ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

K氏と・・・

2008年06月29日 | 随想・日記

 既に四半世紀ほどにもなるが、K氏と一杯やりながらでの話である。

 今日もアルコールが入っていて、しかもアルコールなしでも後期高齢者の認知症気味のわたくしの語りであるので、これからの話は眉唾ものゝ話である。K氏をご存知の方にはお許しを願ふ事になる。

 だいぶ長い時間二人で呑んでいたが、話が雨ニモマケズ手帳新考の「経埋ムベキ山」の話になった。小倉さんの言うように縦書きの文章を左から右へ読みなおしてよいのかどうかの話になった。横文字横書きの文章は左から読むのはあたりまえで、手帳にはそのようなところもあるが、「経埋ムベキ山」の頁で縦書きの文章を、左からの読みで、これでよいのかどうかと云うことになった。他のところはどうかについては、本を見ながらでないと良く解らないよ、と云う話になったが、その話は其処までになった。では旧天山をなぜ賢治はトップにもってきたのだろうと・・・。二人ともだいぶ酔ってもいた。どうも、あそこの山には法華経に関連した由緒正しい信仰がみられる、だからではないか、それに「キーデンノ」とはなぁ~、ムニャムニャとしどろもどろであった。

 次に賢治は、経埋めるべき山の三十二の数字には、何か意味が有るのか。どうのような考えで決めたのか。なぜ三十二なのかの話になった。私は、三十二の山全部については良く解らないが、どうもたいしたこともなさそうな山も含まれているようで、あまり関心できないと話していたら、K氏は、これはブラックボックスだ・・・・と。二人の酔っ払いは、あれこれと話しているうちにこんな考えにでくわした。三十二ではなく、三十三でどうか。法華経に観音経もあるんだから・・・・。観音霊場の三十三で、賢治も三十三霊場を考えていたのではないか。ふむ。それにしても、一ヶしょ足らんじゃないか。やはりブラックボックスだと、いってはまた飲む。そうこうしているうちにこんな結論?に達した。羅須地人協会の場所、アソコ・雨ニモマケズ詩碑のところをくわえる、どうだろう。山ではない突端の丘だから、ブラックボックスにしておく。どうだ・霊山の中心にする考えは。  

 このチン論をK氏は何処かに書いたのかわたくしは知らない。またK氏は今何処に居るのかも知らない。懐かしい本当の話である。どんどはぁレ