佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。
まずは、この本です。
佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』
ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。
国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□「小泉内閣生みの母」
□日露関係の経緯
□外務省、冷戦後の潮流
□「スクール」と「マフィア」
□「ロシアスクール」内紛の構図
□国益にいちばん害を与える外交官とは
□戦闘開始
□田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
■外務省の組織崩壊
□休戦協定の手土産
□外務官僚の面従腹背
□「9・11事件」で再始動
□眞紀子外相の致命的な失言
□警告
□森・プーチン会談の舞台裏で
□NGO出席問題の真相
□モスクワの涙
□外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。
外務省の組織崩壊
小寺氏をロシア課長に再任することについて、外務省幹部は強く抵抗した。もはや、小寺氏を巡る「ロシアスクール」内部のいざこざにはとどまらない大問題となった。外務大臣が従来の慣行を無視して、恣意的人事を行うようになると外務省の秩序が崩れ、官僚がパトロン政治家に媚びを売り、行政の中立性が侵害されるとの危機意識が強まった。
これまで鈴木氏の影響力を排除するために、田中女史を最大限に活用していた一部外務省幹部たちも、急速に反田中色を鮮明にした。私とあまり親しくないある幹部が、廊下ですれ違いざまに「俺たちは田中眞紀子をジャンヌ・ダルクと思っていたが、実は西太后だった」と私に囁いた。
私が信頼する外務省幹部は、「婆さん(田中大臣)は、小寺をロシア課長に、(現ロシア課長の)渡邉を中東欧課長に、(現中東欧課長の)倉井(高志)をロシア支援室長に戻せと言っているが、ビデオの逆回しではないんだから、そんなことはできない。渡邉はロシア課長にとどまらせる」と強調していたが、結局、5月10日深夜、小寺氏をロシア課長に再任命する辞令が交付された。
ただし、ビデオの全面的な逆回しは行われなかった。その代わり、渡邉氏が官房付になり、夏まで実質的に失業状態になった。外務省幹部は、小寺氏がロシア課長任命を固辞することを期待していたのだ。ある幹部が私にこううち明けた。
「小寺は変わった奴だよ。こんな人事は固辞すると思っていたが、受けたよ。嬉しそうにしていたんだ。あいつには呆れたよ」
鈴木宗男氏との軋轢ではむしろ小寺氏に同情的であった外務省幹部も、小寺氏が田中女史を後ろ盾にしたことにより、厳しい眼で小寺氏を見るようになった。
この一件で、外務省の鈴木宗男氏に対する依存度は一層強まり、それぞれの思惑から、今まで私と親しくなかった幹部や中堅幹部が私に接触してくるようになった。私を通じて、鈴木氏の覚えをめでたくしようとの思惑が透けて見えた。
このような人々に私は「用件があれば直接鈴木事務所に電話をすればよいでしょう」と言って、鈴木氏への取り継ぎを断った。その翌年、鈴木宗男バッシングが始まると率先して鈴木攻撃に回ったのもこの人たちであった。
鈴木氏は、衆議院第一議員会館の事務所で、陳情、来客を受け付けていたが、機微な話や込み入って時間がかかる案件のときは、会館から徒歩3分のところにある十全ビルの個人事務所で会うことにしていた。
あるときロシア絡みの機微な話があり、私は十全ビルに赴いたが、廊下で某外務省幹部とすれ違った。私とそれ程親しくない幹部であるが、お互いに面識はある。私は会釈をしたのに、この人物は眼をそらした。
事務所に入ると、鈴木氏は「今、Sとすれ違わなかったか」と問いかけた。私は、「はい。私が会釈をしたら、眼をそらしました」と答えた。鈴木氏は「そうだろうな」と言って、紙を2枚私に見せた。それには、「田中眞紀子外務大臣の言行」と書かれ、省内で田中女史がいかに奇怪な発言、行動をしているかを綴った紙だった。
鈴木氏は「俺のところに持ってくれば、それを新聞記者に配ると思っているんだな。その手には乗らないよ」と言って笑った。私は、「稚拙な怪文書ですね。こんな手法ではすぐに足がつくし、第一、情報源が特定されてしまうではないですか。鈴木大臣経由で情報ロンダリングをしようとしているのですね」と答えた。それにしても外務省が組織的に怪文書作りをし、幹部がそれを配布しているというのは、私にとって衝撃だった。外務省という組織が崩れはじめていた。
小寺氏がロシア課長に復帰した後、鈴木氏が最も懸念したのは、田中女史の気迫に押されて、対露外交政策に揺らぎが生じ、日露関係が再び不信の構造に陥っていくことだった。
5月16日、衆議院沖縄北方特別委員会で田中女史は「私とロシアのかかわりの原点は73年の田中(角栄)総理とブレジネフ・ソ連書記長との会談」だと再び強調し、それをロシア側は、日本政府が対露政策を転換したシグナルと受けとめた。
鈴木氏にロシア側から「ほんとうのところを教えてくれ」という連絡が相次いだ。私にも、モスクワのロシア人国会議員や大統領府高官から「日本政府の政策転換の真意はなにか。日本はどういうゲームをロシアとしようと考えているのか。ほんとうのところを教えてくれ」との電話が何本もかかってきた。
ロシア人は、政策は人事によって表されると考える。政治的問題が起きたとき、ロシア人は「何が問題か」とは問わずに「誰が悪いのか(クト・ビナバート)」と言って、属人的に責任を追及する。小寺人事をロシア側は日本の政策変更と受けとめたのである。
私は親しくするロシア人に「2000年9月に東京、2001年3月にイルクーツクで行われた二つの首脳会談は、小寺ロシア課長の下で準備されたもので、イルクーツク声明の文案を詰めたのも小寺さんではないか。何を心配しているのか」と説明したが、納得しなかった。
「佐藤さん、そういう表面的な説明を求めているのではありません。私たちにもそれなりの情報は入ってきます。東郷さんと小寺さんの間には相当考えの違いがあり、東郷さんの考えがこれまでの日本の政策を決定する上で重要だったのです。東郷さんがオランダに行ってしまい、今度は小寺さんの考えが日本の政策を決定する上で重要なのです。
田中眞紀子外相が1973年の田中・ブレジネフ会談が原点と繰り返して言うのは、小寺さんの考えではありませんか。現に産経新聞や読売新聞は、これは日本の対露政策の変更につながると書いています。小寺さんは冷戦時代の四島一括返還論に日本の政策を戻し、ロシアとの戦略的提携は追求せず、アメリカとの関係だけを大切にすることを考えているのではないですか。日本がそのような路線を選択したならば、ロシアもそれに対応した対日政策を策定しなくてはなりません。ほんとうのところが知りたいのです」
ほんとうのところは私にもわからなかった。「トリックスター」田中眞紀子女史の効果が本格的に外交に現れてきたのかもしれない。組織が崩れはじめ、政策が漂流しはじめている。その中で、当事者が自覚しないままに対露政策が変化する可能性は否定できない。
当初、鈴木・東郷・佐藤と小寺の間に路線上の対立はなかった。あるのは人間関係のちょっとしたボタンの掛け違いから生じた軋轢で、どんな組織にもある話だった。それが「トリックスター」の登場によって変化した。このままではこれまで積み上げられてきた対露政策が崩壊してしまう。
東郷大使は後任の小町恭士欧州局長と東郷氏の盟友である森敏光欧州局審議官に気合いを入れることで、従来の政策を担保しようとした。
私は旧約聖書の「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレトの言葉第三章一節)を鈴木氏と東郷氏に説明し、ここは時を待つべきであるという「待機戦術」を提案した。二人とも私の提案を却下した。
鈴木氏は、全く別の戦術を考えた。鈴木氏自身が筆頭理事をつとめる衆議院外務委員会で、小寺人事も田中外相の一連の発言も日本政府が従来の対露政策を転換したものでないとの答弁を田中女史と外務官僚から引き出し、ロシアに対して政策変更は一切ないことを明らかにするという戦術だった。
対決は、6月20日、27日の2回行われた。ワイドショーでは、鈴木氏が「鈴木宗男の人権はどうなるんだ」と叫んだ場面だけが繰り返し報道されたが、鈴木氏は田中女史から、小寺人事は政策変更と何等関係ないこと、また73年の田中・ブレジネフ会談を原点とするのではなく、「四島の帰属の問題をはっきりさせてから平和条約を締結する」という93年東京宣言の内容を引き出した。
ただし、それ以降の日露関係の経緯を田中女史に理解させるには時間が足りなかった。もっとも外務省の事務方は森前政権の路線を継承する内容の答弁をしたので、日本政府が政策変更をしたのではないということは議会記録上明白になった。
6月27日深夜、私は鈴木氏と一杯やりながら「反省会」をした。
鈴木氏は「2回の討議で、73年から93年まで、20年時計が進んだのだから、あと1回機会があれば、イルクーツク声明まで行くよ。これで俺は、プロレスの悪役レスラーになったが、まあ『悪名は無名にまさる』だ」とそれなりに満足していた。
たしかにこの出来事を契機に鈴木氏は悪役になったが、それが後に述べる「国策捜査」への道につながることを、この時点で鈴木氏も私も全く認識していなかった。
ロシア側は、衆議院外務委員会の審議を注意深く分析し、田中女史の一連の発言は勉強不足に起因するもので、日本外務省内部には一定程度の混乱はあるが、対露政策が大きく変化することはないとの結論にとりあえず落ち着いたようだった。
【解説】
たしかにこの出来事を契機に鈴木氏は悪役になったが、それが後に述べる「国策捜査」への道につながることを、この時点で鈴木氏も私も全く認識していなかった。
例の「国策捜査」の背景には、こういうドタバタがあったのですね。
獅子風蓮