佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。
まずは、この本です。
佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』
ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。
国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
■第1章 逮捕前夜
□打診
□検察の描く「疑惑」の構図
■「盟友関係」
□張り込み記者との酒盛り
□逮捕の日
□黒い「朱肉」
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。
第1章 逮捕前夜
「盟友関係」
ここで読者の理解のために東郷大使、前島補佐、私のプロフィールと相互関係について簡単に説明しておきたい。
東郷和彦氏は1945年生まれ、祖父は東郷茂徳(しげのり)元外相、父は外務事務次官、駐米大使を歴任した東郷文彦氏である。外務省サラブレッドの家系に生まれた外交官だ。東京大学教養学部を卒業し、外交官(キャリア)試験に合格し、1968年に外務省に入省した。
前島陽氏は65年生まれ、東京大学法学部を卒業し、同じくキャリア試験に合格し、88年に外務省に入省した。
私は60年生まれ、同志社大学大学院神学研究科を修了し、外務省専門職員(ノンキャリア)試験に合格し、85年に外務省に入省した。
私たち三人は、94年から95年にモスクワの日本大使館に勤務するという共通の経験をもっていた。東郷氏は特命全権公使、私と前島氏は政務担当の二等書記官だった。
モスクワ時代、私と東郷氏は親しい関係にあったが、前島氏とはそれほど親しくなかった。私と東郷氏が酒を酌み交わして話をすることが好きなのに対して、前島氏は体質的に酒を受け付けず、社交活動を好まない「ちょっと気むずかしい青年」という印象を私も東郷氏ももっていた。
95年4月、7年8ヶ月のモスクワ勤務を終え東京に戻った私は、外務省国際情報局分析第一課に配置された。それから2ヶ月ほどして、前島氏が分析第一課の総務班長に就任した。
モスクワ時代から前島氏はロシア語能力が高く、また事務処理も速く、「要領がいい」という印象を私はもっていた。同時に前島氏の、自分の意見を臆せずに言うスタイルを煙たく思う上司がいたことも事実である。私は情報収集・分析業務をするなかで、前島班長にはたいへんな勉強家で、学識に裏付けられた優れた洞察力があることに気付いた。
キャリア職員であるが出世にばかり目を向けるのではなく、日本の国益が何であるかを洞察し、具体的目標を設定し、機転と根気をもって目標実現を達成する資質を前島氏に認めた。
96年秋、東郷氏が欧亜局審議官(局長に次ぐポスト)に就き、対露外交の司令塔としての機能を果たすようになった。97年7月、経済同友会における演説で橋本龍太郎総理が日露関係を「信頼」、「相互利益」、「長期的な視点」の三原則によって飛躍的に改善すべきであるという「東からのユーラシア外交ドクトリン」を提示するが、この三原則は東郷審議官が起案したものだ。
この演説を契機に日露関係は、北方領土交渉を含めて大きく動き出す。この頃、前島氏はロシア支援室総務班長(課長補佐)に異動していたが、北方領土問題を解決し、日露関係を戦略的に転換することが日本の国益に貢献すると確信し、いろいろなアイディアを私と率直に話し合うようになっていた。そして、東郷審議官も前島補佐の能力に着目し、目をかけるようになった。
一言でいうと、97年以降、東郷審議官、前島補佐、私は同じ対露外交戦略で結びついた盟友関係にあったのである。
【解説】
97年以降、東郷審議官、前島補佐、私は同じ対露外交戦略で結びついた盟友関係にあったのである。
ここは押さえておくべきポイントですね。
獅子風蓮