ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

河童沢の宮澤さん

2011年06月25日 | 随想・日記

 

 

 菊池忠二氏の「詩碑附近」は「宮澤賢治研究叢書」にもとりあげられて、あまりにも有名です。

わたくしはここではこの「詩碑附近」についてのいくつかの事柄の感想を述べたいと思います。

 わたくしは花巻町時代まで、つまり市になる以前までしか、桜には居りませんでしたから、わたくしのことを花巻市出身と言われると、ちょっと困ってしまうことがあります。

 しかし、そのせいか「詩碑附近」の事は、私どもが「宮澤さん」と呼んでいた河童沢の突端の賢治さんが居られた近景は、その頃(詩碑が出来た頃)の状況とが色濃く残っていたものと思います。そして今でもその頃が記憶に鮮やかにわたくしの思い出と同時に蘇ってきます。

 菊池氏が「詩碑附近」をお書きになられた昭和三十四年頃になりますと、「詩碑附近」は、わたくしの印象とは少しく変っております。場所の近景は又の機会に述べたいと思いますがここでは、「詩碑附近」に書かれています忠一さんのことに触れたいと思います。

 忠一さんが宮澤さんからいただいた本に、波多野精一の「宗教哲学」や「心理学」などの本とあります。写真の波多野精一の「宗教哲学」は、初版は昭和十年ですから、この本ではなく同じ著者の本で有れば「宗教哲学の本質及び其の基本問題」でしょうか。ですからこれはあまりはっきりしていないのです。

 忠一さんも「三十数年」経っている頃のことや、菊池氏の四十年近くの経過してからのことは、今ここで書いているわたくしなどは、もっと・最も危ないものですがご寛容の程をお願い致したい。

 ところで忠一さんや清さんについては、わたくしは、克己さんや慶吾さんこの二人とはだいぶ違った印象を懐いています。先輩にこういうことを申し上げるのは失礼か知れませんが、先の二人は純朴な農人、あとの二方にはあまり良い印象は持てませんでした。

 それはともかくとして、詩碑が出来てから詩碑の入り口からの路の南側は忠一さんの畑で、リンゴの木を植えてからは簡単な垣根が作られましたが、垣根の無かった頃には、忠一さんのお母さんが、朝早くから草取りをしていて、「へびがいたら、こっちさぼあねでけろや」と声を掛けられたのが思い出される。北側の沢の藪から、畑の野ネズミを狙って、蝉の穴の多い砂利の無い通路に寝そべっていたのが思い出される。

 波多野の「宗教哲学」について石原謙が、何かに評論を書いていたのを読んだことが有るが思い出せない。

 つづく