3年目に入って、最初の記事は是非圭介関係に!!
しかも凄く圭介に!!
と思ったので、何日か前に、ブログで叫んでいた。
圭介がいっぱいな本は、ゆまに書房から出ている『船津辰一郎』という本にします。
なんつってもページ数にして60ページ近くが圭介みっしりページ(笑)。
ちなみに絵は描きかけて挫折した圭介、紙に描いていたので写メってみた。
船津さんは、圭介が清国駐在公使だったころから日清戦争の頃圭介が日本に帰って来るころまでの5年ほど圭介の書生をしていた方です。
なので、日清戦争の頃の圭介の動きが日単位で詳しいったらありゃしない。
凄いよ、何日に圭介がパーティーを開いたとか、誰が逢いに来てとか、圭介に頼まれて按摩をしたとかね。
なにげに圭介との仲の良さをアピールされていました(笑)。
たとえば
『後年船津は夫人に述懐して「自分は公使の令息富士太郎さんよりも可愛がられたものです」と言っている。』
(富士太郎ー!!いや、不器用な父子なんだと思いたい)
『大鳥公使の残した如楓家訓を其まま身に体して実行したと思う節々が極めて多い。』
(前に如楓家訓って、家族にこうしなさいって言っても聞いてくれないから、こうだと良いな~ってのなんじゃない?って言ってたけど。いましたよ!実行してたらしい人!)
『暫時大鳥公使の湯治のお守りをして』
(日清開戦の前に身体壊して熱海に来てたじゃないですか。その時のことですけど、お守り!って!!)
(後、熱海での病気療養の湯治って、すぐ呼び戻されたんで一週間だけなんですね。そしてなにげにすずさんが同行しているらしい)
他にも、色々なエピソードが載っているので、この時代の圭介に興味のあるかたは是非読んでみることを、お薦めします。
あぁ、この人、北京で圭介の靴下とか繕ってたみたいですよ(笑)。
そして圭介はそれをすずさんに話していたみたいですよ(笑)。
この人の伝記は、なにげに日記の抜粋が多いのですが、日記を付けるようになったのは圭介の影響らしいです。
なので明治25年からしかないらしい(でも亡くなるまでつけてる)。
ところで、その日記はどこに行ったら読めるのでしょうか?
やっぱり出身地の佐賀かなぁ?
しかも凄く圭介に!!
と思ったので、何日か前に、ブログで叫んでいた。
圭介がいっぱいな本は、ゆまに書房から出ている『船津辰一郎』という本にします。
なんつってもページ数にして60ページ近くが圭介みっしりページ(笑)。
ちなみに絵は描きかけて挫折した圭介、紙に描いていたので写メってみた。
船津さんは、圭介が清国駐在公使だったころから日清戦争の頃圭介が日本に帰って来るころまでの5年ほど圭介の書生をしていた方です。
なので、日清戦争の頃の圭介の動きが日単位で詳しいったらありゃしない。
凄いよ、何日に圭介がパーティーを開いたとか、誰が逢いに来てとか、圭介に頼まれて按摩をしたとかね。
なにげに圭介との仲の良さをアピールされていました(笑)。
たとえば
『後年船津は夫人に述懐して「自分は公使の令息富士太郎さんよりも可愛がられたものです」と言っている。』
(富士太郎ー!!いや、不器用な父子なんだと思いたい)
『大鳥公使の残した如楓家訓を其まま身に体して実行したと思う節々が極めて多い。』
(前に如楓家訓って、家族にこうしなさいって言っても聞いてくれないから、こうだと良いな~ってのなんじゃない?って言ってたけど。いましたよ!実行してたらしい人!)
『暫時大鳥公使の湯治のお守りをして』
(日清開戦の前に身体壊して熱海に来てたじゃないですか。その時のことですけど、お守り!って!!)
(後、熱海での病気療養の湯治って、すぐ呼び戻されたんで一週間だけなんですね。そしてなにげにすずさんが同行しているらしい)
他にも、色々なエピソードが載っているので、この時代の圭介に興味のあるかたは是非読んでみることを、お薦めします。
あぁ、この人、北京で圭介の靴下とか繕ってたみたいですよ(笑)。
そして圭介はそれをすずさんに話していたみたいですよ(笑)。
この人の伝記は、なにげに日記の抜粋が多いのですが、日記を付けるようになったのは圭介の影響らしいです。
なので明治25年からしかないらしい(でも亡くなるまでつけてる)。
ところで、その日記はどこに行ったら読めるのでしょうか?
やっぱり出身地の佐賀かなぁ?