世のすべてを理解して、全てに結論するなんてできないという、悟れないという悟り。
世の中の動きや人の考え方、組織の変化など、ある程度予測して変えることはできる。
それでも逃げ水や虹を捉えるように、近づけば逃げてしまうよう。精度を高めるほど。
物理やものづくりは専門なので、案外人よりそれなりのものを作ることはできるけれど、本当に良いものを作ろうと思うとなかなかできない。
他人の痛みすべてを理解することはできない。
何度も死ねるわけではないので。
しかし他人の痛みがわからないと、本当に人が求めることも理解できない。
怒られたことがないとか、苦労したことがないというのは、それはそれで幸せなことだと思うけれど、人を理解する貴重な学習の機会がなかった不幸とも言える。
ニートであるというのも、働かないで暮らせるという幸せを享受し続けられる、いわば桃源郷や天国のような境遇だけど、実際当人は死ぬほど苦しい。
どこかに就職して何やっているのかわからないけれど、忙しく働いている方が、暗い将来に悲観し続ける毎日よりマシだったりする。
自分が劣化していくことを実感するのは、毎日なにかを成し遂げる成長より、死にたくはなる。
しかし、従順に働いて、人としての限界を超えて病気や障害を負うのも本末転倒で。
生きるために働くのでね。
死ぬために働いちゃいけない。
働き方改革や36協定という仕組みは、過重労働を防ぐ役割があるけれど、能動的主体的に働くという意思も削ぐ。
これに慣れると、会社の経営に責任を持つ代表取締役にはなりにくい。
逆に組織を変革するような思考や行動力があれば、サラリーマンには向かない。
人の下で働けないし、上司もコントロールできない。
生涯雇用に向いてない。
完全に完璧はない。
悟れないという悟り。
究極にはバランスをとって落ち着くところがあるのだろう。
仏教的な中道がそれかどうかはわからないけれど、とても高度な水準のバランスでね。
そこに至るまでの紆余曲折が途方もない積み重ねのバランスです。
ジェンガというよりスカイツリーや高層ビルをどう作るかぐらい。
イメージの話。