獅子風蓮のつぶやきブログ

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増田弘『石橋湛山』を読む。(その12)

2024-04-02 01:31:15 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
■第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第3章 中国革命の躍動――1920年代
■1)小日本主義
□2)満州放棄論
□3)ワシントン会議...一切を捨てる覚悟
□4)中国ナショナリズム運動... 「支那」を尊敬すべし
□5)山東出兵...田中サーベル外交は無用
□6)北伐完成後の満蒙問題... 危険な満蒙独立論

 


1)小日本主義
湛山が新報社に入社した1911年(明治44)に中国では辛亥革命が勃発した。そして翌年に清朝は崩壊し、中華民国が誕生したが、以降、1928年(昭和3)に蒋介石による北伐の完成でようやく国家統一が達成されるまで、国内は南北分裂、軍閥戦争、列強の侵略、ナショナリズムの高揚など政治的、経済的、社会的混乱が続き、この間日中関係も揺れに揺れた。

さて『新報』は革命前夜の1910年(明治43)、従来の中国軽視の態度に代わり、中国人の秀れた資質を強調し、その覚醒のあかつきには「歴史上未曾有の強国ならん」と予測して、「常に大なる同情と大なる嘱望の態度を以て之に対せん」との見解を明らかにした。したがって革命時にはこれを明治維新に匹敵する革命とみなし、徹底不干渉と民族自決の尊重を主張した。このような『新報』の対中国論調の変化は、『大阪朝日』『太陽』『日本及日本人』など当時の代表的ジャーナリズムに先駆けた画期的なものであり、『新報』の言論史上一つの重要なターニング・ポイントでもあった(山本四郎「中国問題論」)。以降『新報』は「中国革命肯定論」と「小日本主義」を立論の基礎にすえ、大正デモクラシーの潮流の中で特異な位置を占めることになった。若き湛山は、この新しい路線を継承・発展させる役割を担っていったのである。

では小日本主義とは何か。およそ一国の対外戦略をめぐる政争は、古今東西を問わず、枚挙にいとまがない。その典型的事例が、自国の勢力範囲を拡張すべきか縮小すべきかという、量的ないし質的規模に関する二者択一的な論争である。たとえば19世紀後半のイギリスでは、「大英国主義 (Large Englandism)」か 「小英国主義 (Little Englandism)」かをめぐる大論争が展開された。また普仏戦争前のドイツでは、「大ドイツ主義 (Grosdeutsche Bewegung)」か「小ドイツ主義 (Kleindeutsche Bewegung)」かの論議が激化し、プロイセンの勝利後に後者が選択された。そのほかアメリカにおける「孤立主義」か「国際主義」かの論争も、対外発展の国家的在り方をめぐる対立であった。
翻って近代の日本社会では、欧米諸国にみられた「大国主義」か「小国主義」かの一大論争は生じなかった。つまり日露戦争後から太平洋戦争終結まで、日本政府の大国主義的な対外膨張政策が自明とされ、最終的には大東亜共栄圏というかつてないアウタルキー(自給自足経済)的広領域を日本の勢力範囲としたのである。いわば対外発展と自国の膨張とが同義とされ、日本のアジア盟主化こそが取りも直さずアジアに平和と安定をもたらすとの独善的解釈がまかり通ったのである。

とはいえ日本近代史の表層上に、「大日本主義」へのアンチテーゼとして「小日本主義」がわずかに顔を覗かせていた。それは三つのイデオロギー的系譜より成っていた。第一は幸徳秋水に代表される社会主義者の一群、第二は内村鑑三らのキリスト教者たち、第三は『新報』の三浦銕太郎や湛山など自由主義者のグループである(中野好夫「小国主義の系譜」)。

第一および第二の系譜はひとまず置き、第三の思想的系譜について触れたい。
新報社の骨格を作り上げた天野は、既述のとおり明治期における三大経済学者のひとりと称され、とくにミルの経済思想を継承するとともに、その思想を日本に生かすことに尽力した人物であった。ミルの思想上の母体はアダム・スミス (Adam Smith) であり、彼は自由放任経済論と反帝国主義とを初めて明確に結びつけ、植民地放棄の必要を唱えた人物として、マンチェスター学派から「小英国主義」の開祖とみなされる。のちに同学派はこのスミスの理論を発展させ、「本国の過剰人口のはけ口としての植民地の現実的価値」を否定することにより、小英国主義を確立する(川田侃著『帝国主義と権力政治』39頁)。
『新報』は天野を介してスミス並びにミルの思想をその言論上にコピー化するわけであるが、対外政策面で具体的に小英国主義を小日本主義に転化したのが天野の弟子である三浦銕太郎であった。三浦はいぜん無名に等しいが、吉野作造の民本主義の直接の先行者に位置づけられる人物である(松尾尊瓮「急進的自由主義の成立過程」)。三浦は1912年(大正元)9月植松に代わり第四代主幹に就任すると、『新報』の言論を帝国主義反対へと導き、小日本主義を提唱した。すなわち論説「大日本主義乎小日本主義乎」(1913年4月15日号~6月15日号)で、大日本主義が軍力と征服とを優先して商工業を後にする「大軍備主義」であるのに対して、小日本主義は 「小英国主義」であり、領土拡張や保護政策に反対し、主として内治改善と個人の自由および活動力の増進により国民福祉を増進させる主義であると定義して、大日本主義を斥け、小日本主義を礼賛した。
この三浦が後継者として育成したのが湛山にほかならなかった。

湛山は新報社入社以前にすでに民主主義(当時は民衆主義とか主民主義とか呼ばれた)思想を体現していた。リンカーン米大統領 (Abraham Lincoln) の唱えた「人民の、人民による、人民のための政治」が民主政治の原理 であるとすれば、吉野作造ら民本主義者が「人民の、人民のための政治」を肯定しながらも「人民による政治」に懐疑的であったのに比較して、三浦、湛山ら民主主義者はこれら三つの政治を等しく唱えた点で画期的であった。この近代的精神をもって、湛山は藩閥・軍閥政治に反対し、憲法ならびに議会主体の立憲政治を主張する一方、帝国主義・保護主義に代わる平和主義・自由主義を掲げたわけである。湛山が小日本主義、すなわち日本の主権的領土を旧来の主要四島に限定し、経済合理主義と国際協調主義に立脚した平和的発展論を唱えたのは新報社入社以後であり、その点で三浦の湛山に対する影響は色濃いが、湛山は第二章で論じたとおり、1910年代に三浦の小日本主義をその独自の先進的思想哲学をもって精練し、近代化していったのである。

 

 


解説
近代の日本社会では、欧米諸国にみられた「大国主義」か「小国主義」かの一大論争は生じなかった。つまり日露戦争後から太平洋戦争終結まで、日本政府の大国主義的な対外膨張政策が自明とされ、最終的には大東亜共栄圏というかつてないアウタルキー(自給自足経済)的広領域を日本の勢力範囲としたのである。いわば対外発展と自国の膨張とが同義とされ、日本のアジア盟主化こそが取りも直さずアジアに平和と安定をもたらすとの独善的解釈がまかり通ったのである。

こういう時代に、帝国主義に自由主義の立場で反対したのが石橋湛山らのグループだったのですね。
勉強になりました。

 

獅子風蓮



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