金田一京助著 「定本 石川啄木」(s26,1,20)と「新訂版 石川啄木」(s45,11,20・改版初版)より
切れ凧 -序に代へてー
糸切れし紙鳶のごとくに
わかき日のこころ軽くも
飛び去りしか
ー啄木ー
お互いに若い眸を湿ませて、返らぬ少年の日に思いを馳せた、うらぶれ時代の君の歌である。が、それさえも今は遠い昔となってしまった。
年若い君に先立たれた私は、君の亡きあとを、甲斐もなく生き残って、さまざまな世をも人をも見た。しかも新しい時勢が、君の言葉の一つ一つを裏書きして進展するのを、胸に躍らしてながめ、また遅蒔きながら、その後の人たちが、在りし世の君が深き歎きを歎き、君が尊き悲しみを悲しみ、ようやく君を発見し、君を想起し、ついに啄木愛が、男といわず女といわず、年若き全日本の声となってゆくのを目のあたり見て、涙せきあえず驚歎しながら、はた、当然そうなくてはならなかった期待の完全に充たされてゆく歓喜に酔いながら、謭劣の身は、日々の営みの劇しさに、みずから老いの迫るを知らず、不惑を夢の間に過ぎ、いつかまた知命の坂を越えていたのである。(以下略)昭和九年一月三日 著者識
例言
一 その方面に何の素養もない私が故人を語るのは、痴人の迷語に似るであろうことを深く恥じ入る。ただ一故旧として、生き残って故人を語ってみたい心のやみがたいものがあるのは、後世、人間啄木の全容を再現する日に、一毫の寄与ともなれかしと親しくこの耳で聴き、まのあたりこの目で見たところを記録しておこうとする微意にほかならない。(以下略)昭和二十一年三月下浣
新訂版の序
本書は、もと、年若い友、梓書房主人の乞うに任せて、おりおりに書いた故人に関する文章を集めた、四百ぺージ余の写真入り、鹿野紫の装丁本だった。それが、仮綴本なって知らぬ本屋が出したことなどもあって、角川書店が「飛鳥新書」の中に収めて出版した時は、切半して、上半を一冊にまとめ、下半を『続石川啄木』として、年譜などはこのほうへ譲って出したものだった。文庫本も、この上半だけで、年譜のない石川啄木になって世に行なわれた。年譜が私の骨折った啄木伝なのだが、他の人々の利用に任せて私の本には、とうとう埋もれてしまった。私はひそかにこれを残念に思っていた。ただし啄木日記が、刊行になったり、ことに、昨年、北海道大学に啄木の論文を出して卒業された岩城之徳君と、今年、早稲田大学に啄木伝を出して卒業された盛岡の昆豊の両君の、偶然一つに落ち合って啄木の故郷に、啄木伝の詳細な調査を踏査を実行されるに及んで、新しい事実が続々上がって、これによって、年譜の加筆を要することがいろいろとわかった。本文も、私の記憶で書いたものであるから、やはり、どうしても補正せずにおれなくなったのである。その由を角川書店に話したら、ちょうど、文庫版が、十版を重ねて、紙型が磨滅しかけたから、新版を出そうとする。ページの動き、かまわないから、補正結構ですと言って来たから、私の記憶ちがいを正すことができてほっとする。つづく