からみれば良寛の詩は規則にかなつていないだろう。とても詩とはいへないやうな言葉遣ひであらう。それはまさしくさうでありながら、それが反って詩といふものではないかと、良寛は思つてゐるのである。唐木順三「良寛 四 良寛における詩」より(137~134頁)

 

  秋月龍は 

   詩でない詩 (「草庵集」鈔) 心中の物を写す

  孰謂我詩詩   たれか謂う わが詩を詩と、(以下略)

と記している。大意 は

  誰がわたしの詩を詩というか、わたしの詩は詩ではない。わたしの詩を詩ではないことを知って、始めてともに詩を語ることができる。(「禅門の異流」225p)とある。

星野清蔵「良寛の詩境」(307頁) 東郷豊治「全釈良寛詩集」(134頁)左の二書にも上記がある。

武村牧男「良寛の詩と道元禅」は秋月の影響と読める。

 大正十四年の「森佐一あて」 賢治書簡にみられる文と、良寛の詩境に近似していて楽しく感じられる。