ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

詩碑の北側は松林

2011年06月27日 | 随想・日記

 

 わたくしの知っています「詩碑」広場の北側は、沢ぎりぎりまで写真に見られる程の太さの松林で、小木は刈り取られて、熊手で松葉を集められるようになっていた。

 今駐車場のある所は水田であったが、河童沢に流れている小川の南側も(現通路の南側)松林で、何処の松林も当時は「ごんどさりゃ」と言って、松林の保護を兼ねた落ち葉の収束地であった。(日本文学アルバム宮澤賢治 1963.6.30 家の周りに束ねて立てかけて有るのはそれです)

 建物の家は引っ越されてからは、釣瓶井戸とポプラの木のある北側は、広場から三四十センチ下がった境目に、大きな実のなる数本の栗の木があった。松林との境であり、雨の降った時の後にはつるりと滑ったから、赤土だったと思う。東側と南に面した崖には、杉の木が植えられていたが、あまり大きくなかったと思う。忠一さん寄りの崖は、雑木林だったようの思うが、定かではない。

 「詩碑」から外台に行くのには忠一さんの庭を通っていったが、広場の東南角を降りることもあった。たぶん昭和の十四五年頃だったと思う。

 「詩碑」の松林は、なんとも言えない、ス~ともゴ~とも聴こえる風がいつも松の梢で鳴っていた。

 佐藤隆房著「宮澤賢治」(昭和17年9月8日発行)詩碑除幕式の写真に見えます右側の杉林は、松林と違い朴の木なども生えていて、その大きな葉を何枚かを採った事が有る。正面に見える杉の木は、清Iさんの屋敷の木です。太平洋戦争中になると、忠一さん畑には、リンゴの木が植えられていたのか、よくわからなが写真にはそれらしくも見えますがどうだったのでしょうか。

 「詩碑」に  野原ノ松ノ林ノ影ノ  とあるが、ここの場所は野原では無かったが、素敵な松林に魅せられた「八景」の高台地であつた。

 (桜の八景地区は、河童沢へ流れている小川の境の南側の小高台地を言う)

 

 ※ 「宗教哲学」については日を改めます)