さて昨日、大晦日の晩のことです。
いつも通りブログを書こうとしたんですが、何を書いたらいいやら、相応しい内容が浮かびません。
この1年最後のブログですから、1年間をまとめたり締めくくったりする内容のブログを書かなければ、と思ってしまったんです。
結局、気持ちが定まりませんでしたから、さっちゃんもぐっすりと熟睡しているようですし、入浴することにしました。
入浴と言ってもシャワーだけですが、本当に久し振りです。
大晦日やら元日とかに拘らなければ、書いたであろう事がらは以下のようなこと。
●さっちゃんの今回の便秘との戦いの終了報告
●スーパーへ買い物に行く途中、さっちゃんが腹を立てた些細なこと
●さっちゃんの妹のK子さんが家で作ったお節を届けてくれたこと
●さっちゃんには月日、曜日の意識がなく、正月だという感覚もまったく分からなくなっていること
入浴を決めた時点で、ブログを書くことは諦めていたのですが、さすがに便秘の件の報告はないですよね。
お節のことは相応しい内容だと思われるでしょうが、お節を御裾分けしてくれるようになった理由には不幸・不運な理由も付随していましたからね。
正月だと言っても、さっちゃんはまったく意識していないようです。
さっちゃんはいつも通りです。
ところが僕は、骨の髄から日本人のようで、1年の中でも特別な日だという思いから自由にはなれません。
という訳ですから、改めまして、
明けましておめでとうございます。
旧年中はこの僕の拙いブログを読んでくださり有難うございました。
今年も時折はこのブログに訪れてくださいますようお願いします。
僕は認知症とは成人が幼児化・赤ちゃん化していく病だとひとり勝手に考えていました。
昨年はオムツも多用するようになりましたし、食事介助もするようになりました。
年々、さっちゃんの幼児化・赤ちゃん化は進行しています。
さっちゃんの場合、意味性認知症ですから言葉は早くから失っていましたが、まだ歩くことはしっかり出来ています。
若い母親が赤ん坊を育てる大変な苦労を、苦痛と感じることなく幸福と感じる心の中にこそ僕にとっての救いもあるはずだと思っています。
この苦労が一定期間続いた後には、子供が自分で食べ、トイレへ行き、風呂に入り、着替えをし、靴を履く、そんな楽な時が来る。
苦労の期間に限りがあるという理由だけで、子育ての苦労が幸福感に転ずる理由にはならないでしょう。
子供を育てている大変さ自体に、幸福感を与えてくれる理由があるんだと思うのです。
赤ん坊は母親から睡眠時間を奪い、栄養を奪い、自由を奪い、金銭を奪い、あらゆるものを奪います。
あらゆるものを奪われて、真空化する母親の心や肉体の中には奪われたもの以上の神羅万象が渦巻くように突入して来るんじゃあないでしょうか。
上手く表現できませんが、新年にあたりつらつらと考えてみました。
苦しい、辛い、面倒な、嫌な、憎い、様々な避けて通りたい事がらを、
むしろ積極的に歓迎して喜びに感じられるようになりたいのです。
そんな夢のようなことが可能になるのならば、僕の老々介護も幸せで楽しいものになるはずですから。
これを新春の初夢に終わらせないで、現実に追い求めていきたいと考えています。
いつも通りブログを書こうとしたんですが、何を書いたらいいやら、相応しい内容が浮かびません。
この1年最後のブログですから、1年間をまとめたり締めくくったりする内容のブログを書かなければ、と思ってしまったんです。
結局、気持ちが定まりませんでしたから、さっちゃんもぐっすりと熟睡しているようですし、入浴することにしました。
入浴と言ってもシャワーだけですが、本当に久し振りです。
大晦日やら元日とかに拘らなければ、書いたであろう事がらは以下のようなこと。
●さっちゃんの今回の便秘との戦いの終了報告
●スーパーへ買い物に行く途中、さっちゃんが腹を立てた些細なこと
●さっちゃんの妹のK子さんが家で作ったお節を届けてくれたこと
●さっちゃんには月日、曜日の意識がなく、正月だという感覚もまったく分からなくなっていること
入浴を決めた時点で、ブログを書くことは諦めていたのですが、さすがに便秘の件の報告はないですよね。
お節のことは相応しい内容だと思われるでしょうが、お節を御裾分けしてくれるようになった理由には不幸・不運な理由も付随していましたからね。
正月だと言っても、さっちゃんはまったく意識していないようです。
さっちゃんはいつも通りです。
ところが僕は、骨の髄から日本人のようで、1年の中でも特別な日だという思いから自由にはなれません。
という訳ですから、改めまして、
明けましておめでとうございます。
旧年中はこの僕の拙いブログを読んでくださり有難うございました。
今年も時折はこのブログに訪れてくださいますようお願いします。
僕は認知症とは成人が幼児化・赤ちゃん化していく病だとひとり勝手に考えていました。
昨年はオムツも多用するようになりましたし、食事介助もするようになりました。
年々、さっちゃんの幼児化・赤ちゃん化は進行しています。
さっちゃんの場合、意味性認知症ですから言葉は早くから失っていましたが、まだ歩くことはしっかり出来ています。
若い母親が赤ん坊を育てる大変な苦労を、苦痛と感じることなく幸福と感じる心の中にこそ僕にとっての救いもあるはずだと思っています。
この苦労が一定期間続いた後には、子供が自分で食べ、トイレへ行き、風呂に入り、着替えをし、靴を履く、そんな楽な時が来る。
苦労の期間に限りがあるという理由だけで、子育ての苦労が幸福感に転ずる理由にはならないでしょう。
子供を育てている大変さ自体に、幸福感を与えてくれる理由があるんだと思うのです。
赤ん坊は母親から睡眠時間を奪い、栄養を奪い、自由を奪い、金銭を奪い、あらゆるものを奪います。
あらゆるものを奪われて、真空化する母親の心や肉体の中には奪われたもの以上の神羅万象が渦巻くように突入して来るんじゃあないでしょうか。
上手く表現できませんが、新年にあたりつらつらと考えてみました。
苦しい、辛い、面倒な、嫌な、憎い、様々な避けて通りたい事がらを、
むしろ積極的に歓迎して喜びに感じられるようになりたいのです。
そんな夢のようなことが可能になるのならば、僕の老々介護も幸せで楽しいものになるはずですから。
これを新春の初夢に終わらせないで、現実に追い求めていきたいと考えています。