友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。
貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。
カテゴリー: FUKUSHIMA FACT
FF7-「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと
――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その7)
アクティビスト、ソーシャル・ライター
友岡雅弥
2018年3月25日 投稿
【1990年代 バラマキと丸投げ】
1990年代の飯舘村を象徴することばは「バラマキと丸投げ」です。一般的に使われる「バラマキと丸投げ」ではなく、“飯舘村の”バラマキと丸投げです。
地域地域の住民を信頼した「サポート・バット・ノー・コントロール(支援はするが口はださない)」の思い切った施策です。
全国的に中山間地振興が叫ばれるようになった1990年代。でも、実態は、バブルの夢をまだ追い求めるような巨大開発や産廃場、ゴルフ場開発などの、「住民本位」ではない「振興策」の花火が、まだまだ全国各地で打ち上げられていました。
しかし、1990年(平成2年)、飯舘村は「快適環境づくり条例」を作ります。「産廃とゴルフ場開発への道」は、そのなかで、明確に否定されました。
そして、村は、20地区に100万円ずつ交付(バラマキ)をしまた。何をするかは「自主的」に決める。村は口を出さない(丸投げ)。「やまびこ運動」と名づけられたこの活動により、伝統芸能の保存や、「地区白書」の作成など、20地区ごとに、さまざまな事業が進みます。
さらに、1994年に、第四次総合振興計画を策定。
村は1000万円の事業費を保証しましたが、やはり、何をするかは20の地区に任せられました。「バラマキと丸投げ」です。ただし、事業費の1割は地元負担とし、これにより各地区の事業案を住民が責任を持って審査するように促すようにもなっていました。
でも、当時、区長をされていたかたに話をうかがうと、「みんな競争して、いい案を考えた。負げらんねからね。楽しい競争だ。あの時はわくわくしたね。いろんな案がどんどん出てくるんだもの」と語られていました。
また、「企画には、どんどん若者も参加してもらった。今、中堅で自主的に村の活動をやっているメンバーは、このときの企画に携わった若手が多いね」とも。
自主・自立の風土は十二分に育成されていて、「促す仕組み」は必要なかったのかもしれません。
これ以来、飯舘村、また各地区の事業は、つぎつぎと高い評価を受けます。
特に、1990年(平成2年度)、「魅力ある農村楽園(カントリーパラダイス)づくり」で、過疎地域活性化優良事例表彰(国土庁長官賞)2005年(平成17年度)、「『大いなる田舎までいライフいいたて』を目指して」で、過疎地域自立活性化優良事例表彰(総務大臣賞)が、特筆すべきものでしょう。
特に、未来を担う子どもたちへの施策にも、飯舘村の先見性が見えます。あくまで子どもを「当事者」、「主体」と考える施策です。冒頭に挙げた、飯樋小学校の意匠にもそれが現われています。
小学校入学から中学校卒業までの子どもを、地域ぐるみで育てようという、「子供育成会」。地方で盛んな、婦人会、老人会、消防団と並ぶコミュニティ活動として、村民みんなが、その重要性について共通認識を持っている活動です。
他に、例えば、「いいたてエンジェル・プラン」。
少子化対策といっても、女性に負担を押し付ける「産めよ増やせよ」政策ではいけないでしょう。そこには、「男女共同参画社会づくり」の観点が必要です。そこで始められたのが、このプラン。まず、女性・男性が「手をとり合って社会を作る」ことが重要という考えが基本となっています。2003年に誕生し、全国初の取り組みとして、注目されました。また、全国2例目という、村の男性職員の育児休暇もあります。
それから、飯舘村には、村営の「本屋さん」があったのです。
よく、公営図書館を、民間業者に事業委託をするという話が、ここ数年、ニュースでとり上げられていますが、飯舘村は逆。「民営の図書館」ではなく、「村営の本屋さん」です。
センター地区と呼ばれる村の地理的中心に、緑のとんがり屋根のかわいらしい建物があります。これが本屋さん、「ほんの森いいたて」。
住民の意見聴き取りで、図書館を望む声が多かった。公民館には図書室はあるが小さい。財政的に「十分な施設」ができない。それで考えられたのが、村営「書店」です (1995年に開店)。在庫約1万冊のうち、児童書が3分の1。机やイスも置いていて、「図書館」と変わりません。立ち読み、座り読み大歓迎。
汚れて売り物にならなくなった本は、村が買い取り、公民館の図書室で閲覧・貸し出ししてくれるのです。
(写真:「ほんの森いいたて」)
【「までい」の村づくり】
「過疎地域で最も恐い問題は人口の減少ではなく、村民が自分たちの村を自分たちの力で興そうという『自立・自助』を失った 『心の過疎』である」
――「いいたて村までい企業組合」のホームページにある飯舘村の「村づくりの理念」です。
http://www.iitate-madei.com/village05.html
「までい」は、飯舘村の「住民参加の地域づくり」のキーワードです。漢字にすると「真手い」となるのでしょうか?「丹精込めて」「丁寧に」「手間ひま惜しまず」という意味です。
最初、村は、自分たちが現代社会に提供・提案できる一つの「理想の生き方」を表すことばとして、「スロー・ライフ」を考えていましたが、まだ、当時「スロー・ライフ」は、日本国内では一般的でなかった。ところが、足下に泉あり。ちょうど、村で昔から使われていた「までい」が、絶妙なまでに「スロー・ライフ」と同じニュアンスを持っていたのです。
そこで「までい」を、飯舘村の暮らしをアピールすることばとして使うようになりました。いや、飯舘村をアピールするというより、飯舘村が模範となり、全国に発信する新しい時代の姿を示すことばです。
正式に「までい」が村全体のテーマとして掲げられるのは、2000年代にはいって、「平成の大合併」で、南相馬市などとの合併で、村が大揺れになったときです。その議論のなかで、「飯舘村とは何か?」が、真剣に検討されました。そして、合併を選ばず、「までいライフいいたて」と題された第五次総合振興計画が策定され、村は合併協議会から離脱したのです。議論の深まりのなかで、飯舘村の歴史への理解がさらに深まり、「までい」のことばが、飯舘村を象徴するものとされたのです。
むろん、江戸時代以来、また戦後開拓以来の村の歴史そのものが、「丹精込めて村を作る」という「までい」の歴史でした。そして、上記、第三次総合振興計画以来(次に述べる第四次総合振興計画、そして今は、第五次)の歩みは、「までい」の伝統の確認と進化(深化)と位置づけることができると思います。
「丹精を込める」という観点に、自分たちが責任を持って、村を丁寧に作っていくという、住民参加、自主・自立・自治の観点が付け加わったのです。
【「日本で最も美しい村」の今】
このような努力を積み重ね、2010年9月、飯舘村は「日本で最も美しい村」に加盟することができました。全国、34番目です。
(写真:「日本で最も美しい村」飯舘 「負げねど飯舘!!」 提供)
「日本で最も美しい村」は、NPO法人「日本で最も美しい村」連合が、スタートさせたもので、地域資源や伝統、美しい自然を持ちながら、過疎などの問題を抱える村が、将来にわたってその美しさを維持しながら、住民による地域づくり、地域の活性化を行うことなどを目的としていて、5年ごとに資格の審査があります。
もとは、フランスで始まった活動です。
http://utsukushii-mura.jp
飯舘村の人たちの多くが暮らす福島市の松川仮設住宅の交流スペースにお邪魔したとき、「避難指示解除が出たら、一番先に帰るんだ」と仰っていた70代の男性。
「何十年も土を耕したんだ。『日本一美しい村』を目指して、みんなでがんばった。暮らしもやっと楽になった。東京から移住する人も出てきた。でも、今じゃその田圃が、黒い『トン袋』だらけになってよ。それで日本中に有名になっちゃった。これからだっていう時にだ。
でも、わしの村だから帰るんだ。若い人は来なくていい。子どももだ。わしら『後期高齢者』が、がんばればいい。また開拓だ」
男性が言った「トン袋」とは、原発事故後有名になった「フレコン・バッグ」のことです。
「フレキシブル・コンテナ」が正式な名称ですが、もともと、家畜飼料や工業原料を入れたり、土を入れたりすることも多いので、家畜もやっていたその男性には、「トン袋」が馴染の名前なのでしょう。飯舘村の平地には、おびただしい数のフレコンバッグが置かれています。
「日本一美しい村」が、黒いフレコンバッグだらけになってしまったのです。200万個以上ともいわれます。
(写真:飯舘村のあちこちに積まれたフレコン)
(写真:長期野積みになっているところには、緑のカバーがかけられている)
【解説】
地域地域の住民を信頼した「サポート・バット・ノー・コントロール(支援はするが口はださない)」の思い切った施策です。
飯舘村の人たちは、誇りをもって「日本一美しい村」作りのために努力したのですね。
その「日本一美しい村」が、黒いフレコンバッグだらけになってしまったのです。
なんという悲劇でしょう。
獅子風蓮