「啄木と賢治の酒」の著者 藤原隆男・松田十刻両氏は、岩手県出身なそうです。
藤原氏は岩大出身・農学博士で、酒造業史の専門家とあります。
[ (株)熊谷印刷出版部 価格1800円。(平成16年)]
「酒というユニークな切り口から、啄木と賢治の作品や足跡をひもとき、
二人の酒観や人物像を浮き彫りにする。心地よく啄木と賢治の世界に酔いしれる」
「酒にまつわる探求がわかりやすい本」と本の帯に記されています。
啄木についての「酒観」では、小生の知らない事ばかりで、大変楽しく読ませてもらった。
ここでは賢治に関連して、少しきになったことを述べて、いくつかご教示をお願いしたいと思います。
賢治の「酒観」(飲酒観)については著者に同感です。
箱根での縄暖簾を潜り「モッキリ酒」の事や、
菅原源太郎氏からの聞いた話に
「人とのつき合いでは少量の酒も召し上がったし、タバコも少しは喫(の)みました。」と
ありますように、全くのゲコでは無かったようです。
さて、この本の目次にも在ります「花巻『精養軒』でのもてなし」のところに
「花巻駅の上には精養軒支店があった。賢治はこの『精養軒』を会場に、
藤原喜藤治(県立花巻女学校の音楽教師)らと一緒に、主として花巻の若者を
対象にしたレコード・コンサートを開いた。(258頁)
と記されています。
花巻駅の上に「精養軒支店」があって「レコード・コンサート」行なった話は、
私は初めて知りました。「花巻駅の上」とは駅舎にあったのか、花巻電鉄のほうにあったのか、
それとも、駅よりも「高い所」(?)にあったのか是非知りたいところです。
中小路の「精養軒」は、大正屋の北側にあり、石創りで戦後も在ったのは知っていますが、
「レコード・コンサート」が出来る「精養軒支店」。ご存知の方はお教え下さい。
次に「税務署長の冒険」と「藤根禁酒会へ贈る」に付いてですが、
私は真壁仁氏が「東北農民濁酒密造記」で詳しく取上げている「猫ノ澤事件」についてや、
『大正6年8月に「何警察署・何税務署」 ○濁酒を創ることなかれ○』 のビラの張出しの話は、
岩手県内でも広く行渡っていた。藤根へ行った賢治は、このビラを読んだのであろう。
村単位での密造もあり、逮捕者数や犯則件数等も、この頃に事情を真壁氏は書かれています。
『「藤根禁酒会へ贈る」が語るもの』について、以下のような 「和賀町史」に掲載されている事情もあった。
独りでのみ、みんなでのむ
ここで酒、というのは「濁酒」のことである。和賀町の人たちはまことにあきれかいるばかりの
大酒豪たちをかかえていたように思われる。のむ、というより、あびる、といった方がよいような
人がいた。うれしいといってはのみ、悲しいとといってはのむ。客が来たといってはのみ、
何人か集まるとのむ。濁酒の出来具合がよいといってはのむ。毎日三食ごとにのみ、
宴会があるとのむ。酒に明け、酒に暮れている感があるほど飲んでいたようである。
これほど愛飲されていた濁酒がいつごろから当町でもこのように大量に造られるように
なったかは判然としない。(以下略)573頁
「男は酒煙草・女は湯治」と題された、藤根地区の生活文化の一頁として記されています。
ちょっと横道に逸れましたが、「杉山農法」については梅木氏の論がありますし、
取上げて述べることも無いのですが、次に281ページに
賢治はまさに昭和二年九月十六日早朝に花巻の羅須地人協会を出て、杉山農法によつて
栽培された稲の出来具合をみるために岩崎村へ向かった。
詩の内容から判断すれば、賢治は鉄道を利用して藤根駅に降り立ち、
岩崎村まで歩いたと考えられる。 とあります。
私は、藤根へは歩いて行かれたと思います。横黒線を利用するのは列車待ちや、桜から
花巻駅までの歩く距離等から考えると、どうでしょう。時間的に無駄が多すぎます。
それに「春と修羅 第三集 1021 [ 甲助 今朝まだくらぁに ] 」にを視ても、当時としては
歩いたと推測出きると思われます。この詩の「甲助」は地人協会隣の「忠一」さんです。
私は濁酒(どぶろく)密造擁護論者ではありませんが、密造についての実状を、
販売目的で大々的に関わった事件と、農民のささやかな楽しみで濁酒(どぶろく)を
造っていた事に触れました。真壁氏の論考にもありましたが、許可を得ずに酒つくりを
することは法律に違反していることには変わりありません。ただ
『「葡萄水」や「毒もみのすきな署長さん」などとともに郷土の生活の一端に目を向けた作品』と
解したいのです。「税務署長の冒険」の作品末尾の名誉村長の言葉は、作者賢治の
人間観の一端を示す、従来からの解釈に賛成をするものです。