ささかのブログ

雑多な思考整理のためにブログを活用中。
自分が生きやすくなればいいと思うけれど、教祖になるつもりはない。

言えば済むならそうしたい。

2017-12-07 21:34:35 | Assist
言って他の人を変えることは、できるということを知っているのですよ。

でも、言って直す他の人の言動は、やっぱり、

「〜に言われたから」

という理由をつけてしまうことも事実。

結局のところ、自分で主体的な動機を持って、

「こうしたい!」

とする行動とは、全く違うわけです。

前者はその後に独自の進化はない。
後者はその後、独自の進化をする。


お年寄りに、どんなに正論を言っても、聞かないわけです。

だってそれまで培った多くの習慣や価値観が、その人の日常動作や価値判断基準を決定づけている。

身内とはいえども、話せない過去や秘密のいくつかは持っているわけだ。


翻って、私のような40代ぐらいの成人はどうかといえば、やはり同じように独自の価値観を持っている。

いろいろな試行錯誤を通じて、現在の自分の価値観を決定づけている。

それを変えることが正しいかどうかはわからない。

一挙手一投足が、多くの人に影響を与えるような人は、また別だけれど。


とはいえ、例えば、原稿用紙を与えて、

「あなたは完全に自由です。
perfect libertyです。
そこに自分を売り込む文を記述してください。
どうぞ!」

と言われても、まぁ普通だったら書けない。

ある程度のテンプレートが必要になったりするのです。

そこで私はある程度の基本的テンプレートを作成する。


だけど、いつの間にか、
「それ(テンプレート)がルールなので、そこから外れた違うことをしないでください」
となっていると、「おやおや?」ということになる。

「ちがうよ?外れてもいいのよ?むしろルールを作り変えて?」
と思うときが多々あるのだけれど、それはまた違う話として。
コメント
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