とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 383 里見八犬傳 CF 第一版

2018-07-16 00:48:24 | 日記
孫娘たちを連れて行って松江の映画館で視ました。時代劇の枠を見事打ち破った大作でした。あの古典がこんな形で息を吹き返すとは思ってもいませんでした。確かに薬師丸フームに乗っかったものですが、大人も楽しめる作品でした。

里見八犬傳 CF 第一版


『里見八犬伝』(さとみはっけんでん、Legend of the Eight Samurai )は、1983年12月10日に東映洋画系にて封切り公開された日本映画。カラー・ビスタサイズ、136分。第2回ゴールデングロス賞の優秀銀賞作品。
製作:角川春樹、監督:深作欣二。

解説

南総里見八犬伝を翻案した鎌田敏夫の『新・里見八犬伝』を映画化した作品。JACによる迫力ある戦い、音楽にはロックで英語の主題歌、特撮など、それまでの時代劇にはなかった斬新なアイデアを取り込み、大型エンターテイメント映画となっている。日本映画で初めて特殊メイクがクレジットに表示された作品でもある。
1984年の配給収入では邦画1位の23億2000万円、映画公開と同時に発売されたビデオも5万本、7億円を売り上げた。


ストーリー

かつて蟇田領主、蟇田定包(ひきたさだかね)は妖婦玉梓 (たまづさ)の色香に迷い、酒池肉林と暴虐の限りを尽くしていた。苦しむ領民の意をくみ取り、里見義実(さとみよしざね)は、彼らを討ちとったが、玉梓は最期に呪いの言葉を遺す。まもなく、玉梓の呪いか里見家は隣国の軍勢に囲まれ落城の危機に瀕す。力尽きた義実は飼い犬の八房(やつふさ)に「敵将の首を討ちとれば娘の伏姫(ふせひめ)を嫁につかわす」と戯言を投げかけ、その夜、八房は見事に敵将の首を討ちとる。君主たるもの約束を違えてはならないと、伏姫を八房と共に山奥へと去らせるが、伏姫を取り戻そうとした義実の軍の鉄砲のせいで、八房をかばった伏姫は死んでしまう。しかし死の直前、伏姫の体から仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の各字を刻んだ八つの霊玉が飛び散り、伏姫は「百年の後、この光の玉は八人の剣士となって蘇り、里見の姫を奉じて玉梓の呪いに打ち勝つでしょう」と言い残す。

百年後、妖怪として蘇った玉梓、息子の素藤(もとふじ)は、里見家を攻め滅ぼす。ただ一人落ち延びた里見家の静姫は、玉梓の追手から逃れ、その野望を砕くため戦いを決意する。このとき姫は犬江親兵衛から炭焼き小屋で食べ物を恵まれ、女と分かり追いかけられるが、犬山道節たちにまもられるなど、それぞれの運命により導かれた八人の剣士が次第に集まる。ところが静姫は、けもの罠にかかりさらわれてしまう。犯人は親兵衛であった。静姫を素藤の許へ連れていく途中、親兵衛は、素藤の支配下の安房国の荒廃を目の当たりにする。ここで黒騎馬侍に静姫が見つかり、親兵衛らは鐘乳洞に逃げ込むが、中にいた道節たちによって親兵衛は放り出された。その後、親兵衛は黒騎馬たちに捕まり、腕の赤いアザから玉梓の子の転生だと教えられ、「御霊様」に仕える司祭・幻人によって悪の化身にされてしまった。

だが、素藤配下の侍大将犬飼現八が親兵衛を連れて城を脱出。現八の懐には霊玉が光り、静姫のいる洞で七人目の剣士として迎えられる。一方、目をさました親兵衛がいきなり静姫に襲いかかるが、静姫が「お前に会いたいと思っていた」と話すと、白い閃光が親兵衛を一撃。親兵衛が再び目をさますと腕のアザが消え、二人の間には光り輝く霊玉が現れる。愛し合う二人の前に突如、大蛇が現れて静姫を巻いて去る。霊玉を八個集めた時、伏姫の「この矢を御霊様に向って静姫に引かせなさい」という声が響く。

皆で館山城に向うが、激しい反撃にあい、大広間にたどりつけたのは二人だけ。道節が盾となり、親兵衛が静姫を解き放ち、静姫は御霊様に矢を放つ。玉梓や素藤はミイラと化し、城は崩れ落ちる。こうして親兵衛は、静姫を叔父の城へと届ける。姫と別れた親兵衛が七剣士の墓を祀っているところに、静姫が駆けつけ「城へ戻らぬ」と言う。2人は七剣士の声にはげまされる。

里見家

静姫 - 薬師丸ひろ子
伏姫 ※声のみの出演 - 松坂慶子

光の軍団(八剣士

犬江親兵衛(仁) - 真田広之
犬坂毛野(智) - 志穂美悦子
犬村大角(義) - 寺田農
犬塚信乃(孝) - 京本政樹
犬田小文吾(悌) - 苅谷俊介
犬川荘助(礼) - 福原拓也
犬飼現八(信) - 大葉健二
犬山道節(忠) - 千葉真一(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 382 真夜中のギター 千賀かほる

2018-07-14 16:11:57 | 日記
この曲を聴くと涙が出てきます。学生時代、いや、もう就職していましたか。ラジオからこの曲が流れてきました。「愛をなくして・・・」という件のところで涙の壺がいたく刺激されました。・・・その後どうなさっているのかよく分かりません。生でこの唄声を聴きたいと思っています。


千賀かほる 真夜中のギター



千賀 かほる(ちが かおる 1948年9月25日 - )は日本の歌手である。
鹿児島県大島郡知名町出身。神戸市の高校を中退後、日本歌劇学校を経てOSK日本歌劇団に入団した。 1969年に「真夜中のギター」で第11回日本レコード大賞新人賞を受賞した。 (「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」 381 リリイ 私はないています(ベースでの弾き語り).mpg

2018-07-13 16:18:10 | 日記
こういう傾向の歌い手は当時としては珍しい存在でした。滲み出る哀感は自らの生きざまと重なり合います。・・・実に納得です。分かる分かる。感じる感じる。そういう言葉が自ずと飛び出します。まことにエキゾチック。・・・こういう言葉は失礼かな。お許しください。とまれ、貴重な映像です。ありがとうございます。


リリイ 私はないています(ベースでの弾き語り).mpg



りりィ(Lily、1952年2月17日 - 2016年11月11日)は、日本のシンガーソングライター・女優。本名、鎌田 小恵子(かまた さえこ)。福岡県出身。アルファーエージェンシー所属。音楽業のほか女優としても活躍し、ドラマ・映画・CMに多数出演した。
日本の女性シンガーソングライターとして最初期にデビュー、活動し始めた先駆者である。
遺作(映画)は『彼らが本気で編むときは』、最後の公開作品は『追憶』。いずれも2017年公開。
長男は、ロックバンド・FUZZY CONTROLのJUON。DREAMS COME TRUEの吉田美和は義娘にあたる。

略歴

福岡県福岡市天神生まれ。唐人町などで育ち、小学校3年から東京で育つ。母は中洲でバー「翡翠」を経営、父は米空軍の将校で、りりィはハーフ。父はりりィが生まれる前に朝鮮戦争で戦死したと伝えられた。10歳で家族と一緒に上京。東映の児童劇団に1年半所属。東映在籍中の1966年、緑魔子主演の『非行少女ヨーコ』にちょい役で出演(ラーメン屋につとめるヨーコがどんぶりを落として割るところを蔑んで見る娘役)。高校には行かず、彼女が17歳のとき母が亡くなり、生活のためにスナックで弾き語りをする。「りりィ」という芸名はブラブラしているときに仲間が付けたあだ名が元。「ィ」がカタカナなのは、なんとなく自分で変えたという。

1971年、下田逸郎のアルバム『遺言歌』に参加。イギリスのフォークシンガー、ドノヴァンの楽曲「ラレーニア」(Lalena)から採ったレーニアという名前で「ひとりひとり」という楽曲のリードボーカルをつとめる。

所属事務所はモス・ファミリ(小澤音楽事務所系)。本格的に曲作りを始めたのは山上路夫からの勧めがきっかけ。本来は3オクターブの音域を持つ美声だったが、風邪をひいた日に二升近く日本酒を飲み、朝まで歌い続けたら翌日声が潰れたという。

1972年2月5日、20歳のとき、東芝音楽工業よりアルバム『たまねぎ』で歌手デビュー。独特のハスキーヴォイスで注目され、1974年のシングル「私は泣いています」が97万枚を越える大ヒットを記録する。この曲は遊びで作った英語詞によるブルース「アイム・クライング・オン・ザ・ベッド」に自ら日本語の歌詞をつけたもので、当初は知り合いだった研ナオコに歌ってもらうつもりで事務所に持参したところ、「自分で歌ってくれないと困る」と言われ、しかたなく歌ったという。

24歳のときに結婚するが1年で別居し、7年後の1981年に離婚した。
東芝EMI時代にはバックバンドとして「バイ・バイ・セッション・バンド」を従えていた。坂本龍一は著書で「その当時、在京のミュージシャンに最も人気の高いセッションバンドはサディスティック・ミカ・バンドとバイ・バイ・セッション・バンドであり、多くのミュージシャンが入れ替わり立ち替わり参加していた」と回想している。主なメンバーとして坂本のほか、木田高介、土屋昌巳、伊藤銀次、吉田建、斉藤ノブ、井上鑑、国吉良一などが参加しており、長らく活動して全国のライブハウスなどを回っていた。

1982年、ビクター音楽産業に移籍。その後、2度目の結婚をし、活動休止。1985年、一人息子のJUONをもうけた。子育て中は埼玉県狭山市に移り住んでメディア露出も控え、数年間主婦業に専念していたが、JUONが中学生になり子育てが一段落した1997年、TBS系テレビドラマ「青い鳥」に出演し、芸能活動を再開した。

1993年3月、音蔵シリーズと称する過去アルバム作品群のCD化プロジェクトにより、『たまねぎ』『Dulcimer』『タエコ』『ラブ・レター』がそれぞれCD化・発売される。
1999年からは斉藤洋士と「Lily-Yoji」(りりィアンドヨージ)というユニットを結成し、全国各地で活動した。
テレビドラマ『3年B組金八先生』で共演した上戸彩とも親交があった。

2009年に放送されたテレビドラマ『救命病棟24時』第4シリーズの第5話に患者役として出演。このドラマの主題歌であるDREAMS COME TRUEの楽曲「その先へ」は、JUONが所属するバンド、FUZZY CONTROLをフィーチュアリング・アーティストとして迎えた作品であり、親子共演となった。

2012年、2013年には過去のアルバム作品が相次いで再発売された。まず、2012年1月にはEMI ROCKS The Firstシリーズの1枚として、ファーストアルバム『たまねぎ』がデジタルリマスタリングされた音源に紙ジャケット仕様で復刻され、同年11月には『Dulcimer』『タエコ』『りりィ・ライヴ』『ラブ・レター』『りりシズム』の5枚が、2013年には初CD化となる『オーロイラ』『マジェンタ』の2枚が、デジタルリマスタリング音源でタワーレコード限定で再発売された。

晩年は肺がんと闘病し、2016年11月11日死去、64歳歿。定期検診で静養が必要と診断され、同年5月からライブ活動を中止していた。
その人柄と広い活動ゆえ、訃報に際してはDREAMS COME TRUEの中村正人、俳優の泉谷しげる、映画監督の青山真治、アニメ監督の山崎理など、多くの著名人から追悼のコメントが出されている。 (「Wikipedia」より)




あちこち「SYOWA」 380 中森明菜 少女A

2018-07-12 11:36:45 | 日記
当時「ブリッコ」という言葉が流行っていたと思う。中森明菜はクールで少し影を感じさせた。そこが違っていたと思います。中森明菜は本名。『スター誕生!』が出発点。自ずからにじみ出る実力が評価された。まだまだこれからも期待できると信じています。


中森明菜 少女A



中森 明菜(なかもり あきな、1965年7月13日 - )は、日本の歌手、女優。80年代アイドル。本名同じ。東京都大田区生まれ、清瀬市育ち。明治大学付属中野高等学校定時制中退。研音、コレクション、コンティニュー、N.A.P.C、楽工房を経てFAITH(ファイス)所属。所属レーベルはユニバーサルJ、ユニバーサルミュージック内の私設レーベル歌姫レコーズ。血液型A型。



16歳の時に出場した日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』合格を機に、ワーナー・パイオニアとのレコード契約を締結。1982年にシングル「スローモーション」でデビューし、2枚目のシングル「少女A」がヒット。

1983年には、「セカンド・ラブ」、「禁区」などもヒット。1980年代のアイドルとしては松田聖子と2強を争った。以降も「北ウイング」、「飾りじゃないのよ涙は」など連続してシングル・ヒットし、1985年の「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」と1986年の「DESIRE -情熱-」で2年連続となる日本レコード大賞を受賞。別冊宝島の調査によると、1980年代のシングル総売上げは年間ベスト50位以内のものに限っても932.5万枚、年間50位以内ランクイン曲数は22曲と、どちらも当時の女性アイドル中1位であった。

同じく1980年代、当時の女性アイドル中年間シングルオリコンチャート最高位の座は4回獲得している(1984年、1985年、1986年、1987年)。チャート1992年には連続テレビドラマ『素顔のままで』(フジテレビ系)に安田成美とW主演し、その後も1998年の連続テレビドラマ『冷たい月』(日本テレビ系)で永作博美と共にW主演など女優としても活動。2002年にはユニバーサルミュージックに移籍し、カバー・アルバム『-ZEROalbum- 歌姫2』を発表。歌姫シリーズの第2弾として発売されたこのアルバムはヒットを記録する。以降、『歌姫3 〜終幕』、『フォーク・ソング〜歌姫抒情歌』などカバー・アルバムのシリーズ作をリリースする。2004年にはプライベートレーベル歌姫レコーズを設立した。

2010年10月、体調不良により芸能活動の無期限休止を発表。それ以降メディア出演は元より、公の場へ一切姿を現していなかったが、2014年12月31日、第65回NHK紅白歌合戦に「スペシャルゲスト」として、ニューヨークのレコーディングスタジオから生中継で登場し、4年3か月ぶりに芸能活動の復活を果たした。 2015年1月、シングル 「Rojo -Tierra-」、カバーアルバム「歌姫4 -My Eggs Benedict-」をリリース、活動を再開する。 (「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 379 山口百恵/秋桜

2018-07-11 06:24:55 | 日記
心が落ち着かないとき、いや、乱れていてあたふたとしているときは、ふと、この曲を思い出します。

秋桜  山口百恵


「秋桜」(コスモス)は、1977年10月1日にリリースされた山口百恵の楽曲で、19枚目のシングルである。「日本の歌百選」に選ばれている。

リリースの約半年後、作者であるさだまさし自身がアルバム『私花集』(1978年3月25日リリース)でセルフカバーした。オリジナルは山口盤ではあるが、山口は1980年に引退したため、以降本作はもっぱらさだによって歌われている。また中森明菜や福山雅治、平原綾香などポップス・演歌・クラシック等のジャンルを問わず数多くの歌手によりカバーされている。(「Wikipedia」より)