友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。
カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH
ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。
freak 3 - 諸経と法華経と難易の事1/2
__無仏の時代の私のありかた
2018年2月15日投稿
友岡雅弥
このご消息(手紙)は、門下の富木常忍が『法華経』の法師品の「難信難解」について質問をしてきたことについて、日蓮大聖人が答えたものとされます。
法師品は、釈尊が入滅した後の「信仰とはどうあるべきか」を、『法華経』を創作した人たちが、書き示したものです。
一応、釈尊が自分の滅後を予想するという形ですが、歴史的事実としては、『法華経』を創った人たちが、『法華経』成立のころ(紀元前後1~ 2世紀)に置かれていた社会的状況を示すものです。
『法華経』のオープニングにあたる「序品」は、『法華経』が作られたときの時代状況を表したものと考えられています。
仏教において、利他の修行を行うものもあれば、苦行を行うもの、瞑想を行うもの、呪術的な祈祷っぽいものを行うものなど、さまざまな信仰形態が混雑していることが、「序品」の記述から見てとれます。
故に、『法華経』を創った人たちは、この混乱の時代に、「何が仏の本質なのか?」「何が仏の教えの本質なのか?」「自分たちが行うべきことは何なのか?」を徹底して考え抜いたことが、『法華経』の幕開け(序品)に、見てとれるわけです。
さて、法師品を見ると、最初に『法華経』の法門を学び、それをわがものとし、他者に説き示すことの大切さが何度も強調されます。これは、仏が入滅した、「無仏の世」において、「仏が説いた法」を自らのものとし、仏に代わって自らが「法を説くもの」となることが、仏教における本質であると宣言したものと言えます。
「如来(仏)の事(行為)を行う者」という一節が、「法師品」には現われますが、ある意味、これが法華経全体のテーマであると言えます。いや、本来の仏教のテーマであるとも言えます。
仏教とは、「仏を拝んで功徳をもらう宗教」ではなく、「自らが仏(目覚めた者)となろうとする宗教」だと言えます。
しかし、「序品」にあるように、当時の仏教には、「仏」や「仏塔」を拝んだりして、本来の仏教の精神を忘れ去ってしまったような風潮が蔓延していました。
だから、「難信難解」であるわけです。人々が「拝んで功徳をもらう宗教」と思っているのに、いや、「仏教というのは、自らが仏になる宗教だよ」と説き広めていくわけですから。だから、世間との軋轢も生じるわけです。
ちなみに、「功徳」というのは、「ご利益」のことではありません。サンスクリットで、「グナ」と言う言葉の意訳で、「優れた人徳」という意味です。
【解説】
仏に代わって自らが「法を説くもの」となることが、仏教における本質であると宣言したもの……
仏教とは、「仏を拝んで功徳をもらう宗教」ではなく、「自らが仏(目覚めた者)となろうとする宗教」だと言えます。
なあんだ、そうなんですね。
初期の創価学会の信仰は、本来の法華経の精神からズレていたということでしょうか。
勉強になります。
友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。
獅子風蓮