獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅠ:ブログの開始 (11)

2021-09-20 01:06:38 | 対話ブログ

■正義は勝たない その2                投稿日: 2011年12月24日
今日、組織の壮年部の方が私のところに新年勤行会の入場券を持ってきました。「財務はおつかれさまでした」と言ったので、どうやら私が財務をしていないことを知らないようです。さて新年勤行会はどうしたものか考え中です(笑)。

太平洋戦争中、日本は「鬼畜米英」という言葉で日本国民を煽り、アメリカ軍のB-29爆撃機に対して、女性や子供にまで竹槍を持たせて応戦させようとしました。国民は日本軍から「神国日本を信じて祖国の勝利のために命を惜しむな」と刷り込まれていきました。当時の日本の多くの母親は、我が子を戦場に送る悲しみを決して周りに感づかれないように押し殺し、どんなに戦況が不利になろうと「カミカゼ」を信じ、祖国の勝利を信じていたのです。

鬼畜米英という言葉によって、外部に憎き敵を想定し、いわゆる全体主義思想を一般国民の隅々まで行き渡らせる手法は、まさに創価学会そのもの。戦後、創価学会は日蓮仏法の好戦的な排斥思想を利用して、物質的な豊かさを信じた高度経済成長時の都会に集まる人々の阻害された心をつかみ、急激に組織を拡大して行きました。「濁悪のこの世行く学会の行く手を阻むは何やつなるぞ」威風堂々の唄…日本軍歌の代表格「同期の桜」によく似た曲です。私が学生部だったころは、別名「濁悪の唄」と言ったものでした(笑)。こうした軍歌とひとつも変わらない煽動的な旋律と歌詞を来る日も来る日も繰り返すことによって、自分たちの信じる正義を阻むすべての宗教に牙を剥かせていきました。富士大石寺への登山に向かう貸し切りの列車やバスの中では、入れ替わり繰り返される青年部の指揮のもと、声がかれるまで学会唄を合唱したものです。それは内部組織の団結をはかると同時に、外部からよけいな情報を入り込ませないようにするための巧妙なアジテーションでもあったわけです。

太平洋戦争中の鬼畜米英という言葉に象徴されるように、敗戦によって決定的な価値観の転換を迫られた日本人に対して、「広宣流布」という言葉のもと、ふたたび敵を憎む心を増長させながら思考停止へと人々を導き、金と権力を我がものにしていく。結局それが創価学会のやってきたことでした。戦時中、家庭の鍋や包丁までも「お国のために」という言葉で有無を言わさず徹底的に巻き上げていく供出制度は、どんなに貧しい家庭でも「広宣流布と人間革命のために」の言葉で有り金を出させる学会の財務と驚くほどよく似ています。

私はそのことにやっと気づきました。ほんとうに遅すぎました。53年の自分の人生の中で、どれだけの時間を無駄にしたことか。無駄ばかりではなく、まわりの人々にどれだけ迷惑をかけてしまったかを考えると、どうしても泣き寝入りはしたくないと思っています。多くの国民が終戦を迎えてはじめて自分たちのしてきたことが分かったように、創価学会が崩壊したときに、おそらく多くの人が精神的空洞状態に陥るのだと思います。今でも創価学会員は爆撃機に竹槍を突いてでも敵を倒そうと思っている人が少なくはありません。

私が自分のMCに気づいてすぐに書き込んだ学会員のブログなどはその典型的な例でしょう。幸か不幸か、たまたま特別に洗脳のひどいところへ行ったものですから、あのときの経験で私は創価学会のおかしさを確信したのです。心ある人があのブログを訪れれば、多かれ少なかれ創価学会が異常な集団であることに気がつくでしょう。そうした意味では、あのブログ「創価の森の小さな家」は一人でも多く脱会者を増やすための強力な武器となると思います。そんなことにも気づかないほどブログの主は洗脳されきっています。私の「53歳学会員」というHNでの書き込みなども一部ではありますが「ナリスマシのサンプル」として残っています(笑)。ここですhttp://sokanomori.exblog.jp/17098281/ 
その後彼は学会の正当性を議論するための別ブログを立ち上げたようですが、その中身は最初から荒れ果てていて、見るも無惨な醜態を晒しています。ブログの管理人は私を学会員に成りすましたアンチと決めつけアクセス禁止にしました。学会を批判する学会員がいるはずはないというわけです。というか、彼にとっては実際に内部に批判者がいては困るので、すべてナリスマシということで口封じをします。私は言いたいことが途中で拒絶されたので、その子分のような立場でいつもくっついている「巌窟王」という名のブログに学会の矛盾をかなり事細かに書いたのですが、先日なぜかサイトごと消えてしまいました。自分としてもかなりの大作だったので(笑)残念ですが仕方ありません。もちろん今となってはもうどうでもいいことです。私が学会の現状を知るきっかけとなったことに関しては感謝していますけどね。彼らにはこれからも学会の典型的な醜態を世界に晒すブログとして続けていってほしいと思います(笑)。

話がつまらないところへそれました。話を戻しましょう。私が言いたかったのは、人は少しの甘いエサと言葉ひとつでどうにでも誘導できるということです。戦時中の日本の大政翼賛会しかり、ナチスドイツ政権下のヒトラーの演説しかり、今も存在している独裁政権国家にしても、すべて言葉巧みに国民を誘導するカリスマによって人々は利用されるだけ利用されて不幸になりました。戦争に限らず、日本の原発政策もよく似た構造によって政治家と企業が結託して国民をだまし続け、さらに金と権力を我がものにしてきました。あの311がきっかけで、私たちはそうしたことをはじめて自分の問題として考えさせられました。日本の原発政策がアメリカ政府を通して行っていたユダヤ資本家によるマネーゲームだったということを誰もが(誰もではないかもしれませんが)知ることとなった今でも、日本の政府はなにひとつ解決することもできずに、この期に及んでさらに原発を輸出できる国にしようとしています。日本はなぜそんな国にならなければならないのか。それは日本の意思ではなく、アメリカ政府の都合であり、もともとはアメリカ政府をあやつる資本家の利害が出発点だからです。こうした昔から世界を操ってきた巨大権力の構造を前にして、日本政府の意向など赤子の手をひねるようなものです。こうしたことはたとえ万民が知ることとなっても、おいそれと変わるものではありません。もう数百年もこうした構造のもとで歴史は動いています。私たちは何も知らされないうちに、とんでもない搾取の世界に生きています。そんな世界の構造の中で、創価学会に何ができるというのでしょう。人間革命によって世界は変わりません。創価学会が体質改善をして組織の何かが変わったところで、世界に平和が訪れることはありません。それ以前に多くの人が不幸になっているのです。このことを現役学会員はもう一度よく考える必要があると思います。信仰による功徳という甘いエサに誘われて、組織の言いなりになって集金マシンとして動き回る人生。組織に対する矛盾を見ていながらも、見なかったことにする体質。それはあたかも利己的な利害を優先させて戦争へと邁進して行った大政翼賛会と同じ構造を創価学会がもっているという証拠であると考えます。

マハートマ・ガンディ、ルーサー・キング牧師、ケネディ大統領…彼らはひとつの国という制約の中ではあったけれども純粋に国民の幸福を考えて行動しました。その行動は世界に知られることとなり、今でも偉大な人物として語り継がれています。ご存知のように、こうした人々の幸福を考え行動してきた人物はいずれも暗殺されました。人々がみな幸福になっては困る世界の支配者が、何をもってしても阻止する。世界の実態はこうしたものです。残念ながら正義は負けるのです。だから創価学会がどんなに心を入れ替えたとしても、人々を不幸にこそすれ幸福にすることはありません。間に合うとか間に合わないとか言う問題ではなく、もともとそうした組織ではないと思います。少なくとも池田名誉会長が指揮を執り始めてからの創価学会は、宗教を悪用して善良な人々からお金と労働力を搾取する権力組織であることは明らかです。ただ現役の創価学会員にだけはそれが見えないような仕組みをつくりあげているものだからたちが悪いのです。


あ~、仕事がめちゃめちゃ忙しいというのに、ついつい書いてしまいました(笑)。一気に書いたので、日本語がおかしいところがあるかもしれません。かんべんしてください(笑)。

●Anonymous(2011年12月27日 02:34)
シニフィエさん。記事を読みました。創価の問題点を追及するのは良いんですが、一部に「ユダヤ陰謀論紛い」の発言が見られますね。原発政策の部分です。この手の原発関連のユダヤ陰謀論与太話に嵌ると、創価の洗脳と大差無い事になります。「ホルミシス効果」の様な反論を認めなくなるんですよ。自分の知った「真相」なるものに凝り固まって、"低線量放射線死ぬ死ぬ詐欺工作員"として、東電叩きばかり繰り返すアホに成り下がります。反論されると逆ギレしてきて、罵倒を始めます。また、創価の洗脳から抜けているのは良いんですが、自虐史観の洗脳からは抜けていないようですね ?竹槍云々の部分は、当時、敗色が濃くなっていた日本国内で、軍部が国民の敵愾心を維持する為にやっていたものですよ。誰一人として、"竹槍でB29を落せる"とは考えてなかったのでは無いでしょうか ?戦後民主主義言語空間でしか通用しない自虐史観。そんなものに拠って記事を書くなら、それは創価学会の池田大作を始めとする創価学会の幹部連中の与太話を受け入れるのと同じですよ。ああ、そうだ。此処で私を右翼だとか、ネトウヨって言ったら、それは狂った創価学会員の振る舞いと同じだと言っておきます。


●シニフィエ(2011年12月28日 10:24)
匿名さん、コメントありがとうございます。そうですね、ユダヤ陰謀論などは世間ではトンデモ話として面白おかしく語られるレベルですから、創価問題と並べてしまうと、このブログの信頼性にも関わってくるというご意見、ごもっともだと思います。ありがとうございます。そもそも「陰謀論」というくくり方がすでに胡散臭さありきなので、私の発言に胡散臭さを感じられるのも無理ないかもしれません。私は「陰謀論」なるものを相手にしてはいませんが、特に近代以降の西欧諸国による世界各地での植民地政策は今も露骨に続いていると思いますし、今の世界的な経済危機も自分の手の汚れないところからの操作であると思っています。かれらにとっては戦争でも災害でも金儲けの手段でしかないのですから、陰謀だなんだと騒がれたところで痛くもかゆくもないでしょう。ここでのこうした見解もあくまで私のような何の力も名もない一市民の憶測に過ぎないわけですが、私は私が生きているこの世界は何者なんだという疑問から自然と出てきた思いを書いているのであって、なにもユダヤ陰謀論の正当性を主張したり、ひけらかすつもりもありません。私は植民地政策や明治維新を強要してきた欧米の動きを、「真相」とか「陰謀」とかではなく史実としてとらえています。長崎に来た若きトーマス・グラバーはエージェントであり坂本龍馬は彼の単なる使いっ走りだったと個人的には思っています。そして今でも石油、タバコ、ウラン、肥料、ワクチン、原発、核ミサイル、戦闘機をはじめ、政治家や企業や金融市場を有利に操り、相手の弱みに付け込んで独占的に売りまくって法外に儲ける彼らの手法は確実に存在すると思っています。それは陰謀でも何でもなく誰もが知りうる史実です。それを陰謀論などと茶化して自虐史観と決めつけるのはどうかなとも思います。今のこの世界の有り様を「壁と卵」に例えた村上春樹氏のエルサレムでのスピーチは、彼だからこそできるとてつもないアウェーでの全世界に向かってのすばらしい発言でした。世界を動かしている巨悪に対して私たちは壁にぶちあたる卵でしかないが、それでも氏の言うように私も卵の側に立って生きていきたいと思っています。「正義は勝たない」というのはそういう意味のつもりでつけたタイトルです。またB29と竹槍の話ですが、徹底した上意下達の思想統制下において、戦闘機に向かって竹槍を突き出す女性や子供は、今考えれば「本気でそんなことを信じてやったわけがないじゃないか」と思うのが自然ですが、たとえば創価学会だけが世界平和を実現できる宗教だと本気で信じている末端会員は、終戦後29年間、祖国の勝利を信じてルバング島のジャングルに潜んでいた小野田寛郎氏のようなもので、間借りなりにも民主主義と言われる今の社会に住んでいる私たちからすれば信じがたいことです。でもそんな考えられないようなことを私も信じていたんですから不思議です。かといって今の日本が民主主義国家とは思いませんし、多数決に至っては正しさをねつ造するシステムだと思っています。原発は未来のクリーンなエネルギー。あの事故が起きるまで、なんとなく多くの日本人がそう思わされていました。東海村やもんじゅの事故があっても目に見える直接被害のない自分たちにとっては対岸の火事であったのだと思います。八ッ場ダムも諫早湾干拓もちょっと離れた人にとっては他人事なのです。自分の身に降りかかってこなければ、身を挺して阻止するなどできないのが人間です。昨日、私が繁華街に行ったとき、金正日死去のこのタイミングでこその横田めぐみさんの帰国を要求する街頭署名に出くわしました。若い青年たちが大きな声を枯らして、必死に拉致被害者の救済を訴えていました。私は妻とともに署名用紙にサインをしながらも、この青年たちのようにみんなが一生懸命になったらもう少しは進展するかもしれないのになあと、複雑な気持ちになりました。私の父は学会草創期の幹部だったことは以前書きましたが、父の弟は長い間とある都府県の労働組合の委員長でした。いってみれば左翼幹部です。私はそのことを20年前に父が亡くなってから知りました。父としては実の弟が左翼幹部であることを恥じたのかもしれません。私は昔から左が嫌いです(笑)。左に傾くくらいなら右の方がマシだと今でも思っています。でもそういう右か左かの枠自体に興味がありません。私が大学に入学した70年代後半、学内にはまだ妙な略字を書いたヘルメットやプラカードを携えてハンドマイクでがなりたてる学生がいました。「○○は自己批判せよ!」とか「成田闘争へ集結せよ!」とか「アメリカの原潜入港を阻止せよ!」などと力なく形ばかりのアジテーションを繰り返す姿はなんとも哀れでした。そのような中、政府や企業はマスコミを金でねじ伏せながら「原発反対=左翼」というイメージを日本中にアピールし、原発反対という世論を後ろめたいイメージに変えながら、私たちは原発を対岸のことのように感じながら、知らないうちに「原発は未来のクリーンなエネルギー」となんとなく思わされてきたようです。こうしたことまで「陰謀」とか「戦後民主主義言語空間でしか通用しない自虐史観」などと捉えることにどういった意味があるのか理解できないです。この世に民主主義は存在しない。正義は勝たない。歴史は勝者によって都合よく変えられる。右も左もどうでもいい。そして創価学会は間違っている。そして抗いきれない巨悪に戦いを挑むよりも、時空を超える芸術を介した深い精神性をほんの一部の人たちとでも共有することができる人生が、どれだけ価値のあるものかということをあらためて思う今日この頃です。他人の自己表現につきあっているほど人生は長くない。そう思います。


解説
Anonymous(匿名)さんとシニフィエさんの間で、「ユダヤ陰謀論」についての興味深い議論が交わされています。
ここでのシニフィエさんの議論は冷静で、理論的だったと思います。


対話ブログ・ステージⅠ:ブログの開始 (10)

2021-09-19 01:02:52 | 対話ブログ

■たぶんよかった           投稿日: 2011年12月20日
ここでいろんなことを書いているうちに、自分はやっぱり精神的に解放へ向かっているんだなと言う気がしてきました。自分のことに限って言わせていただけたら、まだ少しとはいえ創価学会のMCから抜け出せてよかったと思います。まだまだ問題はたくさん抱えているし、いまままで見えなかった問題の大きさ、つまり今だからこそ見えてきた問題の大きさを思うと恐ろしくなりますが、とりあえずよかったんじゃないかと思います。決して手放しで喜べることではないし、これまで創価学会員の子供として生まれたがゆえに欠落してしまった人生のかなりの部分をどうやって埋めていけばいいのか、正直まったく見当もつきません。
これから創価学会に入会しようとする人はそうそういないとは思いますが、創価学会員に取り囲まれて、ワケ分からないうちに入会してしまう前に、一度でいいからこのブログに書いてあるみなさんのコメントを読んでいただければと思います。入会するのはそれからでも遅くはないはずです。生まれてから53年間、この信心を続けてきた私が正直な気持ちを書きはじめたばかりのブログです。ひとつだけはっきり言えるのは、創価学会に入るということは、世間一般の常識から遠く離れて生きていくということです。そうした人たちだけの世界に囲まれて暮らすことを望むのであれば、自分の意思でそうしてください。それが自分の意志でないのであればやめるべきだと思います。
このブログは、仏教の教義を事細かに精査したりするのでなければ、創価学会を一方的に攻撃するような場所でもありません。生まれたときから創価学会という環境で生きてきた53歳の普通(ある意味普通ではないかもしれない)の男が創価学会から離れていく過程を綴っていく現在進行形のブログです。これから聖教新聞をはじめとした出版物購読を断り、財務と公明党支持を断り、幹部である兄夫婦の説得を退け、必要であれば学会幹部と対話をし、無事に脱会届を学会本部に受理され、やがて自分が入るであろう墓を創価学会とは関わりのない場所に確保し、自分の家族やこれから受け継がれていくであろう私の命を創価学会から完全に離してしまうところまでこぎ着けるためのドキュメントとして書いていきます。そこにいろんな方のコメントやアドバイスをはじめ、創価学会にまつわる今後をテーマにしての有意義な対話が展開されることを願っています。最終的には、これから創価学会に入ろうと思っている人の考える場所となる定番ブログになればと思っています。
みなさま、コメント欄に真摯なご意見をお寄せください。


■お墓について              投稿日: 2011年12月21日
以前、私の兄夫婦が「○○に墓を移すことにしたから。費用はおばあちゃん(母親)とうち(兄夫婦)で出すから心配しないで」と勝手に決めてきました。私はびっくりしました。我が家の墓は日蓮正宗の寺院が所有管理する墓苑にあって、20年前に他界した父の遺骨があります。毎年お彼岸とお盆とお正月前には家族でお参りに行っていました。その墓苑は自宅から車で20分ほどの場所ですから、普通に墓参りができる距離です。移す墓というのは、車で高速を飛ばしても4時間かかるとんでもない山中です。みなさんご存知のように学会の墓苑はアメリカのアーリントン戦没者墓地のような、まったく同じ形の小さな墓石が何千何万と並んでいるだけの異様な光景の墓苑です。私は墓を移すことに反対しましたが、「分骨する」という折衷案で折れました。ですから私は今でもこれまでの日蓮正宗の寺院の墓に行っています。学会の墓苑にも納骨のときと、その後に妻と息子を連れて行きました。兄夫婦は納骨のときに行ったきりです。結局、日蓮正宗の墓がいやで学会の墓を購入して父の遺骨の一部を埋葬してはみたものの、移した兄夫婦がまったく足を運ばないほどの距離に墓をつくってしまいました。私はその広大な敷地の墓苑に行ってすぐに思いました。学会はこれでいくら儲けたんだ。誰も住めないような二束三文の土地を買いたたいて切り拓いた土地に、一区画数十万円の貧弱な墓が何千何万とある。墓石はすべて同じ仕様で、小さく、納骨するところも本当に貧弱でまるで下水溝のようでした。また簡単に大量生産できるものでした。亡くなった父は、生きているときに一度も行ったことのない遠い見知らぬ土地のこんなところに骨を埋められてどんな気持ちでいるでしょうか。兄夫婦は日蓮正宗の墓にも行かないわけですから、結局墓を失ったも同然なのです。それは父や先祖代々の供養のためではなく、自分たちが日蓮正宗の墓に行くのが嫌だからという身勝手な理由なのだと思います。人間にとっての墓とはとても大切なものです。自分の生まれ育った土地にあって、子や孫がお参りに来てきれいにしてくれるだけでありがたいものです。また先祖を供養し、自分のアイデンティティを確認する大切な場所であり、子供たちへ生命の尊厳を語り、命を継承して行くことの大切さを教えていく場所でもあります。そんな家族にとっての、また先祖代々にとってかけがえのない大切な墓を、こんな形にしてしまうことに何も疑問を感じない兄夫婦なのです。学会のやることはすべて正しい。兄夫婦は幹部としてそうとしか思えないように飼いならされています。私は日蓮正宗の墓にも、ましてや学会の工場のような墓苑にも入る気はありませんから、新たに我が家の墓をどこかにつくらなければなりません。両親とは違う墓に入ることになるかもしれません。若い方にはまだわからないかもしれませんが、それはとても重要な問題なのです。

●学園卒 (2011年12月21日 15:17 )
はじめまして。学園卒と申します。学会2世です。学園ではスーパー内部、つまり、小学校から入れられ、危うく純粋培養されるところでした。笑ですが持ち前の好奇心と反骨心で、魂を取り戻しまして、(負けじ魂ではない)大学は創価ではありません。ここにくるまで、色んなことがあり、一時期うつみたいになっていましたが、徐々にMCもとけてきまして、自分で考えた自分の道を歩き出しているところです。学園は、池田崇拝者の養成所です。自分はあそこで過ごした12年の中で、様々な立場を経験してきました。池田のためならと、献身的に学園につくし、皆を扇動する中心者。(←これについては今も思い出すと恥ずかしくなります。)学園が理想とする生徒とは正反対の所謂落ちこぼれ。これらの立場を経験し、気づいたことは、学園は池田のためにあり、学園という一つの国家を守るために学園は存在するということです。学会の組織が組織それ自体のためにあるように、学園も学園それ自体のためにあります。生徒は、交換がきくコマにすぎません。事実、使い捨てされる友がいました。いまもそれは続き、教師は善としてそれを行っています。もしかしたら確信犯もいるのかもしれませんが。とにかく、学園がかわること、また、学園生が気付くことを望んでいますし、卒業した者として何かできないかと模索中です。初めてのくせに長々とすいません。更新楽しみにしています。

●シニフィエ (2011年12月21日 15:38 )
学園卒さん、コメントありがとうございます。小さい頃から強烈な人生でしたね。抜け出せてほんとうによかった。言葉に力を感じることができます。今後ともよろしくお願いします。

●ココア (2011年12月21日 18:58 )
シニフィエさんはじめまして。そして学園卒さんも初めまして。ココアと申します。私も学園卒さんと同じように二世で学園卒ですが学園に在籍したのは高校3年間だけです。もう卒業して20年近く経ちますが、今思い返しても異常な世界だったなとつくづく感じています。某国立大に進学して学生部・女子部でも活動らしきものをしていましたが、その4年間で決定的に自分はこの組織が嫌いだという思いに至りながらも表に出す勇気もないまま、機会がありまして日本を離れ以来ずっと海外で生活しています。それでも信心から離れてはいけないという気持ちはあってこちらの組織に顔を出したこともありましたがここ7,8年は完全に心が離れやっとそれが正しい選択だったと思えるようになりました。先日ひょんなことから実家にそのことをきちんと話す機会があったのですが当然ながら全拒絶、おかしいと思うのは組織から離れてるから。とにかく組織につけばわかるの一点張り。そしてなんのために学園に入ったのかと責められ最後は向こうから一方的に電話を切られました。なにが対話なんですかね。もうこれで親子の縁も切れるのでしょうか?ほんとにとんでもない宗教です。続きます。

●ココア (2011年12月21日 19:08 )
ただ、あの異常な世界だったと思える学園生活でもそこで得た友人たちはいい人たちなんです。努力して医者や弁護士などになった友人も多いです。もちろん原動力は創立者との誓いを果たすためで、その点については私はもはや理解を示すことはできませんが、それでも彼らの人柄や努力は尊敬しています。なのでその友人たちにはまだにカミングアウトできずにいます。仲間に脱落者を出したと彼らが自分たち自身を責めそうな気がして・・・そしてやっぱり学園卒で私みたいなのはあまりいないのかと思ってたのですが、学園卒さんや他にもいらっしゃって少し心強い思いがしました。学園卒さんは学園での同級生などに話していますか?他にもそういう人いますか?シニフィエさんのブログの場をお借りしての質問で申し訳ないのですがとても気になります。まとまりのないコメントで申し訳ありません。

●もも(ら) (2011年12月23日 08:41 )
このブログをご覧になっている現役学会員の皆様へお聞きします。12月13日付けの聖教新聞「寸鉄」に「組織での忘年会・新年会は禁止」とありましたが皆さんは本当にこの「ご指導」を真に受け守るのですか。会社で言えば「同僚らと酒を飲むな」と言っているのに等しいのですよ。そんな組織が存在するのですか・・・驚きです。ここは日本です。最高指導者が亡くなり「嘘泣き」をしなければ「収容所」に送られるどこぞの国とは違うのですよ。学会員のみなさんからの回答を楽しみにしています。ちなみに昨晩は駅前の某居酒屋チェーン店においては婦人部の皆さんが楽しそうにお酒を飲んでおりましたが・・・(笑)こんなもんだと思いますが(爆笑)

●シニフィエ (2011年12月23日 15:41 )
今夜は私の仲間の忘年会。今真っ最中です。画家、デザイナー、写真家、クラシックの演奏家、ジャズミュージシャン、ソムリエ、経済学者、教育学者、工学博士、飲食店経営者、医者、看護師、公務員、教職員、僧侶、などなど30数人のいろんな職業の仲間たちがお酒や食べ物を持ち寄り、演奏家は互いにコラボしながら素敵な演奏を楽しんでいます。おそらく学会が忘年会を表向きであっても禁止しているのは、不祥事が学会の名前で公になるのを避けるためでしょう。私が結婚するときに、未入信だった妻に対して、学会幹部から入会にあたっての注意事項として「学会員として不倫を絶対しないように」としつこく言われたのを今でもよく覚えています。今から結婚しようとする若い二人に向かって「学会員として絶対不倫をしないように」と言い放つ神経はなんだろうと驚きました。学会員であろうがなかろうが、不倫は行けないことだし、それ以前にこの場のこのタイミングで普通言うかなということです。今考えたら、当時本部幹部の不倫がもとになる痴情騒動が世間を騒がせたんですね。

 


解説
このブログは、仏教の教義を事細かに精査したりするのでなければ、創価学会を一方的に攻撃するような場所でもありません。生まれたときから創価学会という環境で生きてきた53歳の普通(ある意味普通ではないかもしれない)の男が創価学会から離れていく過程を綴っていく現在進行形のブログです。

はい、興味津々です。

あの異常な世界だったと思える学園生活でもそこで得た友人たちはいい人たちなんです。努力して医者や弁護士などになった友人も多いです。

ココアさんも学園卒なんですね。
共感を覚えます。

私が結婚するときに、未入信だった妻に対して、学会幹部から入会にあたっての注意事項として「学会員として不倫を絶対しないように」としつこく言われたのを今でもよく覚えています。

シニフィエさんの奥さんは未入信だったのですね。
奥さんは結婚後、どういう経緯で信仰するようになったのでしょうか。
興味があります。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅠ:ブログの開始 (9)

2021-09-18 01:41:09 | 対話ブログ

■ありがとうございます。         投稿日: 2011年12月19日
みなさま、たくさんの意義深いコメントありがとうございます。最初からここまでのクオリティで対話がなされるとは、正直予想していませんでした。うれしい誤算です(笑)。みなさんにこのブログの立ち位置をとてもよく理解していただいていることがよく伝わってきて、とてもうれしいです。また、そうしたコメントに対してのお一人お一人に私がコメントしていくことが困難なほど、スピーディに進行しています。そこで、みなさんには大変申し訳ないのですが、これから先は、ひとつひとつのコメントに対する私からのお礼とかお返事ではなく、みなさんの対話のためのコーディネータとしてページ立てをしたり、対話をするメンバーの一人としてコメントを挟んでいきたいと思います。
私も含めて、創価学会員でありながら学会に疑問を感じている方や、脱会はしたけれども自分の人生の折り合いがついていない方、家族も含めて大変なご苦労を強いられている方、また学会の反社会性に気づいて、これまでにやってきた自分の行為に対する罪悪感に苛まれている方など、ほうんとうに様々な立場の方がいらっしゃいます。そうした方たちは、今でも考えが日々変化しているようにも思われます。私もそうです。それは現状認識やそれに対する自分の考え方の変化ということに留まらず、意識の深い部分にまでMCとして植え付けられたものに対する、ある種の抗えない自己矛盾に悩まされているのだとも思います。
これからこのブログではさらに話が深いところまで及んでいくと思われますが、まだまだいろいろな方に対話に加わっていただきたいとも思います。よろしくお願いいたします。

■正義は勝たない           投稿日: 2011年12月19日
このブログを立ち上げてから、創価学会員であることでこんなに大変な思いをしてきたという方の実体験が多く寄せられました。また入信動機を持たずに信仰を強制されてきた学会二世三世の方が、自己矛盾を感じてから脱会するにあたって精神的に乗り越えることの困難さなど、私にも多く思い当たるようなお話をきかせていただきました。さらに、言ってみれば「創価学会に未来はあるのか」といった論点になると思うのですが、末端会員の責任問題であるとか、学会組織自体の浄化の可能性など、これからしっかりと論じていただきたい問題点が出されるようになりました。みなさんの辛辣なコメントに、私も言葉を選びながら書かなくてはと思うようになりました。もちろん、みなさんにはこのまま自由にお話ししていただきたいと思います。
おかげさまでアクセス数もおおよそ一日1000ほどありますので、立ち上げてまだ2週間ですが、かなりの注目度があるように思われます。驚いたのは、あの2chの掲示板に好意的に書かれていたことです(笑)。幸い、悪意のあるコメントや荒らしの類いはほとんどありません。おそらくみなさんの真剣で毅然とした文章に立ち入る隙がないからだと思います。みなさんのコメントはリアルタイムにアップされるようになっています。ときどき長文になる場合にアップできない不具合が発生していますが、気づき次第こちらからアップさせていただいております。
また、このブログは学会本部でもチェックされている可能性があります。もしそうであるならば、私シニフィエなるものが一体何者なのかを突き止めようとしているかもしれません。逆に学会本部内にいてネットをチェックする部署にいる職員の方にも、このブログに訪れる方の声をしっかりと聞いていただければ嬉しいです。あなた方が正義だとか世界平和への行動だと信じてやっていることと、ここにコメントくださる方の話をよく比較して考えていただければと思います。

みなさんの高尚な話に水を差すような下世話な話で恐縮ですが、私はこのブログを立ち上げてから勤行をしなくなりました。組織活動はもうずいぶんとしていませんでしたし、組織の方からも諦められていたようなところもあります。親兄弟が幹部なので、いろいろ言うと面倒なことになるからということもあるのかもしれません。ただ選挙と財務だけは言いにくるのです(笑)。そんな私でしたが、勤行だけは毎日きちんとやっていました。それは組織がこんなでも仏法に関しては間違いないという思いよりも、組織から離れても信仰から離れることに言い知れない漠然とした恐怖心を抱いていたからだと思います。でも、このブログに自分の思いを書き綴り、これまでの自分の信仰体験を振り返る中で、不思議と勤行をしないことの恐怖心が薄れてきました。そう、この二週間ほどの話です。それは無理に勤行唱題をしないようにしようと決めたのではなくて、自然と仏壇から足が遠のいたという感じです。今の気持ちは「なんだ、何でもないじゃん」という感じ。これまでは組織からはなれた後でも毎朝の勤行は欠かしませんでしたし、何か悩み事があれば長時間題目を上げたりしていました。物心ついたときからずっと毎日やってきた勤行が、意外とすんなりやめられたことを自分でも驚いています。いかに漠然とした恐怖心で、つまりたいした根拠もないままに信仰という行為に自分が頼っていたのかということにです。学会と宗門とで末端の会員が偽本尊がどうとかこうとか罵り合っていますが、今の私にとって、そんなことがどうでもいいように思えるほど、あっけらかんとして勤行という宗教行為が無意味に思えてしまいました。ほんとに「え?……」って感じなんです。
とはいえ、私は無神論者にはならないと思います。人間の潜在能力を引き出す方法としての呼吸法は、たとえばインドではヨガ、中国では気功としてあるように、世界各地の優れた文化として継承されています。今考えてみると、私がこれまで見聞きして来たさまざまな事柄は、日蓮仏法と創価学会の信仰様式を取り除けば、とてもすんなりと納得がいくものばかりです。それは正しいとか正しくないなどの価値判断ではなく、様々な矛盾も含めて、世の中のいろんなことがなるほどと思えてきます。これまで自分の世界を見る目と、学会の価値判断の相違に苦しんでいました。つまりどう考えてもAであることが、学会ではBであることがある。しかしいやでもBでないといけないと自分に言い聞かせる。そうした矛盾を感じることさえ恐怖心につながってきました。私の友人のアーチストである男子部は、それで鬱病になりました。とても真面目だった彼は、自分の芸術活動が法謗ではないかと悩みに悩んで引きこもり仕事もできないまま誰とも話をしない日々が続きました。あるとき彼は私に「○○さん、これって法謗じゃないよね」と力なくつぶやきました。
私の場合、おそらく後戻りはしないと思います。聖教新聞、創価新報、大百蓮華はとっていますが、これはもう随分昔から読まなくなっています。ただ最近では池田名誉会長をどういった形で掲載しているのかとか、名誉会長メッセージはどんな人間が書いているのだろうといった興味から、聖教新聞は以前よりも隅々まで読むようになりました(笑)。
でももうこれらの出版物を購読することは学会に貢献しているということなのでやめようと思います。たぶん地元の地区では大騒ぎになるでしょうけどね。「あの○○さんの次男さんが退転したんですって」ってね(笑)。「まあ、ご両親は強信だったのにねえ。兄弟のなかでも一番まじめに活動してたのに」なんて噂されるでしょう。でも彼らはおそらく財務と公明票が減ることが心配で、なんやかんや言ってくるでしょう。その煩わしさをどうしようかと考えているところです。地区の人はともかく兄夫婦が黙ってはいないでしょうから。兄嫁などは「今こそお題目を上げきって頑張るときよ。先生の弟子かどうかが試されているのよ。先生にお応えできる人材にさせてくださいって祈るのよ。お題目を上げて祈りに祈って魔に打ち勝たなきゃね。私もお題目送るから負けちゃだめよ」と、いつも誰にでも言うような同じことを言うでしょうね。
すみません、下世話な話をしてしまいました(笑)。
 
(後略)

 


解説
>驚いたのは、あの2chの掲示板に好意的に書かれていたことです(笑)。

シニフィエさんは初期のころから2chの掲示板もチェックしていたのですね。自分のブログの評判が気になってしょうがなかったのでしょうね。

>私はこのブログを立ち上げてから勤行をしなくなりました。
>このブログに自分の思いを書き綴り、これまでの自分の信仰体験を振り返る中で、不思議と勤行をしないことの恐怖心が薄れてきました。

シニフィエさんの脱信仰の経過が追えるのも、対話ブログの面白いところですね。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅠ:ブログの開始 (8)

2021-09-17 01:19:14 | 対話ブログ

■これからのこと へのコメント(つづき)

●野口英明 (2015年4月10日 14:42 )
初めまして。私、フリーで書籍の編集者をしているものです。これまでさまざまなジャンルの本を企画編集してきましたが、なかでも創価学会とはなんなのであろうか、というテーマがあり、2014年、『創価学会あるある』という本を、編集しました。外部の人間ではなく、学会員の方に、さまざまな質問をして、タブーなしで、意見を伺いまとめました。そして、同書に協力してくれた方から、貴ブログを紹介いただき拝見しました。不躾ではございますが、当方の仕事歴を送らせていたくことは可能でしょうか。連絡をとらせていただくことが許されたら、ご提案させていただきたいことがあります。ご検討のほどよろしくお願いいたします。


●signifie (2015年4月10日 15:39 )
野口英明さん、はじめまして。コメントありがとうございます。
どういう経緯で3年前のスレッドになぜコメントされたのかわかりませんが、私がどこの誰なのかがわからないというネットの環境があればこそ、こういったブログをたちあげて、創価によって大変な被害を被っている多くの方の話を聞ける場所をつくっています。したがって今後も私がどこの誰かわかるようなことは一切致しません。また、野口英明さんが出されている「創価学会あるある」のアマゾンのページを拝見したところ、どうやら野口さんは創価側の立場のようですので、私が野口さんに協力できるようなことがあるとも思えません。せっかくですが、私の個人的な連絡先を教えるわけにはいきませんのでご理解下さい。よろしくお願いします。


●野口英明 (2015年4月11日 10:59 )
ご連絡いただきありがとうございました。アプローチのしかたがこれしか思いつかず、また、当方の連絡先は、コメントフォームに記載してあるので、手続き自体は問題ないかと思ったのですが。また、当方の立場がどのようであるのか、というのは仕事歴をみていただいたり、本を最後までみていただければわかるかと思ったのですが、残念です。本の受け止め方はいろいろありますが、あるやり方のなかでなにかを伝えるというのはなかなか難しいものです。それはさておき、お立場を考えると、警戒にも警戒をされるのはよくわかりますので、このような返信をいただくのも仕方がないかなと。ますますのご健筆を念じております。

●野口英明 (2015年4月11日 16:02 )
怪しさマックスとのコメント拝見しましたので、ひと言述べさせていただきます。当方は自身の好奇心と問題意識でさまざまな書籍の刊行に取り組んでおります。そのうちのひとつのテーマが学会であったということです。当方のネットワークを駆使して直接お会いした学会員には、シニフィエさんと同じように真摯に学会とはなにか考えている方がたくさんいることがわかり、、そのような方たちとつくりました。学会員には、こんな悩みがあるのか、二世、三世ならではの悩みとはこういうものなのか、このような会話が、こんな用語を使って多くなされているのか、創価カルチャーとはなにか、いったいどこから創価に変化がおきたのか、学会タレントとはどのような存在で、どのようなパターンのタレントがいるのか、これからの創価学会はどうなりそうか、世間の評価に対してどのように考えているのかなどなど、本音を語っていただきました。本とはどのようなものであれ、面白くてためになるものであってほしいという願いから、エンタメ色を強く出してはおりますが、いずれにせよ白か黒かというような、単純な本にはなっていないと自負しておりますので、決めつけるのではなく、読んでみていただけると幸甚です。勝手なことを述べてしまい恐縮ではございますが、ご検討のほどよろしくお願いいたします。

●signifie (2015年4月11日 17:16 )
野口英明さん、怪しさMAXが気に触ったようでしたらすみません。でもそれくらいあなたのコメントは気に触るものだったんですよ。
まず野口さんは初めてのコメントであるにもかかわらず、肝心な自己紹介もないままに連絡をくれと言ってきたんです。どこの誰ともわからない人に自分の身元がわかるよな情報を流しますか?とくにここで問題にしているのが創価学会です。そうとうヤバいですよ。その意味すらわかっていないんだろうなと判断しました。あなたが創価学会の立場の人間なのか、あるいはかつて創価で、ある程度内情がわかっていて今は脱会したのか、もともとまったく外部の人間なのかもわからない人に「ご提案させていただきたいことがあります」と言われて「はいそうですか」と自分の素性を明かすような人はいないと思いますよ。そういう意味で「怪しさMAX」だという意見に賛同しました。
野口さんはどういう立場かもわからない創価関連の人に「ご提案させていただきたいことがあります」と言われて「はい、私が創価を徹底的に批判している人間です」とのこのこ出て行きますか?自分の実績のわかる書籍の紹介ぐらいするべきではないですか。私は書籍や情報誌などの取材・編集も仕事としてやっているので、取材依頼のノウハウは心得ているつもりです。自民党の議員関係の仕事も多く手がけてきて、ヤバい世界もそれなりに承知でやっています。野口さんのコメントは、いきなり相手を警戒させるだけで、あなたの仕事に対しての興味を起こさせるようなことが皆無でした。なのであっさり断られたんですよ。
自分が何歳くらいのどういうキャリアがあって、どのような立場での編集を心がけているのかぐらい最初に説明すれば、まだ考える余地もあったでしょうけど、いきなり「連絡をとらせていただくことが許されたら、ご提案させていただきたいことがあります」はないと思います。それから「創価学会あるある」に関してはアマゾンの書籍紹介のページを見ただけですが、取材した学会員がどの程度の話をしたかぐらい想像がつきますよ。問題はそれをあなたがどのような立場と視点で捉えたて編集したものかによってその本の価値が決まってくると思います。ちょっと世間の感覚とは違った不思議な世界としてまとめてしまったものであれば、はっきり言って何の意味もないと思います。創価問題はそんなものではありません。戦後日本における重大な基本的人権の侵害行為が堂々とまかりとおっている大変なことなんです。あなたが他にどのようなテーマで本を編集されたのかは知りませんが、数ある面白ネタシリーズのひとつとして創価問題を扱われたのでは、創価の被害者はたまったものではありません。
問題意識がなさ過ぎるのではないでしょうか。そしてアプローチがまず過ぎます。たとえば北朝鮮拉致被害者の家族の方へたいした自己紹介も編集方針も告げないままに「『北朝鮮あるある』という本を出そうと思いますので、なんか面白ネタを思いつくまましゃべってください」なんて面と向かって言えますか?私は言えません。あなたのいう数ある「好奇心と問題意識」のなかのほんの一つとして創価問題はあまりに大きすぎると思います。手に負えるものではありません。『創価学会あるある』に対するアマゾンのレビューを見ただけで、問題意識の希薄さが伝わってきます。タイトルに創価学会とつけて、批判的な内容でもなく、学会員が面白おかしく読めるものであるなら、あるていど学会員さんが買うのも見込めます。それが何になるのでしょう。はっきり言えば創価をネタにした単なる暇つぶしの本でしょう。
野口さんは「それは言い過ぎだろ」と思うかもしれませんが、実際のところ「創価学会あるある」を載せるとすれば、
・学会員にはうつ病や統合失調症の患者の割合がとても多い
・学会員の過程の子どもは不登校や引きこもりがとても多い
・サラ金に借金してでも財務をしろと脅される
・聖教新聞の多部数購読はあたりまえ
・脱会などしようものなら、近所にあることないこと言いふらされる
・父親はすべてを創価に捧げたあげく自殺した
・うちの支部男子部長は事業に失敗して夜逃げした
野口さんはこんな話を載せてますか?学会員からこんな話が出ましたか?
いくらぶっちゃけ話をしたとしても笑って済ませるようなことしか言わないでしょう。
こんな話を野口さん名義の本で出版するというのであれば協力も考えますが、そんなことしたらあなた潰されますよ。出版を通してそうか問題の実態と本質をあからさまにするといった問題意識と覚悟があるのであれば協力も考えますが、あの本のレビューとあなたのコメントを見る限りでは、とてもそのようには思えませんので、お断りさせていただいた次第です。どうかご理解ください。

●野口英明 (2015年4月12日 00:54 )
アプローチの仕方にについてだけ述べます。コメントのフォームにメールアドレスの記載があったので、そこに記入させていただきました。おっしゃるとおり、なにかお願いするときには、私はこれこれこういうものですと名乗るべきです。それをしたかったのですが、この投稿で私の全履歴をのせるのはさすがにちょっとと思いまして、投稿フォームの当方のアドレスをのせましたので、それで連絡がとれたら、当方がいったいなにもので、なぜアプローチさせていただき、なにがしたかったのか、ご説明させていただければと思っておりました。たいへんなリスクを背負ってブログを運営されていると察しますので、警戒されているのは十分わかるのですが、どうやってアプローチするべきか、こちらも悩ましく、それで、当方の履歴にかんしては、個人的に送らせていただき、また、アプローチの動機なども吟味していただければいいなと思っておりました。このような、ブログでのアプローチはやはりなかなか難しいですね。投稿フォームに当方のアドレスをのせたので、シニフィエさんは匿名のまま、当方に、あなたはいったい何者で、何のようなの?と問い合わせしてくれたらいいなと、そんな勝手なことを考えておりました。たいへん失礼いたしました。今後ともご健筆を念じております。

●野口英明 (2015年4月12日 01:08 )
追記 公の投稿の場でどの程度ものをいうべきか迷ったところもあり、その点で、不快、もしくは疑念を喚起させてしまったこと、たいへん申し訳ございませんでした。段階をへて、やりとりができたらとは思っていたのですが、アドバイスに従うと、公の投稿の場で、履歴を公表し、どんな意図でなにをしたかったのかを、最初に全部公開するしかなかったのかと思うと、さすがにそれは当方も勇気いる、もしくはあまりにも最初から情報てんこもりでおしつけがましいのではないかとか、いろいろ考えてできませんでした。とはいえ、アプローチが不快であったことにかんしては変わりませんから、当方のいたらなさです。失礼いたしました。

●signifie (2015年4月12日 03:28 )
野口さん、あなたが怪しいものではないことはわかりました。最初にメールアドレスの記載は確認しましたから、メールを送って連絡を取り合うことは可能でしたよ。しかしもしあなたが怪しい人であれば、私のアドレスから身元がバレることもあります。そうしたことも警戒しなければならないほど創価問題はヤバい世界なのです。ご理解ください。たとえばブログのコメント欄に書けないようなことで依頼したいことがあるのであれば、アプローチの仕方をこのコメント欄に「非承認でお願いします」として、簡単でも自己紹介や実績の記載のあるリンクを載せて見てもらった上で「不明な点はこちらのアドレスまでお尋ねください」とすればよかったのではないでしょうか。とにかくあのコメントでは、私の立場上、身元を探られることを極力警戒していることに察しがつかないような方だと判断されてもおかしくないですよね。ですから私もあのような厳しい態度をとらなくてはいけませんでした。今はあなたが警戒しなくてもいい人だということがわかりました。しかし創価問題に絡んでくるネット上の魑魅魍魎がどんなにおぞましいものか、おそらく野口さんは知らないのだと思います。だから「問題意識が希薄だ」と判断したんです。そういうことです。気を悪くさせてすみませんでした。

●野口英明 (2015年4月12日 10:50 )
アドバイスありがとうございます。コメント欄に「非承認でお願いします」とし、こちらから警戒をとくだけの発信をさせていただき、ご判断をおまちすればよかったすればよかったのですね。書き方のいたらなさも含め、こちらこそすいませんでした。底知れない問題を長きにわたって真摯に発信されていることから、さまざまなことを想像します。ご自愛ください。ますますのご健筆を念じております。


解説
本スレッドが立てられてから3年以上もたってから、フリー編集者の野口英明という人からコメントが寄せられました。シニフィエさんに出版を勧めるような話が持ち掛けられたようです。
シニフィエさんにしてみれば、メールのやり取りなどすればそのメールから身バレすることになると恐れ、相手の意図も分からず、不信感を持ったようです。
極度に身バレをおそれるのは、創価学会批判のブログを運営する以上やむを得ないのでしょうが、職業上このブログに関心を持って、好意から出版を持ちかけた野口英明さんには、少し気の毒だったような印象を受けました。

なんだか、私自身の経験と重なるような気がしたのです。
私が対話ブログの仲間に入りたくてはじめてコメントを書いたとき、シニフィエさんからものすごく胡散臭い奴扱いされたことを思い出しました。

今回の、野口英明さんとシニフィエさんのやり取りを読んで分かったことは、シニフィエさんは自分のメールアドレスを相手に知られることを極度に恐れているということです。

私などは、自分のブログを立ち上げたのは今年の1月で、対話ブログにお邪魔したのもそのすぐあとくらいでしたから、ブログというものがよく分かっていなくて、脇が甘いところがあります。
私の場合、対話ブログに投稿するときのメールアドレスは、本名をアルファベット表記したものですので、メールアドレスを見れば簡単に本人特定ができます。
アメブロのIDも本名の一部が組み込まれています。途中で、まずかったかなと思ったのですが、直しようがなかったので、そのままにしています。
まあ、意識が低いと言われればその通りなのですが、私のような人も少なくないのではないでしょうか。

ところで、シニフィエさんは、対話ブログにコメントする参加者のメールアドレスを全て把握しています。
その一方、参加者の方は、誰もシニフィエさんのメールアドレスを知りません。
それがいけないという訳ではないのですが、シニフィエさん一人が参加者全員のメールアドレスを把握し、参加者は誰もシニフィエさんのメールアドレスを知らないという、きわめて非対称的かつ一方通行の「構造」にあることは確かです。
シニフィエさんは、本当の意味で、参加者一人一人のことを信用してはいないのかもしれません。
私なら、気心のしれた相手なら、メールアドレスを交換して情報を交換したいと考えます。
また、将来、自分の考えをまとめて本を出したいという気持ちもありますので、出版社の方とは、メールアドレスを交換して、関係をつなげておきたいと思うでしょう。
脇の甘いところのある私と、厳しく身バレを警戒するシニフィエさん。
どちらが正しいとか間違っているということではないのですが……

ちなみに、対話ブログ開始のころの柔らかな口調と、それから3年余りたった時期の野口英明さんとのやり取りの厳しい口調の違いは、何を意味するのでしょうか。
3年余りの間に、何があったのでしょうか。
興味はつきません。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅠ:ブログの開始 (7)

2021-09-16 01:16:32 | 対話ブログ

■これからのこと               投稿日: 2011年12月15日
やっとパソコンの前に座る余裕ができました。更新できなかったこの数日間も、たくさんの方においでいただいて感謝してます。育子さん、ラピスラズリさん、SJさん、 yokoさん、ペガサスさん、サラマンダラさん、もも(ら)さん、匿名さん…もう今さらおひとりづつお返事が書けそうもないくらいです。またこれから少しずつお返事をさせていただくつもりですが、とりあえず以下の文章にまとめてしまって申し訳ないのですが、今回はこのような形にさせていただきます。すみません。また、yokoさんとSJさんのように、この場で対話していただけるととてもありがたいです。みなさんほんとに貴重なお話をありがとうございます。よろしくお願いします。
私はこれまでにも書きましたように、ほんのひと月前までは、まだ創価学会というものをそこまで批判的には見ていませんでした。疑問に思うことはたくさんありましたが、それでもまだ会員が組織に対するきちんとした認識をもつことができれば変わることが可能なのではないか…つまり社会的に害のないまでの宗教団体として生まれ変わることができるのではないか…ぐらいのレベルで思っていたように思います。しかしそれはまったく甘い考えだということ、完全な認識不足であることに気がつく毎日です。つまり創価学会はまじめな宗教団体だったのが、どこかで間違ってしまったから、今からでも修正できればたちなおることができるのではないかといった認識自体が間違っていたことに気がついたのです。少なくとも池田大作という人物が指揮をとるようになってから、創価学会は宗教団体ではなく宗教を利用した営利団体、マインドコントロールによって信者からお金をむしり取る巨大なシステムになったのだということがはっきりとわかりました。これは大変なことです。日本に数ある怪しげな新興宗教の害悪どころではないと思います。
ひと月前、まだ私が半信半疑のころ、ネットで創価学会の末端会員のところへランダムに書き込みをしました。このブログのスタート時にも紹介しましたが「あなたがたの対話をしようともしない独善的・排他的な言動が、創価学会の社会的信用を貶めているのではないか」というふうにです。それに対する反応は「あほらしい」「最低最悪のナリスマシ」といったものでした。なるほど、創価学会というのはこうした思考停止の人間を多く作り出すことで莫大なお金を集めてきたということがわかりました。思考停止の人間は、自分自身がそうであることに気づかない。そしてそうした実情を指摘するものに対して異常なほどの攻撃姿勢を見せる。そこには世間の理屈などまったく通用しません。
もともと日蓮宗の特色である排他思想は、仏教であるにもかかわらずキリスト教的な一神教といいますか、もしくは選民思想に近いもので、これを思考停止のための道具に利用しようと思い立ったことは、ある意味見事だといえます。ただ初代会長や二代会長がはじめからそうした目的であったのかはわかりません。はっきりいえるのは池田名誉会長が創価学会をそのようにつくりあげたということです。
新興宗教の教祖によくあることですが、幼少の頃から自らの出生や学歴や身体能力にたいへんなコンプレックスをもち、逆にそのことを原動力として、やがて非合法なやりかたを持ってしてでも金と権力を得ようとする。閉じた世界ではあるけれども誰にも有無を言わせないカリスマ性のある立場に自分を仕立てることでまわりの人間を支配していく。社会的モラルなどお構いなしに実行していく。そして信者共々数々の犯罪に手を染めていくというのが、すべてとは言いませんが多くの新興宗教と偽る団体の実情です。
知らなかったとはいえ、今思えばあのような完全に洗脳された末端会員のブログに書き込んだことは軽率だったと思います。今となっては恥ずかしいかぎりですが、この恥ずかしい経験を機に私はこのブログを立ち上げる決心がつきました。そしてここに来られるみなさんとの人間らしい対話にほっとしているところです。MCが解け始めてまず感じたことは、ソクラテスではありませんが、自分の無知を思い知ることでした(笑)。
功徳と地獄による洗脳。つまるところ「夢のような功徳」を語ることで心を引き寄せ「地獄に堕ちる」という恐怖を植え付け組織に縛り付ける。このふたつのアメとムチを信じさせることによって、末端会員を集金マシンに仕立て上げる。日蓮の排他的な教義はそのためにぴったりの道具だった。創価学会はこれだけのために様々な戦略を実行してきた。座談会、聖教新聞、出版事業、創価学園、文化祭、民音、公明党、芸能界、法曹界…その他いろいろなことをしてきたけれども結局ここに行き着きます。金と権力です。実際の平和や文化などいっさい関係ない。だから日蓮正宗から破門されようが、チベットで仏教者が虐殺されようが、ヨーロッパでカルト認定されようが、会員がお金を貢いでいるあいだはたいした問題ではないわけです。学会の組織にとって一番怖いことは、会員が財務をしぶりだすことでしょう。それを防ぐために新たに数多くの会館を建設し、幹部を増やし、聖教新聞で露骨に洗脳し、対外的な名声を今まで以上に会員に対して誇示していく。このひと月でいろんなことが「なるほど」と思えてきました。
私が大学を卒業してから地元に帰ってきて男子部に入ったとき、はじめての財務をしました。もう30年前ですが(笑)。そのとき同じ地区に新入信の男子部がいて、その人は高校卒業してすぐに就職して2・3年といったところでした。かれはまじめを絵にしたような男で、その年わずかな給料からコツコツためた貯金の100万円をまわりがよってたかって財務にさせました。当時の地区部長は「新しい友が発心して3桁の財務を達成することができました?!」と発表し、まわりは拍手喝采。当時私はこれはありえないだろとは思いましたが、本人の意思だから何も言えないなとも思いました。今考えれば、あれは本人の意思などと言えるようなものではなかったし、30年前に二十歳かそこらの青年にとっての100万円がどれだけ貴重か(年とっても大変な金額なのですが)、それを盲目的に貢がせる団体の異常さをどうして見抜けなかったのかと思います。今考えればそんなことばかりです。おそらくこの年末の時期に、今もそのようなことが全国で展開されているのでしょう。
先日、88歳になる私の母親の米寿のお祝いに家族が集まりました。母は去年から少しずつ痴呆が進行してきて、ときどき会話もかみ合わない状況です。今さら母へ創価学会の真実を訴えたところで通じることはないでしょう。それ以前に母の人生を今さら否定して何になるのかと思います。また母は60年近く創価学会へどれだけのお金と時間を貢いだのだろうと思いました。すべては人のためによかれと信じてのことでした。母の人生のほとんどが創価学会のために生きてきた人生でした。そしておそらくこのまま創価学会員として人生を終えていくのかと思うとやりきれない気持ちになりました。圏幹部の兄夫婦はあいかわらず毎年それぞれ3桁の財務をするというありさまで、たぶん財務がなければ、この夫婦は豪邸に住んでいるだろうと思います。彼らの姿を見るにつけ、まだ私が脱会をきりだすタイミングではないと判断しました。
このブログを立ち上げて10日。今の私の立場では、学会を無視すれば実害は避けられるのでしょうが、私はまだまだ創価学会の真実を知る必要があると実感しました。逆にこの程度であればこそ、何かしらできることがあるかもしれないとも思います。ここではとにかく現役学会員さんや元学会員さんたちの真実の声を一人でも数多くご紹介できればと思いますし、さらに多くの人たちにこうした声を聞いていただければと思います。
学会員は加害者なのか、被害者なのか。単に被害者として救済されていいものかどうかという心情的な問題もあると思います。人生を棒に振らされたことに対する怒りをどうやったらいいのかという問題もあるでしょう。学会周辺には実際に不可解な自殺や、不可解な事故で亡くなった事件もあります。現実との葛藤に鬱や精神障害に追い込まれた人も知っています。でも私の力では如何ともしがたい根深い大きな問題です。私には守るべき家族がいるし、やはりそのことを優先します。ですからまず、せめて多くの方の真実の声を積み重ねることによって、次のステップが見えてくるかもしれないと思っています。単に学会を感情的に罵倒するような自己満足のためのブログではなく、学会の真実を客観的に伝えるブログが何百何千も立ち上がれば、事態は必ず変化するでしょう。私のような何の力も名もない一人の人間でも、何かしらできることがあると思っています。
今、創価学会は姿を見せられなくなってしまった池田名誉会長のカリスマ性をどうやって維持していくかで懸命です。聖教新聞の紙面にはその苦しみがつとに鮮明ですが、その努力が無に帰するのももはや時間の問題でしょう。しかしだからといって今創価学会によって苦しんでいる人の問題が解決するわけではありません。すでに脱会して何年も経つというのに、いまだに精神的な呪縛や絶望感から脱しきれないでいる方も多くいらっしゃいますし、学会のせいで一家離散したり経済破綻した多くの方の問題が解決するわけではありません。また命を落としてしまった方はもはやどうすることもできないのです。ですから、せめて創価学会という組織が崩壊するだけではなく、実際に創価学会とは何だったのかということが社会的に白日の下に晒され糾弾され、このような社会悪が今後出現できないような社会作りをしていかなければならないと思います。そのためには、これまで表に出ることのなかった名もないお一人お一人の真実の声を社会に示していくことが大切なのではないだろうかと考えています。
まずはこのブログに一人でもコメントいただきたい。こんなブログがあることを多くの方に伝えていただきたい。そしてできる方はご自分でブログを立ち上げて、さらに多くの声なき声を形にしていただければと思います。
このひと月で、私の考え方はこんなふうに変わってきました。自分としてもこの歳でこれほどまでの精神的な変動があるとは思ってもみませんでした。人生とはわからないものです。こうして文字にすることで自分の考えの変化を確認することも大切だなと思います。そしてこれから自分は何をすべきかを落ち着いて考え行動していき、その一部始終を可能なかぎりこのブログに記録していきたいと思います。
なお、このブログは何の説明もなく閉鎖したりはしません。もし突然アクセスできなくなることがあったとしたら、私以外の何らかの意図だと考えてください。
また、みなさんからのコメントを無断で削除するようなこともしません。削除が必要だと判断したときには、ここでお知らせした上で削除します。コメントしたけどアップされていない場合は、アップされなかったことだけでもコメントいただければと思います。
また私は今後の不測の事態も考えてメールアドレスは公開しませんし、嘘は書かない代わりに、私自身がどこの誰かを特定できるような表現は避けています。またコメントされる方もメールアドレス等の公開はしないでください。ちょっと考えれば無責任な発言を許してしまうことにつながりそうですが、それは逆に、より真実を伝えるために仕方のないことだと思っています。ここではあくまでみなさんの真実の声をお聞きするための場所として、みなさんとともに作り上げていければと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。
いっきに書いたので日本語になっていないところはお許しください(笑)。

 


解説
このブログは何の説明もなく閉鎖したりはしません。もし突然アクセスできなくなることがあったとしたら、私以外の何らかの意図だと考えてください。
また、みなさんからのコメントを無断で削除するようなこともしません。削除が必要だと判断したときには、ここでお知らせした上で削除します。

当初のシニフィエさんのこの方針は、最後まで貫かれたのでしょうか。
今後を見てみたいと思います。

獅子風蓮