※この記事は2000年に執筆したものを転載しています。
W杯の思い出:チケットが無い?の続き <目次>
飛んだANAは1階席満員すし詰め状態で、しかも観戦チケットを持たない人々が何か集団で葬式にでも出向くかのように沈黙して座っている姿には、さすが旅なれたスチュワーデスですら声をかけづらい雰囲気であった。
そもそもエールフランスのバカどもがW杯を人質にとり開幕寸前までストライキをやらかしたために各旅行社が直行便をぎりぎりまで手配できていなかったので、楽しい楽しい「旅行日程表」が出発3日前まで送られてこなかった。もっともチケットも手配できてなかったので日程表も送りようが無かっただろうが。
※このような大きなイベントに合わせてストライキをやるのが外国。日本では考えられないことですが条件闘争としては最高のタイミングなんでしょうね。2014年ブラジルでは警察官がストやってるし。
この満員状態で精神状態不安定な数百人もが16時間も閉じ込められてたら、突如飛び降りるヤツが出て来るんではないだろうかと思ってこちらが飛び降りたくなったとき、兄が何かパーサーに話しをつけている。どうやら2階ビジネスクラスへアップグレード(席の交換)を要求しているようだ。手招きされて2階アッパーデッキへ上がるとなんとガラ空き。ただしビジネスクラスではなく同じエコノミー席が、余裕を持って配置されていて数人が座っているだけだ。
話をよく聞けば、兄は出張で溜め込んだANAマイレージでビジネスクラスへの席替えを要求したら、この便にはビジネスクラスは無いが2階のエコノミーで良ければ移ってもよいとの事だった。一人で「食事用3席」「ビデオ鑑賞用3席」「仮眠用3席」を確保でき楽しくはないものの階下のドレイ船状態を考えると信じられないほど快適な空の旅へ変わった。
※もちろん今ならキャビンアテンダントとお呼びするところです。当時はスチュワーデスでした。また機内には1階後方に喫煙席がありました。
十数時間ののち着陸したのはパリでも無くマルセイユでも無く、まだイタリアのミラノ空港だった。ここで1時間のトランジットが3時間になり、またイタリアの国内路線で移動して中々フランスが近づいて来ない。チケットさえ持っていれば苦にもならない旅ではあるが、さすがに疲労とストレスが溜まりつつある。
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イタリア「ミラノ」空港 ここで3時間のトランジット。 スリが多いのでベンチで寝ていられない。 |
イタリアからスペインのビルバオへ飛びそこからバスに乗り換えた。なんとスペインからピレネー山脈越えで8時間かけて陸路フランスへ向かうルートだという。もう既に日本から20時間近く経過して疲れきっている上にバスの硬い椅子席でこれから8時間走るという拷問を強いる「観光ツアー」があるだろうか?
この間一度もチケット入手に関する情報は説明されていない。出発前に支店長が言っていた「入手に全社が全力をあげて取り組みます」という話は、その後どのように展開しているのだろうか。
※バスは、FCバルセロナが乗ってくるようなヤツではなく、ほんと市バスのローカル路線を走っているような直角椅子のものでした。しかもルール厳守で2時間経つと必ずそこでバスを止め運転手が休憩するのです。休憩はいいんですが、あと数百mも走ればそこにドライブインが見えているのに2時間ぴったりで路肩でも停車します。
バスに乗って初めて判ったのだが当日関空出発のこのツアーの面々は30名弱だろうか。数人のグループや親子連れ、新婚旅行を兼ねたのだろうアベックもいる。今まで他社ツアーも含めて大量に同乗していたのだがこのピレネー越えのバスに乗車したのが同じツアーのメンバーなのだろう。このとき常識的に考えて状況は極めて悪いと知った。
全国で55枚しか確保できていない近ツリのチケットが、2枚このツアーに配分されて、兄と私が確保できる確率は0に等しいと。
※wikiによると、結局、近畿日本ツーリストでは5,583人に対し384枚を確保、配分率は6%ということでした。出発時に聞いた「2700枚中55枚」というのは、恐らく第一戦のアルゼンチン戦の手配率だと思われます。
最初にキレたのは兄だった。当初の日程ならばパリ直行便でこの日は「なんとかホテル」でディナー付きとなっていた日程がいまだ深夜のピレネー越えの途中。しかもディナーの代わりに「大阪支店長が用意して下さった」おかきが添乗員から配られた時だった。
突如立ち上がった兄が「おかきなんか要らない。もう20時間以上もたつのにチケットの情報が無いのはどういうことだ!」と声をあげた。バス中が静まり返った。兄はわたしと比べて5割ほど切れるのが早いたちだが、目配せも無く突然切れたところを見ると、マジで切れたのだろう。
※支店長が用意するのはチケットであって「おかき」じゃねーだろう!ぶちって感じでした。
間抜け面の添乗員Mは、「全力を尽くしてます」「現地対策本部が頑張ってます」と泣きそうな声で説明するが、この時まで一言も説明しなかったという点からしても何も情報を持っていないのは明らかであった。
ようやく空が明るくなり始めた頃、バスは試合会場となるツールーズの隣町モンタバンのホテル前へ滑り込んだ。
戻る 続く
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