というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
■五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記
五杯目の火酒
1
__酒呑んでますか」
「呑んでますよ、しっかりと。フフフッ」
__五杯目の酒ですから、大切に呑んでください。
「そんなに呑んでる? あたし、そんなに呑んでるとは思えないけど」
__かなり、クイクイと呑んでますよ。
「そう?」
__そうですよ。女としては、かなりいい酒呑みじゃないかな、あなたは。
「そんなことないよ。あたしみたいに弱いのって、いないよ。ほかの人はもっと強いよ」
__まあ、いいでしょう。しかし、なんで手術なんかしたの。喉といえば、あなたたちの財産じゃないですか。
「うん。やっぱり、無知だったとしか言いようがないんだ。パタッと声が出なくなったときがあったんだよ」
__いつの頃の話?
「デビューして、5年目くらいかな。どうしても声が出なくなっちゃって、入院したんだ。一週間、スケジュールを無理してあけて、休養したわけ。テレビはそういうとき、かなり融通がきくんだけど、営業はそうはいかないの……」
__営業? 営業っていうのは……。
「ああ、それはね、地方でショーをやったりクラブへ出たりして、日建ていくらでお金をもらう仕事のことを言うの」
__へえ、それを営業と呼ぶのか。まあ、まさに、営業そのものだけどね。で?
「うん、一週間くらい入院して、声の方も少しよくなったんで、退院したわけ。でも、営業のスケジュールは変更がきかないんで、退院した翌日、もう地方へ行って、ショーか何かに出演しなければならなかったんだ。久しぶりに歌うわけじゃない。嬉しくてね、張り切って歌っちゃったの。ショーだから、20曲くらい歌わなくてはならないんだ。ワァーッと歌って……ところが、翌日から、また、パタッと声が出なくなった。それで、みんな慌てちゃったんだ」
__それまで、 そんなことはなかったの?
「いや、前から声が出なくなることはよくあったんだ。でも、そのときは、一週間も休んだのに、そのすぐあとにまた出なくなったんで、これは大変だということになったわけ。あれだけ休んだのに、どういうわけだろう、ただの疲労とは違うんじゃないか、って」
__なるほど、声帯の疲れじゃなくて、喉の異常と考えたわけだ。
「そうなんだ。そこでね、国立病院で見てもらったら、結節だから切らなくてはいけない、ということになったの」
__ポリープとかいうのかな。あれって、よく歌手がなるけど、どういう病気なの?
「喉を使いすぎて、小さなコブみたいのができるんじゃないのかな」
__それが、あなたにもできているから、切除しろということになったのね?
「うん」
__前は、休めば元に戻っていたの?
「そうだね……声は昔からよく出なかったんだ。それが心配だから、ふだん話すときもほとんど声を使わなかったくらいでね。どうしてもしゃべらなくてはいけないときは、小さな、空気のかすれるような声で話してた。もったいなかったんだよ。人とおしゃべりする声があったら、歌う声に残しておきたかったから。デビューした頃、あたしが無口だと思われてたのは、ひとつにはそれもあると思う。だから、なんて言うのかな、出ないのが普通だったんだ、あたしにとっては。その声を貯めて、それを絞り出していたんだよね、きっと。だから、一週間休んで出なくなったときも、そんなに慌てることはなかったはずなんだ。何かの条件が重なっただけのことで、やっぱり少し休んで、また声を貯めれば、それでよかったんだよね。ところが……切っちゃったんだよね。早く楽になりたいもんだから、横着をして、切っちゃったわけ」
__切ったのね、実際に。
「切ったんだ。切っちゃったんだ。思うんだけど、あたしのは結節なんかではなかったんじゃないだろうか」
__どういうこと?
「よくはわかんないんだけど、あれは先天性のものだったんじゃないかなあ。あたしのは、喉を使いすぎたから、ああなったというわけじゃなかったんだ。子供の頃から、歌い出す前から、そうだったんだ。あれは、先天的なものだったんじゃないだろうか。だって、そうじゃなければ、子供の頃からあんな声が出るわけがないもん」
__先天的な、結節、のようなものが、あなたの喉にはあった……。
「歌手になってから、使いすぎて急にできたっていうはずもない。だって、その前の方が、むしろいっぱい歌ってたんだから。あのときも、ただ休めばよかったんだ」
__そう思う?
「そう思う」
__あなたは、あまり後悔したりしない人のように思うけど、それは別なんだね。
「別だね、残念だね。自分の声に無知だったことが、口惜しいね」
__口惜しいか……。
「うん。決まってたんだよね、その、先天的な結節みたいのを取っちゃえば、声が変ってしまうということは、ね。でも、あのときはわからなかった。結節さえ取れば、これから楽に声が出るようになるって、それしか考えなかったんだ。でも、それを切り取ることで、あたしの、歌の、命まで切り取ることになっちゃったんだ」
__手術はうまくいったんでしょ?
「うん。全身に麻酔されて……全身を裸にされて、白いシーツをかぶせられ、注射を打たれ、数分するともう体中がふわっとして……気がついたときにはもう手術が終ってた。手術はとてもうまくいったんだって」
__手術そのものには問題なかったわけなんだね。
「そうなの。問題は、手術すること自体にあったんだから」
__もし、そのとき、手術をしなかったとしたら……。
「今度の、この引退はなかったと思う」
__ほんと?
「その手術が、あたしの人生を変えたと思う。よいとか悪いとか言いたいわけじゃなくて、結果として変ってしまったと思うんだ。引退ということの、いちばん最初のキッカケは、この手術にあるんだから……」
__そんな前から、やめることを考えてたの?
「ある意味ではね」
__どうして?
「声が変ってしまったんだよ。まったく違う声になっちゃったの」
__そんなに変った? ぼくたちにはよくわかんないけどなあ……。
「変ったんだよ。あたしたちも、はじめの頃はそれに気がつかなかった。手術して、しばらく休んで、初めて歌ったとき、やっぱり、あれっ、とは思ったんだよ。声がとても澄んでいたんだ。あれっ、とは思ったけど、おかしいなとは思わなかった。長く休んでいたから声が綺麗になっただけだろう、歌いこんでいくうちに元のかすれ声に戻るだろう、と思っていたわけ。ところが、いつまでたっても澄んだままなの。変だな、と少しは思うようになったんだ、時の経つのにつれて。でも、それが手術のせいだとは思わなかったの。思いたくなかったのかな。手術によって声の質が変ったなんて、それこそ考えたくもなかった。でもね、どうしても、それに気づかざるをえないときがきちゃったんだ……」
__テレビかなんかの録画を見て?
「そうじゃないの。レコーディングのときなんだよ。手術後、初めてのレコーディングがあったの。〈私は京都へ帰ります〉という歌だったんだけど。そのときなんだ」
__レコーディングされた自分の声を聞いて、変ったと思ったわけだね。
「違うんだよ。あたしの場合はね、ディレクターもミキサーもとても気の合った人たちばかりでレコードを作ってたから、お互いによく知っていたわけ。たとえば、ミキサーの人は、あたしの声の質とか、量とかのレベルをよく知っているわけ。だから、そのときも、いつものように、あたしのレベルに合わせて、セッティングが終っていたの。ところが、いざ歌い出したら、高音のところで、針が飛びそうなくらい振れすぎちゃったんだよ」
__なるほど。
「みんな、おかしい、おかしい、と言い出して、もう一度やるんだけど、同じなんだ。 高音が、澄んだ、キンキンした高音になってしまっていたわけ。あたしのそれまでの歌っていうのはね、意外かもしれないんだけど、高音がいちばんの勝負所になっていたの。低音をゆっくり絞り出して……高音に引っ張りあげていって……そこで爆発するわけ。そこが聞かせどころだったんだよ。ところが、その高音が高すぎるわけ。あたしの歌っていうのは、喉に声が一度引っ掛かって、それからようやく出ていくとこに、ひとつのよさがあったと思うんだ。高音でも同じように引っ掛かりながら出ていってた。ところが、どこにも引っ掛からないで、スッと出ていっちゃう。前のあたしに比べると、キーンとした高音になってしまったんだよ。ミキサーの機械が、ハレーションを起こすみたいになっちゃうわけ」
__それで、どうしたの?
「ミキサーの人も困って、仕方がないから、高音のとこにさしかかると、レベルをグッと下げるようにしたの。そうしないと、うまく収まらなくなってしまったんだよ。そのためにどういうことになったかというと、歌に幅がなくなったんだ。歌というよりは音だね。音に奥行がなくなっちゃった」
__厚味がなくなってしまった。
「そう。そしてレコードに力みたいのがなくなってしまったわけ」
__そういうことか……。
「聞いている人には、はっきりとはわからなくても、あたしにはわかる」
__あなたの歌から、なにか急速に力がなくなっていったような、そんな気がぼくにもしてたけど、それは、もっとあなたの精神的なものから来ているんだと思っていた。あなたの置かれている状況の変化とか、そういうものだと……。そうか、そういうことだったのか……。
「手術する前は、夜遊びしても、声が出なくなるのが心配で決して騒がなかったの。でも、手術してからはその心配がなくなった。いくらでも声が出る。でも、その声はあたしの声じゃないんだよ」
__少なくとも、前の、あなたの声じゃない。
「まるで前と違ってたんだ。そのことに気がついてから、歌うのがつらくなりはじめた」
__つらくなっちゃったのか……。
「つらいのはね、あたしの声が、聞く人の心のどこかに引っ掛からなくなってしまったことなの。声があたしの喉に引っ掛からなくなったら、人の心にも引っ掛からなくなってしまった……なんてね。でも、ほんとだよ。歌っていうのは、聞いてる人に、あれっ、と思わせなくちゃいけないんだ。あれっ、と思わせ、もう一度、と思ってもらわなくては駄目なんだよ。だけど、あたしの歌に、それがなくなってしまった。あれっ、と立ち止まらせる力が、あたしの声になくなっちゃったんだ」
__でも、あなたは依然として充分にうまいじゃないですか。そこらへんの歌手よりも数倍うまい。
「確かに、ある程度は歌いこなせるんだ。人と比較するんなら、そんなに負けないと思うこともある。でも、残念なことに、あたしは前の藤圭子をよく知っているんだ。あの人と比較したら、もう絶望しかなかったんだよ」
__そうか。どうしたって、あなたは、あの人と比べないわけにはいかないよな。
「そうなんだ。そうすると、もう、絶望しかないわけ。藤圭子の歌を歌うんだけど、それは藤圭子の歌じゃないんだ。違う歌になっているの。人がどんなにいいと言ってくれても駄目なんだ。それは理屈じゃないの。あたし自身がよくないって思えるんだから、それは駄目なんだよ。だいいち、あたしが歌ってて、少しも気持がよくないんだ」
__そうか、気持がよくないのか。
「タクシーなんか乗っていると、運転手さんに言われるわけ。この頃、ずいぶん声が綺麗になりましたね、って」
__あの人たちは、ラジオでよく聞いているからね。
「その人がどういうつもりで言っているのか、よくはわからないんだけど……そのあとに、だから最近の歌はよくないとか言うんじゃないんだからね。でも、そう言われると、ビクッとするの」
__そうだろうね。
「自分のいちばん恥ずかしいとこを見られちゃったような気がして……ほんとに……」
__それはドキッとするだろうな。
「手術のあとからは、みんなに声がよくなりましたね、よく出るようになりましたね、よかったですね、って言われるようになったけど、そして、表面的には、ええ、なんて答えてたけど、ほんとは、違う、違う、とおなかの中で言いつづけてたんだ。よくない、よくない、って」
__微妙なものなんだね、声っていうのも。
「そうなの。それなのに、そこにメスを入れちゃったんだ。変わるはずだよね。お母さんはね、これで、純ちゃんがいつ声が出なくなるかとヒヤヒヤしながら聞いていなくてすむ、って喜んでたんだ。でも、本当はね、あたしの声が変わっちゃった、駄目になっちゃったということを、いちばん早く知ったのは、お母さんだったんだよ」
__どういうこと? それは。
「手術してすぐのショーのとき、会場にお母さんも来ていたんだよね。あたしが本番の前に音合わせか何かをしてたらしいんだ。それをね、舞台の袖で聞いていたお母さんが、傍にいる人に訊ねたんだって。純ちゃんの歌をとても上手に歌っている人がいるけど、あれは誰かしら、って。その人が驚いて、何を言っているんですお母さん、あれは純ちゃんが歌っているんじゃありませんか……」
__ほんとに、お母さんがそうおっしゃったの?
「うん」
__すごい話だね……。
「お母さんは耳を澄ましてもういちど聞いたらしい。でも、そう言えば純ちゃんの歌い方に似ているけど……としか言えなかったんだって。お母さんは、その話を、最近になるまで教えてくれなかったんだけど、ね」
【解説】
不用意に喉の手術を受けたばかりに、声が変わってしまい、昔の藤圭子ではなくなったと本人はいう。
沢木耕太郎さんからみて、今でも歌はうまいし声もいいと。
どうも、藤圭子さんには潔癖症というか完璧主義のようなところもあったのかもしれません。
獅子風蓮