友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。
カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH
ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。
2018年2月1日投稿
友岡雅弥
「顕仏未来記」には、インドの釈尊、中国の天台、そして日本の伝教、また日蓮大聖人の四人が、『法華経』を弘通した人として挙げられ、「三国四師」と名づけられています。
ここで、当時の時代背景を考えてみましょう。この時代は、念仏宗の隆盛とともに、諸宗の「密教化」も進みます。つまり、特別な呪法や、祈祷を行う流れが仏教に広がっていきます。
本来、釈尊のころは、祈祷や呪法を行わないのが仏教でした。なぜならば、仏教とは、仏=ブッダ=サンスクリットで 「目覚めた人」になる教えだからです。
そのため、超能力や加持祈祷は、仏教徒は用いてはならなかったのです。
しかし、ゴータマ・ブッダが亡くなって、1000年以上経つと、ヒンズー教に影響され、仏教も呪文や祈祷を行うようになります。これが密教です。
密教の考え方では、人間離れした特別な力を持つ存在が崇拝されます。それで、その特別な力が、だれだれからだれだれに秘密に伝えられたと、「血脈」というものが喧伝され、自分はだれだれから第何代目の法主である、などという血脈相承の系譜がもてはやされるわけです。
三国四師をごらんください。時間的に、それぞれ何百年も隔たっています。直接、それぞれは、会ったこともありませんし、当然、秘密の相承など受けたこともありません。
時間の隔たりを越えて、何が相承されるのか、継承されるのか――それは、『法華経』の思想です。『法華経』の思想内容を自分のものとした人の系譜が、三国四師なのです。
ある意味、それは「創造」と言えるかもしれません。
ただし、「創造」には、「恣意性」「独善」という危険がいつもつきまといます。
「自分勝手な解釈」、「自己流の思いつき」「自己中心的な満足」なのかもしれません。
そこで、「恣意性」は、どのようにして避けることが出来るのか?いかにして、「自己中心性」を乗り越えて、謙虚になれるのか?
それは「他者性」に外なりません。他者のための具体的行為、社会で差別されている人たちの側に身を置くこと。
日蓮大聖人が、これら四人をあげているとき、注目すべきは、当時の支配者や、支配的イデオロギーから、攻撃されたということです。
実際の歴史でもゴータマ・ブッダは、チャンダーラと言われる、差別された不可触民が着ていたカサーヤと言われる汚い衣服を身にまといました。
天台・伝教がそうであったかは疑問ですが、日蓮大聖人は、支配者から攻撃されたご自身の立場から逆照射して、その点で、天台・伝教も支配的立場から攻撃された人の系譜に置きます。
支配者から排除されること――これも、もう一つの法華経の行者の系譜の条件なのです。
【解説】
日蓮大聖人が、これら四人をあげているとき、注目すべきは、当時の支配者や、支配的イデオロギーから、攻撃されたということです。
実際の歴史でもゴータマ・ブッダは、チャンダーラと言われる、差別された不可触民が着ていたカサーヤと言われる汚い衣服を身にまといました。
天台・伝教がそうであったかは疑問ですが、日蓮大聖人は、支配者から攻撃されたご自身の立場から逆照射して、その点で、天台・伝教も支配的立場から攻撃された人の系譜に置きます。
支配者から排除されること――これも、もう一つの法華経の行者の系譜の条件なのです。
勉強になります。
与党化した創価学会・公明党は大聖人直結と言えないのでは……
友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。
獅子風蓮