好きになった人や憧れた人には、すごい能力を持っている人がいました。
すごい能力を持っていたからこそ、好きになったとも言えます。
月日が流れて、その人たちが成功して幸せになっているか?を考えると、そうとも言えるしそうとも言えないこともあって、なんとも言えない。
成功とか幸せは、評価しにくい判断でしてね。
成功の中に失敗がもちろんあるし、幸せの中には不幸せが存在している。
他者評価として幸せそうな人というのはいるけれど、100%完璧に幸せかというとそれはないと思っている。
表向きの幸せと、実際の苦労は一致しない。
シンクロナイズドスイミングの選手がきらびやかな演技をしている最中、水中では手足を動かし続けているように、見た目と実際は違ったりする。
これが真理とも言い切れないけれど、大抵そんな感じだと思う。
何も考えずに成功を得て、健康で長生きなんてできない。
ぼんやり何もせずに充実した人生なんて得られないと思う。
なんにも苦労も努力もしていない人を好きになるかといえば、そうでもない。
どちらかといえばそういった人は嫌いになると思う。
憧れという価値があって、その価値の中には、努力の結果すごいことをできるようになって、実行して結果を出すというのがある。
結果なんて出てなくても、そのプロセスの最中の人がかっこよかったりして、憧れたり好きになったりする。
ところが当人は他人の評価なんか気にしている余裕はなくて、ただがむしゃらにもがき続けているなんてこともある。
自己評価による肯定と、他人による承認が一致しないこともたくさんある。
自己否定している内容は他者にとって愛すべきことであったりする。
自分のポンコツ的失敗は、自分にとっては屈辱的失敗であったとしても、他者からは愛すべき失敗だったりする。
その自分の評価と他人の評価が一致すると、色々と物事を進めやすくなるけれど、完全に他人の評価に流されると、個人の意志や個性などの魅力や自己尊重心が消えていく。
成績表の絶対評価も一つの尺度だし、給与水準や役職も一つの尺度だけど、それが幸せと一致するかはそうとも言えないと思っている。
幸せは測れないと思うけれど、それでも、「現状が続くぐらいなら死んだほうがマシ」だという状況は幸せではないとは思う。