ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

賢治墓所「五輪塔」設計図の謎

2015年04月21日 | 随想・日記

          

        賢治墓所の五輪塔由来考雑感  (前回の続き)

 小倉さんの記述に「ところが昭和二十五~六年ころだったと思う。訪れた私に、翁は『賢治の墓を作ろうと思いますが・・・・・』と話しかけて来た。」とあり、墓を作るならば設計図を送ると約束をして「そして帰ってから、懇意にしていた当時の石造美術の学問的権威者天沼俊一博士に頼み、鎌倉時代様式の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した。」とある。ところで昭和25・6年頃には「宮沢賢治の詩の世界」の浜垣氏も指摘しているが、天沼俊一は昭和二十二年には他界している。 如何してこんな謎がうまれたのだろう。この事に付いは私は小倉さんに聞く勇気がなかった。

 はなしは変わるが 「宮澤賢治と法華経」森荘已池の「賢治と法華経の関係」には以下のようでようである。(39~43頁)

      

真ん中の写真図の最後の二行に「五輪の塔は、その方の権威、工学博士天沼俊一氏の設計した塔の青写真を、賢治研究家、広島の小倉豊文氏が送ってきた。その設計通りに造った。」と見られる。小倉さんの文章と森氏の上記の内容が一致している天沼俊一氏、浜垣氏も疑問視しているが小生にも大いなる謎である。次回は川勝政太郎氏の五輪塔にふれたい。

              (間違い語句一部訂正しました  言う⇒思う等)