落合順平 作品集

現代小説の部屋。

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (101)楽しく過ごすことが一番

2015-08-08 12:10:13 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(101)楽しく過ごすことが一番



 「もしもし」、美穂が心配そうな声で語りかけてくる。
「おじさま。慌てないでよく聞いて。すべての人が認知症に進行するわけじゃないの。
でもMCIは、治せない病気であることも、また事実です」
くわしく説明しますから良く聞いてくださいと美穂が、女医らしい口ぶりに戻る。


 「MCIは、正式な病名ではありません。
 MCIになると、同じことを何度も繰り返して言ったり、
 ついこの前会ったばかりの人に、「久しぶりですね」と声を掛けたり、
 同じものをたくさん買い込んでしまったり、物の置き場所がわからなくなったりします。
 認知症と、ほぼ同じような症状があらわれます。
 ですが多くの場合、いきなり重度の認知症としてあらわれるわけではありません。
 検査を受けた場合、認知症ではなく、初期段階のMCIであると診断されます。
 この段階では物忘れは目立つものの、会話は普通にできます。
 日常生活にも支障ありません」



 「しかし、疑いが有るという事は、いつかはかならず火山のように爆発するはずだ。
 時限爆弾を抱えているようなものだろう?」



 「MCIには2つのタイプがあります。
 「健忘型」と「非健忘型」の2つです。
 MCIの多くは、記憶障害が出てくる健忘型です。
 非健忘型は記憶障害ではなく、失語や失行などの症状が多く見られます。
 健忘型MCIは、進行するとアルツハイマー病になることが多く、
 いっぽうの非健忘型MCIは前頭側頭型認知症や、レビー小体型認知症に進行することが
 多いと言われています。
 でもどちらの型も、すべてが認知症に進行するとは限りません。
 いくつかの調査によればそのまま治療を受けなくても、半数は認知症に進まないようです。
 でも残りの半数は、年に12%から15%の割合で、アルツハイマー型の認知症に
 移行するという研究報告もあります」

 
 「半数が治療を受けなくても、認知症にならずに助かる可能性があるわけか。
 だが治療を受けなければ、記憶障害はそのまま残る。
 どちらにしても厄介な状態なんだな、MCIというグレーゾーンは」


 
 「治せない病気の場合、本人に告知するかどうかも問題になります。
 MCIも、本人へ配慮することが大切です。
 病院で記憶の検査や認知症の検査を受ける段階で、本人は自分の「頭」が
 テストされていることを理解します。
 どんな結果が出るのか、大きな不安を抱きます。
 MCIの診断が下されると、気持ちの不安に追い打ちがかかります。
 認知症になることを予告された、と直感するかもしれません。
 診断を行うのは医学の役割ですが、心のケアをおこなうのは、家族や近親者です。
 診断を冷静に受け止めて、たとえ治療が難しくても少しでも良い状態で
 過ごしていけるように、一緒になって考えていく必要があります」



 「きわめて冷静だね、君は。君が女医さんの仕事をしていてよかった。
 最初は激しく動揺したが、なんとか冷静に受け止める心構えが出来てきた。
 君のおかげだな。感謝するよ」



 「詳しい資料を、のちほどオジサマのタブレットへ送ります。
 読んで、何かの参考にしてください。
 何かあったら、いつでもかまいませんから、わたしの携帯へ連絡してください。
 いつでも対応できるよう、最良の準備をしておきますから」



 (でも、どんな風に説得するかよりも、母と最後まで、楽しい旅を満喫してください。
それが現段階での最善の治療ですから、)と語り、美穂の通話が切れた。
勇作の気持ちが、すこしずつ落ち着きをみせてきた。
すずにMCIの疑いが有ると恵子から聞かされた瞬間から、勇作のこころは
完全に平常心を失っていた。


 専門医ではないが女医をしている美穂から、大まかな説明を受けたことで
勇作の気持ちが、すこしずつだが落ち着いてきた。



 (だが。連れの女たちは何故、いとも簡単にすずのMCIを見抜いたんだ・・・
 福井へ戻ってきて以来、何度もすずと顔を合わせているというのに、
 俺はまったく気が付かなかった。
 俺が鈍感すぎるという事だろうか。
 それともすずが必死の想いで、まったくそんな素振りを見せなかったということか。
 忘れ物をするわけでもなく、日常の行動も、ごく普通だった。
 軽度の記憶障害を思わせるような出来事は、なにひとつ見た覚えがない。
 何故なんだ・・・どこが周りの女たちと違うんだ。
 何故俺は、すずのMCIの症状に、いままで気がつかなかったんだ・・・)



(102)へつづく

 

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