獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの「異者の旗」その4)法華経は「随自意」の教え

2025-01-15 01:50:34 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

freak4 - 諸経と法華経と難易の事 2/2
  __「随自意」って「自己中」? 
  

2018年2月18日投稿
友岡雅弥


前回の続きです。

 

本抄に、『法華経』が「難信難解」の理由として、伝教大師などの言葉をあげられながら、「易信易解は随他意の故に、難信難解は随自意の故なり」と述べられています。

「随自意」というのは、仏が相手に遠慮せずに、自分の教えを説くとい うことで、「随他意」は、相手の機根にあわせて、仏は、易しい教えや難しい教えを説く、ということです。
とりあえず、『法華経』が「無問自説」――すなわち、相手の問いに答えるのではなく、仏が自分の考え自体を述べる、「随自意」という流れで本抄は進んでいきますが、実は、『涅槃経』迦葉菩薩品も、『阿弥陀経』も、「無問自説」の「随自意」です。

このあたりをどう解釈するかが、ある意味、難しいし、醍醐味でもあります。

仏教の歴史からいうと、ゴータマ・ブッダが本当に説いたのは、「スッタニパータ」という経典の第4章と第5章の一部とされています。あとは、ゴータマ・ブッダが亡くなって何百年の間にできたものがほとんどで、多くの密教経典に至っては、イスラムがインドに入ってきて、その危機感から、インドにヒンズー至上主義が勃興しその影響下でできたものです。

それらの経典の中には、現実社会から離れた僧院で僧侶が(残念ながら、現実社会から離れた机上で)創作されたものもあり、逆に、そのような僧侶のあり方を批判した経典もあります。
例えば、「維摩経」は、そのような現実社会から離れた僧侶の机上の空論を批判して出来たので、僧侶の代表として、ゴータマ・ブッダの弟子たちが、現実社会に生きるヴィマーラキールティ(維摩)という在家の人間からこてんぱんにやっつけられるというお話がでてきます。

もちろん、「維摩経」が出来たのは、紀元前後で、ゴータマ・ブッダやその弟子の時代から何百年も経っているので、かわいそうに、 ゴータ マ・ブッダの弟子たちは、亡くなってから何百年も経った「維摩経」が成立した当時の、しかも現実社会から遠いところで、「机上の空論」をもてあそんだ「当時の僧侶」の代わりに、やっつけられているわけです。
かわいそうなものです。
ちなみに、ここでやっつけられている弟子たちは「声聞」、サンスクリットでシュラーヴァカ(ゴータマ・ブッダの教えを直接、聞いた人という意味)です。
だから、「維摩経」では、声聞は劣っているという話がでてくるわけです。

それから、別の経典では、バラモン教のヨーガ学派の影響で、修行者は瞑想をし、その瞑想でえる境地に段階があるとか書いてある。それを後の時代の人たち、さらには、経典が中国に入ってから、中国でそれを読んだ人たちが、「修行者の位階」と見ていったりするわけです。

さて、大きな問題がでてきました。そういうように、互いに矛盾したようなことが書いてある、さらには、声聞はダメだとか、菩薩には「位」があるとか書いてある、そんな経典群が、どばっと、中国に入ってきま した。

そういう複雑な、時には矛盾した事態をどのように解釈したか。

例えば、竺道生は、出家者のために説かれた教え、在家者にために説かれた教え、包括的に説かれた法華経、そして入滅の時に説かれた涅槃経という区分を考えました。

天台智顗は、釈尊はまず華厳経を説いて、人々の理解度を知り、そして仏になるのではなく、当時主流であったバラモン教と同じく「善業を積めば天国に生まれる」というような教えを説き、そして「大乗」を説き、「空」を説き、法華経を説き、入滅の時、涅槃経を説いたという、説を唱えました。五時八教といいます。
天台宗では、法華経以外は、人々の機根(理解力)の高低浅深にしたがって説かれた「随他意」の教えであり、法華経は、仏がその本意を語った「随自意」の経典である、というわけです。

うーん。苦しい説明ですが、まあ、筋は通っています。でも、『法華経』が説かれる前に、死んでしまった弟子たちはどうなってるのや、とか、突っ込みどころがあります。

実は、「随他意」という考え方により、経典の性格の違いを説明するというのは、人間には差別があり、だから、経典はいろんなパターンあるんだよ、という考え方なんです。経典の教えの違いを、人間の差別を基本として説明しようとするものなんです。ある人たちは、理解力が浅いから、バラモン教的浅い教えしか理解できない。ある人(声聞など)は、利他的ではないので、菩薩にはなれない。

でも、当時のインドで、人々が差別するような仕事についていても、利他的な行動をする人はいるわけだし、実際、ゴータマ・ブッダの弟子には、そのような生まれの高弟もいたわけです。

対して、「随自意」をよりすぐれたものとして、経典の性格を整理するやりかたというのは、すべての人が仏になれるというのが、仏教の根本思想である、と考えている、ということなんです。
今回の教材の前の部分に「諸経の如くんば、人には五戒・天には十善・梵には慈悲喜捨・魔王には一無遮・比丘の二百五十・比丘尼の五百戒・声聞の四諦・緑覚の十二因縁・菩薩の六度・譬えば水の器の方円に随い、象の敵に随つて力を出すがごとし。法華経は爾らず、八部・四衆皆一同に法華経を演説す」とあります。
仏の教えは、一切の差別なく、平等に説かれ、平等に衆生はそれを実践できる可能性があるのです。
しかし、「而るをいかにやしけん、弘法・慈覚・智証の御義を本としける程に、此の義すでに隠没して日本国四百年余なり。珠をもつて石にかへ、栴檀を凡木にうれり。
仏法やうやく顛倒しければ、世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲れば影ななめなり」

仏教の教えは、世間的教養や世間的身分や地位や職業や出自に関係なく、降り注がれるものなのに、日本ではそうではないというわけです。

 


解説

仏教の教えは、世間的教養や世間的身分や地位や職業や出自に関係なく、降り注がれるものなのに、日本ではそうではない……

こういう鎌倉時代の現実の矛盾に、日蓮は向き合ったわけですね。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 

獅子風蓮