認知症への対応方法などを聞いていると、
「結構一般社会でも通用するな」
と思うのです。
かつて痴呆症と呼ばれた認知症。
脳の短期記憶が保持されず、過去の経験則や日常動作が行動基準となる。
面白いのはその性別差。
主に日本の場合ですが。
女性の場合、まず最初に消えるのは旦那の記憶だそうです。
最後まで残るのは子供を育てた記憶。
男性は逆で、まず最初に消えるのは子供の記憶。
最後まで残るのは奥さんの記憶。
性別の役割がその決定力を持っていて、男性は子孫を残すまでに人生の8割使う。
女性は子供ができてからが、人生の本番の8割が始まる。
悲しいかな、非常に説得力のある数字で、納得するしかなかった。
で、認知症への対応ということですが、なんだかよくわからない行動を必ずしたりして、一般的には「ボケちゃったよ」という一言に省略されたりする行動は、実はちゃんと意味があったりするんです。
夕方に徘徊するおばあさんがいた。
とことん原因を追求したら、夕飯時に子供を探すお母さん時代の記憶が、夕げの匂いと共にフラッシュバックしていたとか。
人の記憶や経験は人それぞれなので、マニュアルに乗らないんです。その人の経験は。
でもどこかあるときに、記憶の因果関係が眠っているなんて、東野圭吾ミステリーみたいで面白い。
まぁ、この辺を面白いと思えるか、その辺りが重要なポイントで、人の一つの行動が許せないと断定してしまう段階で、その適性はないと考えられる。
一般的常識や社会標準に一致しないところが、個人の人生の面白いところなのだから、それを無理やり矯正しても面白くない。
多様性を認めつつ、どうすれば個々人の生活スタイルや生活リズム、あるいは価値観を維持できるか。
これは別に認知症の老人だけでなく、現代社会を生きる社会人も、主婦も、学生も、皆が等しく生きるために必要な考え方じゃないのかなと思う。
QOLとかADLとか、略語にするけど、少なくともPDCAを回して解決できるほど単純な問題じゃない。
テキストに書いてないし、自分の経験則だけで判断できない。
最近は「間違いを訂正する」ことをしないように心がけている。
まぁ、自分の経済状態や生活の質を危うくするような危険なお誘いには、断固拒否姿勢ですが。
つまり、他の人が自分とは違うことに挑戦していて、それを直すことが本当に正しいのか?と思い始めている。
自分のやり方はあくまで自分のやり方で、他人のやり方は他人のやり方。
自分と異なる特性を持った人が、自分と同じ方法でハウツーで教えても、できるはずないと思うから。
例えば私は親がいない状態で大学に入った。
どうしたかといえば、高校大学とガッツリ勉強して、満点を取りまくった。
特待生になって授業料免除できるし、親戚というスポンサーもついた。
じゃあこの方法を他の人に勧めるかといえば、他の人と私は違うわけだし、同じ方法を取って同じようにできる保証はない。
とは言え、自分に子供がいて、大学に行くとなれば、きっと一度はこう言う。
「高校から上は、義務教育じゃない。
中学までは教育を受ける権利があるが、それ以上は自由意志だ。
大学に行く気があるんだったら、大学で死ぬほど勉強して研究しろ。
本当の勉強は、自由意志で受ける勉強の成果だ」
まぁ、これも相当説教臭いから違うように言うだろうけど、基本的な大学での勉強の考え方は、本来こういったものだと思う。
日本の大学でそれは難しいと思えば、海外でもなんでも、行けばいいんじゃね?
結論からすると、
「よくわかんねぇから人生は面白いんじゃないかな?」
そういうスタンス。
「結構一般社会でも通用するな」
と思うのです。
かつて痴呆症と呼ばれた認知症。
脳の短期記憶が保持されず、過去の経験則や日常動作が行動基準となる。
面白いのはその性別差。
主に日本の場合ですが。
女性の場合、まず最初に消えるのは旦那の記憶だそうです。
最後まで残るのは子供を育てた記憶。
男性は逆で、まず最初に消えるのは子供の記憶。
最後まで残るのは奥さんの記憶。
性別の役割がその決定力を持っていて、男性は子孫を残すまでに人生の8割使う。
女性は子供ができてからが、人生の本番の8割が始まる。
悲しいかな、非常に説得力のある数字で、納得するしかなかった。
で、認知症への対応ということですが、なんだかよくわからない行動を必ずしたりして、一般的には「ボケちゃったよ」という一言に省略されたりする行動は、実はちゃんと意味があったりするんです。
夕方に徘徊するおばあさんがいた。
とことん原因を追求したら、夕飯時に子供を探すお母さん時代の記憶が、夕げの匂いと共にフラッシュバックしていたとか。
人の記憶や経験は人それぞれなので、マニュアルに乗らないんです。その人の経験は。
でもどこかあるときに、記憶の因果関係が眠っているなんて、東野圭吾ミステリーみたいで面白い。
まぁ、この辺を面白いと思えるか、その辺りが重要なポイントで、人の一つの行動が許せないと断定してしまう段階で、その適性はないと考えられる。
一般的常識や社会標準に一致しないところが、個人の人生の面白いところなのだから、それを無理やり矯正しても面白くない。
多様性を認めつつ、どうすれば個々人の生活スタイルや生活リズム、あるいは価値観を維持できるか。
これは別に認知症の老人だけでなく、現代社会を生きる社会人も、主婦も、学生も、皆が等しく生きるために必要な考え方じゃないのかなと思う。
QOLとかADLとか、略語にするけど、少なくともPDCAを回して解決できるほど単純な問題じゃない。
テキストに書いてないし、自分の経験則だけで判断できない。
最近は「間違いを訂正する」ことをしないように心がけている。
まぁ、自分の経済状態や生活の質を危うくするような危険なお誘いには、断固拒否姿勢ですが。
つまり、他の人が自分とは違うことに挑戦していて、それを直すことが本当に正しいのか?と思い始めている。
自分のやり方はあくまで自分のやり方で、他人のやり方は他人のやり方。
自分と異なる特性を持った人が、自分と同じ方法でハウツーで教えても、できるはずないと思うから。
例えば私は親がいない状態で大学に入った。
どうしたかといえば、高校大学とガッツリ勉強して、満点を取りまくった。
特待生になって授業料免除できるし、親戚というスポンサーもついた。
じゃあこの方法を他の人に勧めるかといえば、他の人と私は違うわけだし、同じ方法を取って同じようにできる保証はない。
とは言え、自分に子供がいて、大学に行くとなれば、きっと一度はこう言う。
「高校から上は、義務教育じゃない。
中学までは教育を受ける権利があるが、それ以上は自由意志だ。
大学に行く気があるんだったら、大学で死ぬほど勉強して研究しろ。
本当の勉強は、自由意志で受ける勉強の成果だ」
まぁ、これも相当説教臭いから違うように言うだろうけど、基本的な大学での勉強の考え方は、本来こういったものだと思う。
日本の大学でそれは難しいと思えば、海外でもなんでも、行けばいいんじゃね?
結論からすると、
「よくわかんねぇから人生は面白いんじゃないかな?」
そういうスタンス。