ものづくりって自己否定の連続で。
ものづくりは製品開発や製造、音楽や美術や映像制作、運動競技、パフォーマーなど、本質的にはすべての創作活動や競技活動が含まれます。
自分自身との闘いなので。
今まで見て経験した、あらゆるものを超えているか?
どこで妥協してしまったか?
作り上げる時間を短くできなかったか?
もっと低予算でできなかったか?
などなど。
基本的に自己否定なんですよ。
それでも、たまにある成功とおぼしき結果に味をしめてやり続けてしまう。
単純な成果で判断するのは簡単ですよ。
上司や教師などに褒められる
コンペで勝つ
他者と比較して勝つ
単純に利益になる
金銭的価値になる
出世する
リーダーになる
だんだんとそんな成果じゃ満足できなくなってくる。
いかに社会を変えられるか?
いかに普遍的になれるか?
自分の作業の結果を、全く知らない小さな子供が宝物にしている。
そんな喜びはないわけですよ。
だから、宮崎駿とか、庵野秀明とか、手塚治虫などの、生みの苦しみは計り知れないですよ。
かつては太宰治やゲーテやニーチェなど。
死にたいと思うほど自己否定をして、精度を高めた結果が後世に残っている。
そういった経験を全くしなかった人もいるわけで。
苦労を避けて生きてきた人というか。
生まれながらの政治家っているとは思うんですよね。
家庭環境がある意味特殊で、現場現実の苦労をしなくて済む、それは他の人がやってくれるという環境。
それも幸せかどうかはわからないところ。
だって自分の力で生きていないのだから。
褒められはしないけれど、麻薬などの薬やタバコや酒に逃げるとか、一時的な快楽に溺れてしまうとか、それこそ不倫など他の人に救いを求めるとか、わからなくもないところ。
行き詰まればとことん落ちて鬱になるし、逆に活動できるときはとことん活動して躁にもなる。
どちらも行きすぎないようにコントロールする必要がある。
なんにも評価をくださない、いるだけで全てを受け入れてくれる存在など、ありがたいわけですよ。
私にとってそれは猫だったり犬だったりするわけですが。
でも飼わないことにはしている。
わざわざ人の社会に従属させたくないんですよ。
ものづくりに比べたら人なんて、かなりいいかげんで適当ですよ。
それを制限するためにルールやら法律が存在する。
なければそれこそ無法地帯になってしまうので。
日本は強制強調社会でもあるわけですが。
本来更に自由に生きている動物をそこに組み入れることが本当に幸せなのか?は疑問ではある。
生きるも死ぬも直面し続ける環境より、交通事故も少なく世界一長寿の社会がいいのか?
誰もが競争できて成果を出せば、トップにもなれるし最下層にもなれる社会がいいのか?
何が幸せかは全くわからないですけれどね。
自分の意志と自分の歯と口でご飯を食べられて、
自分の行きたいときにトイレで排泄できて、
自発的に呼吸できる。
その最低限の自活がないと、相当やってられないところ。
人は生きて死ぬんじゃない。
生きることを諦めるから死んでしまう。
どうしようもなく生きられない状況はあるけれど。
絶望的状況にならないようにはしていきたいところですなぁ。