「すずめの戸締り」を観に行きました。
映画を観るというのは、年に数回のイベントで、今ならネット配信で大抵の映画は観ることができるわけですが、自宅で観るとナニカ作業を始めてしまって集中して観ないのです。
強制的に集中して作品世界に没頭するために、年末年始の休みにできることとして、すずめの戸締まりを観ました。
このタイミングだから作れた映画だと思います。
12年前、東日本大震災が起きて、仕事場も自宅も壊滅的な被害を受けた。
とはいえ自分はまだ恵まれた方だった。
東北では津波被害が起きて多くの日常生活が海に飲まれた。
人が亡くなった上に、家もなくなり、水道電気ガスなどライフラインが断たれた世界。
人が住まないことで、人目がなくなり、治安が急激に悪化する。
人の生活が広範囲に渡って消えた地域に、災害ボランティアとして、複数回に渡り参加した。
そこだけに限らず、豪雪災害、台風大雨水害など、行けるところに行き続けた。
サラリーマンを続ける以外のことに人生を使わなくてはならないと思ったのは、このためかもしれない。
人に感謝される。
絶望から希望を見出す。
しかもそれは、金銭的経済活動でもなく、ただボランティアとしての活動。
津波の砂層から家族の思い出の品や権利書を探し出して掃除する。取り壊しを決意できる。
100mに渡る自宅からの私道の雪を取り除く。
自宅から全く出られない状況から生活できる状態になる。
車も雪に埋もれている。日常品の買い物に行けない。
そんな途方もない状況をなんとかする。
とてつもない達成感と感謝がある。
サラリーマンではこんなことは一生感じられない。
不幸は本当に多数見かけたのだけれど、思い出すのは、当時自宅近くの家で、真ん中前後にかけて瓦が落ちまくった車があったこと。
屋根の縁が車の中心だった。
せっかく動けるのに、使えない。
随分復旧しましたけれど。
日本経済の低迷などへの影響や、安全意識などへの影響も大きかったと思う。
一昨年は愛知大阪への転居があったが、いつそのような災害が来るかと常に備えている。
一輪車やスコップ、常備水などを備えつつ。
関西まで来ると、棚や壁の倒壊対策などの不備が目立つ。
通信遮断に対しても全く対策していない。
東日本大震災前の我々の生活だってそうだったのだから仕方ないのだけれど。
阪神淡路大震災の経験でさえ風化する。
一人だけでも対策する。
「備えよ常に」はボーイスカウトの言葉だけれど、実体験として深く刻み込まれている。
12年。
当時は絶対ムリだと思っていた日常生活が戻ってきた。
しかし別世界を見てしまったがため、日本以外を知りたくなっている。
ヒステリックに震災体験に反応しなくなりつつある世間情勢もあるだろう。
全くいないわけでもないと思うけれど、どちらかといえば忘れつつある。
常世の世界もなぁ。
死後の世界は人が死ぬことを恐れた先に想像した空想世界だ。
死んでも意志や思想は生きるとしたい欲求から作り出された想像世界が、宗教だとしている。
想像世界を常なる世として、現世を写し世とする人の性(サガ)よ。
仏陀でさえ、死後の世界はない(涅槃・Nirvana)としているのに。
ユングの集合無意識に通じるのだろうなぁ。
犬や猫はそんなものを想像しないだけ、より直感的に物事を判断できる。
人は想像によって自らに制限をかけてしまっている。
そんなことをすずめの戸締まりを観て考えていました。
この時期に観たからこそ十分消化できる内容だと思う。
御茶ノ水駅変わったのか。
最近行っていないからわからないけど。