ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

我が家のわさび

2007年12月03日 | 随想・日記
子供のころに住んでいた家は、宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の詩碑と滝清水神社との中間程の崖上であった。
崖が崩れないようにとくるみの木が植えられてあった。三本ほどが在り、三種類のくるみであった。
崖下に湧き水が二箇所ほどあり、崖下は滝清水水神社からの湧き水と、途中の湧き水を集めて、我が家の下で小川となって、少ししもの古川と呼ばれていた大きな池に流れていた。
小川までの崖は、我が家の屋敷内であった。
湧き水の所には、冬の雪一面になると雉が、北上川の向いからの山あいから良く飛んで来ていた。
やまばと(キジバト)や、雉が、湧き水の所に生えている若芽をついばみにきていたのであろう、新雪に記録して行ってくれた。

今年の春であったが、『「花南の歴史 かわら版」収録』 の著者 豊川益太郎さんの家にお邪魔した。
豊川さんがこんな話をしてくれた。
 わたくしの家の下の崖のところでわさびをとった、と云われた。どれほど採られたかはお聞きしなかったが、それほど沢山は無かった筈だから、たいしたことではないが、実は私の兄がせっせと植えていたものである。
懐かしい思い出であった。

我が家の北側ー伊藤栄三さんと伊藤権吉さんの崖下、滝清水神社までの所は、葦の湿地帯であったが、此処の地のいち部へ伊藤克己さんがわさび田を作られたとのことだ。成功の程は「聞き書き」座談会ではどのように評価されたのであろうか。

「枯草原をわさび田に」は出来ないが、最近では埼玉の坂戸で西洋わさび(葉がごぼう葉ににている、畑で栽培している品種)をつくられているのを見たが、賢治の時代での話であるなら、湧き水の豊富な所でのわさびは可能であろうが、「枯草原」では無理ではなかろうか。

我が家の崖下のわさびは、桜の木の下寄り、二つ在った湧き水の賢治碑寄り南側の方は、小木や草での隠れ場所で無事であった。今は汚物排水溝の土手のため一変した。

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