80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

風来街道 迷いの辻

2016年12月10日 13時59分06秒 | 考える
金さえあれば、もそっと自由に、大胆に行動できるのにと思う。

が、今は、何をするにも、自分の軽い財布と相手の財布の中身を
いちいち気にしなければならない。
これでは、実際、何をしようとしても、思うように身動きがとれない。

現在は、とにかく、現状からの脱却を考えねばならない。

70歳、この歳では金になる仕事は無理だろうが、少なくとも、
体の自由が利く間は、何か他人のためになることはできると思う。

生涯現役
・・・誰かが言っていた。
「出来ない」と決めつけるな。

もと小児麻痺の自分を踏み台にして、
今は、やるかやらぬか、
出来ると思うか、出来ないと思うか、
ただそれだけのことだ。


もっとも、私の相手となる他人様は、
かえって何かと面倒になると、嫌がるかもしれないが。

他人に、当てにされる苦痛。
寄りかかられる苦痛。
そうだ、それもあるかも知れない。


そうなんだ。
兄貴も、私に対してそう考えているかもしれない。

出来るなら、人に頼らず生きていきたい。


今でも思い出すことがある。 
小学校の授業参観日だった。

算数の課題に手を挙げた。
多分、他人に、特に参観中の母に、
自分の存在を認めてもらいたかったのかもしれない。

ちょっと得意顔で、ほかの子を差し置き、黒板の前に立つ。
すらすらと解答できれば思い通りだったのだが、
出来るつもりが、途中で手が止まる。
・・・・・。
結局、級長だった子が解答。
私と、多分見ていた母も、面目を失う。 

60年前の傷跡・・・などと言ったら大げさだろうか?
いまだに、時折、あの光景がちらつく。
あれ以来、私は自分に自信がなくなった。

もしかすると、あの光景を払拭するために頑張って生きてきた。
私の人生は、そんな風に言えなくもない。
今、現在も・・・。

しかし、今さら、失ったもの (時間を含めて) を求めても、
何も出てきはしない。

としたら、やることはひとつ、新しく創り出していくことだ。
 

貧相、貧弱、どうしようもなく老人。
多分、私は、ずっと、こうやって鏡に映る自分を覗き込みながら、
歳を取っていくのだろう。

止まれ !!
サミュエル・ウルマンは言った。
生きた長さだけでは、人は歳を取らない。
生きる目的を見失った時、気持ちが弱った分、歳を取っていく。



もしかすると、私は他人と没交渉気味でよかったのかもしれない。
他人と生活していくと、つい相手が他人だということを忘れる。
そうやって、信じていた分、裏切られた時、ダメージが残る。

大昔、H・Hとの共同生活を思い出す。
他人を信じすぎるなと、H・Hは教えてくれた。 

他人を信頼するとは、その分、自己を放棄することなのかもしれない。


人は、ただ年を取るのではない。
詩人 サミュエル・ウルマンは「青春」で歌う。
 年を重ねただけで人は老いない。
 理想を失うときに初めて老いが来る。
 歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
 

「年の瀬・この頃思うこと(3) 気力について」

2016年12月06日 19時12分07秒 | 考える
クリーン・ウォークは、イベントではなく、日々の積み重ねだ。
ゴミ袋の常備。

他人のために・・・は、いずれ自らに返る。
大体、通路のゴミの散乱は、どう見ても不快だ。

自己満足? ・・・それは、それでいいではないか。
金にはならずとも、他人のためになる。
出来ることをやる。

大体、私は、何を求めて生きているのか?
改めて考えてみると、よく判らなくなってくる。

70歳を超え、いつも、体がどことなく痺れているような
そんな気がする。
体調不良・・・この頃、どことなく 「制御不能」 を感ずる。 
これが歳のせいだとは思わないが、  ・・・そう、断じて・・・ !!

正直、この頃、何度も思う事だが、
その内に体が動かなくなる予感、そして不安・・・。
惚けて、何も考えられなくなる、そんな予感と不安。

考えれば、まだ、人生、予定の半分も過ぎていない。
「私」を意識してから、まだ、60年しか経過していない。
今は、ちょこっと、気力が落ち込んでいるだけのこと。


風来居士よ、もう一度目覚めよ。
新たな旅立ちだ。  
何かやっておく必要があるはずだ。

私に、夢を、希望を・・・。 

そう、男にとって、70歳は、絶望的な時なのかもしれないが、
まだ 「的」 なだけ・・・、絶望ではない。  

・・・多分・・・そう・・・だ。


歳末は、とかく金が入り用になる。
が、金は天下の「回りもの」、基本、何とかなる・・・。
 

とは言うものの、本当は、金は天下の「回し者」でもある。
いやいや、とにかく 要注意、要注意・・・。

寒い夜に

2016年12月05日 19時12分12秒 | 考える
良いにしろ、悪いにしろ、過去の総ては、今、この時だけのために存在する。 

暗く、冷え冷えとした夜。
母の不在が、じわじわと胸の中に浸み込んでくる。
 

母の葬儀から半年・・・。

テーブル代わりの炬燵で、母の昔話を聞いていた日々が思い出される。
今思えば、聞きたかった事の半分も聞けなかった。
母は母で、話したかった事の十分の一も話せなかったのではないだろうか。


もう少し、母の昔話を聞きたかった。
きっと、私は、母に甘えたかったのかも知れない。


本当に世話になった。
今ある私は、総て母のおかげだ。
私は、この歳になっても、まだまだ、「甘えん坊」 なのだろう。

まだ、母の葬儀も終わったわけではない。
遺骨の扱い。
バタバタとして、慌てすぎ、急ぎすぎではないか。

などと、散骨が遅れている言い訳か・・・?!

でも、よくよく考えてみれば、それで1日でも長く一緒にいることになる。
それはそれで、また良いのではないだろうか。


散骨については、ゆっくり考えて、「一年忌」以降にする。


思えば、生母の顔を知らず、ずっと伯母に育てられてきた。
小児麻痺を患い、若い父には手に余ったのだろう。
もしかすると、一時期、私は父に見捨てられたのかも知れない。

さらに小児麻痺は、生母をも遠去けた。
生母は、姉と兄を育てるので、精一杯だったのだろう。


私の記憶は、伯母 (祖母だと思っていた。) との生活から始まる。
私は幸せだったか?
今、考えてみると、結構自由だった。
自分の立場を知らなかった分、幸せだったと、今は感じている。
知らないことが、幸せなことって、意外に多いのではないか。

叔母との生活の後、不意に育母と父との生活に入る。

母には本当に迷惑をかけた。
母は、父と結婚すると決めた時、私の存在は知らなかったらしい。
結婚して、初めて私を紹介された時、ビックリしたそうだ。
それはそうだろう。
これから新生活が始まると思っていたところに、
いきなり、へんてこなチビが顔を出したのだから。
 

と、私が今さら反省したところで、どうなるものではないのだが・・・。
でも、一言、言いたい。

「母さん、本当にありがとう・・・!!!!!」 


認知症を患った夫に「いい人生やった?」と
尋ねたら、「そうやな」と言って
「あんたと結婚したことがいちばんいいことやった」
とも言ってくれました。 言葉って大事ですね。
思っていても言葉にしてくれていなかったら、
さみしいでしょう。

夫が言葉を残してくれたことを、
宝物として持っています。


多賀洋子(介護の悩み相談処 「ゆりかご」 相談員)

新ラジオ深夜便 「珠玉のことば」  
 ~ラジオが教えてくれた名言100~ より

年の瀬、この頃思うこと(2)  春よ来い

2016年12月03日 09時52分54秒 | 考える
まぁ、人生とは、そういうものなのかもしれない 

と、いきなり、書き出してみた。

袖触れ合うも他生の縁というが、他生の縁にすべて対応していたら
袖がいくらあっても足りない。
 

出来れば、私も働きに出たいのだが、こんな体調では、
うまく勤め続けることができるか、疑問を感じ始めている。
勤めるからには、出来ることなら、数年後、退職を惜しまれて
形だけでも、継続を進められるような仕事をしなければと思う。

70歳の労働者は不条理なのか? 
まぁ、そうなんだろうな。 
現場は、結果を必要とする。
年寄りの暇つぶしではない。

昔取った杵柄ならともかく、これから仕事の手順を覚えて・・・。
まぁ、常識的に考えて不可能に近い話だ。
採用担当者も、そこまでは面倒見切れないというのが
正直なところだろう。

夢は、不条理を当然の事として映し出す。 
当たり前のようにして映し出す。


人は、年齢ごとに出来ることと出来ないこととが変わってくる。
年齢により、体調により、どうしても出来ることが限られてくる。
致し方ないこととはいえ、どうにも納得できないところもある。 


買い手がなければ、どんなに良いものでも売れようがない。
まして、売り手が、野のものとも山のものとも知れぬ相手。
さらに売り物が中古品では、その良しあしすら判断しようがない。
というより、はっきり「使いものにならない」と言った方がいい。
  

冷静に考えれば、すぐに結論が出ることなのだ。 


人それぞれに自分の人生がある。
自分の生き方、オンリーワン。  
これが私の唯一の人生だ。
これ以外には、ありようがなかったと思える人生を送りたい。


そう思って、ジタバタしてみたのだが、ふと思った。

労働、他人に働かせてもらう以外に、世に貢献できたと思える
生き方って無いものだろうか?
 

なかなか結論が出せないでいる。

ここどうも、何か書くと、年寄りの愚痴というか、繰り言になる。
注意せねば・・・。
と、言いつつ、同じようなことを、臆面もなく書いては投稿している。 

これもまた、私の人生の、とある一面の記録だ。

それにしても、このところ、環境も、内面も、共に寒い・・・。


これが、つまりは人生の冬なのだろうか・・・。
だとすると、私に春が訪れるのは、もう少し先なのかもしれない。
 

年の瀬、この頃、思うこと (1)  ルソー 第三の散歩

2016年12月02日 05時48分21秒 | 考える
ルソー「孤独な散歩者の夢想」
第三の散歩
死ななければならない時になって、本当は、どんな生き方を
するべきだったのか学んだところで、間に合うだろうか。



その力が無いと思っているのに、意に反して当てにされる苦痛。 
努力すればするほど、自分の無力さがはっきりしていく苦痛。
せめて自分だけは他人を頼らずに生きていきたいと思う。

逆に、当人はその資格があると思い、やる気満々なのに、
徹底して無視され続ける。

それが、希望と現実とのギャップ。 

つまるところ、物事は成るようにしか為らない。
他人が、そして自分ですら、どうのこうの言う問題ではない。
もしかすると、私は、自分の言葉を聴いてくれる相手が
欲しいだけなのかもしれない。
 

他人を見て、自分と比較するから妙な具合になる。
私がどう思おうと、どう動こうと、相手には何ら変化はない。
多分、私と彼との違いが、はっきりするだけのことだ。 
その事で、彼が、そして私が、どうにかなるというわけではない。

もっとも、それすら、こちらがそう思うからそう見えるだけの
ことなのかもしれない。
 

今さら、私が相手の影響力でどうにかなるというものでもない。
相手にとっても、私の影響力など一切無いというのが本当だろう。
 


「ノートより (8月)」 
いつかは必ず訪れる「死」に対して、こうあるべき、または
こうあらねばならないという思い込み、それもまたよかろう。
しかし、人は、何十年生きようとも、最後は死ぬべき存在なのだ。
そのうえ、自分の死後には、これっぼっちも関わりようがない。
(入院に際して思う。)