獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅠ:ブログの開始 (6)

2021-09-15 01:01:54 | 対話ブログ

■お知らせ             投稿日: 2011年12月10日
仕事の関係で、来週の水曜日までまともな更新ができない状況です。
途中でネット環境を確保できれば対応しますが、あまり期待できません。
みなさんには引き続き活発な対話をしていただきたいと思います。
「広宣流布って何ですか?」のページにコメントいただいているアオキさんへはお返事をかかせていただきましたが、時間がありませんのでyokoさん、育子さん、ペガサスさんに対するお返事は後日必ずさせていただきます。申しわけありませんが、それまではこのページのコメント欄にてお話を続けていただければと思います。
それからどうやらこのグーグルのブログでは長文のコメントにシステム上の障害が見られます。長いコメントは、いくつかに分割してアップしていただけるといいかもしれません。グーグルのブログを扱うのは私も初めてなので、なかなかうまく対処できません。とにかくみなさまのコメントは黙って削除したりはしませんので、安心して投稿してください。
それではみなさま、よろしくお願いします。

●Anonymous(たけし)(2011年12月11日 16:52 )
初めまして。創価中学・高校・アメリカ創価大学を出た2世のたけし(仮名)と申します。http://hermann719.exblog.jp/16862768のブログのやりとりを読ませて頂きました。私が学会員の方に常日ごろ思っていること全てを書いていただいたような、スッキリした気持ちになりました。ネット上ではありますが、シニフィエさんにお会いできて大変嬉しく思います。というのも私の友人は内部だらけで、バリバリの活動家はまさに思考停止の人が多く何を言っても主張を改めない、というか人の話を遮る。かといってアンチの人はアンチの人で、なんとなくネットで聞いた噂・世間のイメージで学会の悪口を言う、その具体性の無さ。シニフィエさんのように、きちんと客観的に理路整然と、ある時は具体例を出しながらお話しされる方を求めていました。さっきまでふとんでゴロゴロと携帯からネットサーフィンをしてたのですが、上記のブログとこのページを見つけて思わず起きてパソコンを起動して書き込むまでに至りました(笑)これから色々なことをお話しできればと思います、よろしくお願いします。


●yoko(2011年12月12日 07:59)
2世のたけしさんへはじめまして、yokoと申します。たけしさんは、中、高、大学では創価教育を受けられたのですね。その中で、良かったこと悪かったこと色々あるでしょうが、創価教育の中で何か感じられたことをお聞かせくださいませんでしょうか?学会は最近宣伝がとても多いように感じます。創価の学校に外部からの生徒はほとんどいませんよね?生徒集めも財政的に必要ないはずです。外部からの学生がほしくて宣伝してるのでしょうか?よろしくお願いします。


●たけし (2011年12月14日 05:12 )
yokoさん返事遅くなりましてすみません。10年間の創価教育で感じたことはいろいろあります。中・高時代は本当に何も考えず「模範の学園生」でい続けました。学園は3.16が卒業式なんですが、その日の創立者の来校と晴天を祈念し、毎年のように前日に10時間唱題をやっていました。また7.17は栄光の日という記念式典(?)があり、その日までに創立者のスピーチ集を何十周も読み込んだり。また成績も良かったので、中学・高校と卒業時に賞をいただきました(笑)そんな中で感じていたことは、「守られている」ことだったと思います。「悔しかったことも、胸を張って報告できることも、全部創立者にわかっていただいている」とか「行き詰っても題目の力で進める」と感じていたように思います。しかしアメリカに行ってからはいろんな本を読みあさるようになり、またアメリカ創価大学にSGIではない生徒・職員がたくさんいることもあって、自分が信仰しているものを詳しく知ろうと強く思うようになり法華経の智慧から入って御義口伝講義、五大部御書講義を勉強しました。多分この頃、日本の創価大学に進んだ友人から創大の話をいろいろと聞いて、日本の創価大学・組織に疑問を持つようになったんだと思います。学会員の思考の閉鎖性というか、そういう所に気づき始めてきました。ちなみに宣伝というのは初めて耳にしたのでよくわかりません。学園時代に外部の子は3人だけいました(高校1学年350人中)行事の前に大勝利集会という唱題会が自由参加であるのですが、その外部の子もきてました(笑)といっても座ってるだけです

 


解説
創価中・高時代を「模範の学園生」として過ごしたというたけしさんのコメントに、元学園生の私も関心を持ちました。


対話ブログ・ステージⅠ:ブログの開始 (5)

2021-09-14 01:55:09 | 対話ブログ

■広宣流布って何ですか?       投稿日: 2011年12月8日
私の友人に真宗の僧侶3人と浄土宗の僧侶2人と曹洞宗の僧侶1人がいます。この中の一人は1億円の豪邸に住み、休日はBMWのオープンカーに乗って遊び回っています(笑)。この中の一人は趣味がエアガンの収集でお寺の中に射撃場をつくっています(笑)。この中の1人は鬱でたびたび社会性を欠く行動が見られます。この中の一人はとても素晴らしい人格者で、並外れた霊感の持ち主でもあります。この中の一人は地元の子どもたちの心のケアのために毎日駆け回っています。お坊さんといっても様々です。でもみんな友だちです。神父や牧師の友人はいませんが、熱心なカソリックやプロテスタントの友人も多いです。彼ら彼女らは、ほんとうに真面目で私などから見れば神様みたいに心優しい人物です。
でも学会員に言わせれば、みんな邪宗であり外道であり地獄に堕ちるのだそうです。正法を謗るものは地獄に堕ちる。学会員のこの言葉でどれだけの人が苦しんでいるか、ここにコメントを寄せてくださった方の言葉でもよくわかります。
これから話すことは私の感情的な非難ではなくて素朴な疑問です。創価学会の目指すものは広宣流布です。つまり世界中の人々が創価学会独自の信仰に帰依することで世界平和を実現するということです。なにしろ創価学会以外の信仰では地獄に堕ちるのですから仕方ありません。
一方、創価学会はマハートマ・ガンディとルーサー・キング牧師とともに、池田名誉会長を歴史に残る非暴力の指導者として宣伝しています。もちろん当然世間では相手にされていませんが、これは対外的なものではなくて、一般会員に対してのプロパガンダなので対外的に無視されようがかまわないようです。学会員の多くは基本的に洗脳状態にありますから「私たちの師匠である池田先生は歴史に残る指導者と肩を並べている。凄い!光栄にも池田先生は私たちをその弟子であると言ってくださるのだから、私たちは必ず先生の期待にお応えしなければ!」というふうに真剣に思っているようです。
また池田名誉会長がもらっている世界各国の大学の名誉称号も、一般会員向けのプロパガンダとして大きな効果を示しているようですので、それが単に一般会員から集めた財務の一部を大学に寄贈することで得られた、つまりお金を出せばもらえる称号でも全然OKなわけです。で、さきほど言った素朴な疑問とは、池田名誉会長は、学会の教義からいえば地獄に堕ちるはずのヒンズー教徒のガンディとキリスト教徒のキング牧師と、どうして肩を並べたがるのか。学会員は自分の師匠が地獄行きの外道の指導者と肩を並べてどうして喜んでいるんだろうということです。これは学会員さんに素朴にお聞きしたいことなんです。
もうひとつ素朴な疑問があります。これも広宣流布に関することなのですが、広宣流布が達成した暁には、学会以外の信仰の拠点となる神社・仏閣・教会はどうなるんでしょうか。昔は法謗払いといって、新入信者はそれまで信仰してきた本尊や仏壇を焼き払っていました。私の母は若い頃そうとうな数の他人の家のご本尊を焼き払っていました。私が子どもの頃は創価学会ではそうするのが当たり前でした。家には達磨の貯金箱や七五三の千歳飴すら持ち込んではいけませんでした。クリスマスなどもってのほか。でも、おもちゃ屋さんとかケーキ屋さんが学会員になったらどうしたんでしょうね(笑)。それから地元の神社のお祭りに参加もできませんでしたので、近所からは変わり者の目で見られていました。子どもの頃、どうして友だちといっしょにお祭りに行けなかったのかが理解でできませんでした。いまでも違う意味で理解できませんけどね(笑)。しかしそうした社会規範から外れた行為は対外的に問題があると判断したのでしょう。いつの頃からか法謗払いはしなくなり、お祭りに参加することをとやかく言わなくなりました。若い人は知らないかもしれませんが「創価学会は他人の家の仏壇を焼く」「創価学会は会員の葬式の香典を皆持っていく」そうした噂が日本中に流れました。でも半分は本当です。話がそれましたね(笑)。
広宣流布が達成されたとき、奈良や京都のお寺はみんな燃やされるんでしょうか。世界遺産の奈良の大仏はバーミヤンの石仏をタリバンが破壊したように破壊されるのでしょうか。創価学会はイスラム原理主義であるタリバンと同じことを目指しているのでしょうか。世界遺産として登録されている歴史的建造物のほとんどを、広宣流布が達成された時には破壊するつもりなのでしょうか。日本全国のお祭りは神社やお寺とともになくなってしまうのでしょうか。平和・文化・教育を推進する創価学会は、世界遺産をことごとく破壊することを目指しているのでしょうか。たしか高等部だったころ、担当の男子部の人が「広宣流布というのは世界の3割の人が信心をすることなんだ。3割の人が正しい信心をすれば世界は平和になる」と言っていたことを今でも憶えています。じゃあ、世界の7割の人は地獄に堕ちてヨシってことでしょうか。7割の人が地獄に堕ちることを世界平和と言うのでしょうか。広宣流布って何ですか?学会員さん教えてください。
これは冗談めいた話ですが、冗談ではありません。創価学会の目指している広宣流布というものが現実との整合性のあるものかどうかを、ちょっとでも考えてみれば、答えは明白のはずです。しかし都合の悪いことがあると見えなくなる、聞こえなくなるのが学会員さんの特徴です。チベット問題にしても学会は何一つ答えようとはしません。私は世界の宗教指導者として挙げるならば、先のマハートマ・ガンディとキング牧師に加えてマザー・テレサとダライ・ラマ師を思い浮かべます。現在も唯一生きているノーベル平和賞をもらったダライ・ラマを国外追放し、120万人のチベット人を虫けらのように虐殺した張本人である胡錦涛をなぜ池田名誉会長は平和の指導者として讃えたのか。これもその弟子である学会員さんにお聞きしたい。他にもお聞きしたいことは山ほどありますが、とりあえずこの基本的で素朴な疑問にきちんと答えていただける節度ある学会員さんにコメントしていただければと思っています。

●ペガサス (2011年12月9日 14:26 )
はじめまして。ペガサスと申します。学会員ですが非活です。いつも感動、納得してこのブログを拝見させていただいております。広宣流布の定義は池田名誉会長によると「総体革命」です。さらに訳すと「妙法の大地に展開する大文化運動」です。それをさらに噛み砕くと、「妙法を大地にあたかも樹木が旺盛に繁殖するように政治、文化、教育もろもろに自由闊達に成育すること」です。さらに名誉会長は言いました。「妙法と文化運動は母と子の関係のようなものだ。いつしか子が母から独立するように、母にいつまでも依存してはいけない」つまり、党にしても出版事業にしても、なんにしても妙法=創価学会に依存してはいけない。それぞれが自立した運動体にならなければいけないという趣旨です。だがしかし今日の姿はどうでしょうか。公明党は常に創価学会員に依存してます。出版物はSPにしろ潮にしても民音にしても、ほとんど創価学会員に依存しております。逆噴射状態です。本来ならば仏教基本にそれぞれが制約されず桜梅桃梨の人生を歩むべきというのが池田名誉会長の教えです。現実の学会員は、あるときは、SP勧誘要員、またあるときは集票マシーン。そして真実の姿は見返りの無い出資者要員です。つまり子が独立するのではなく常に母(創価学会)に隷属する状態になってるわけです。現実は破綻してるといわざるを得ません。また、そもそも人は論理よりも好みが優先されるというのが私の考えです。ある人はAさんが好きだ。またある人はBさんが好きだ。AさんとBさんがどっちが正しい(笑)と論議しても意味がありません。創価学会員も学会に所属し活動家である状態を好む人もあれば、拒否反応を示す人もあります。ですけど、自分がやるには問題ないとしても、折伏したり選挙運動したりすると人の好みの境界に触れることになります。単純に自分論理を押し付けることはきわめて微妙な問題であり危険なものを含むと思います。上からの打ち出しを鵜呑みにしないで自分なりに咀嚼することが私も含め、学会員どうし必要な事と思います。

●シニフィエ 
2011年12月9日 15:18 
ペガサスさん、はじめまして。知性あふれるコメント、ありがとうございます。ペガサスさんのような頭脳明晰で客観的な視点を持つことのできる方が学会組織をリードしてくれれば、もう少しましな集団になっていたかもしれません。不思議なもので、文字だけなのになんとなくペガサスさんの人物像が想像できます。いい意味でですよ(笑)それでペガサスさんは、今からでも創価学会は池田名誉会長を中心に存在価値のある宗教団体として再生できるとお考えですか?もしよろしかったら、そのあたりのことをお聞かせいただければと思います。今後ともよろしくお願いします。

●ペガサス(日時不明)
シニフィエ さんほめられぬれば我が身の損ずるをも・かへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるるをも・ しらず、ふるまふ事は凡夫のことはざなり。(諸法実相抄 P1360)といいますが、私はほめられる要素は何もありません。すぐ底が割れます。また知性のかけらもありません。痴性だったら自信あります<キッパリ逆にシニフィエさんの幅広い教養、知識、本質を見抜く力にいつも驚かされております。さて今後の創価学会の予想についてですが、問題が多岐にわたるし、ブログではあまり長文は書けませんので、論点を4つに絞り乏しき知識で簡単に書かせていただきたいと思います。
1、池田名誉会長のカリスマ性。
2、組織の疲弊。
3、新しい教学が成立するか。
4、それでも組織は残る。

1 池田名誉会長のカリスマ性は偉大です。会ったり、話をしたことのある人はわかると思いますが、すぐとりこになるくらいです。なので、自分対池田先生の思いの部分として信仰観を持ってる方は多いし、会ったことが無くても幹部を通し誇張された部分があっても崇拝に似た気持ちを持ってる方も多いでしょう。その池田先生が自由に動けない、もしくは逝去されたすると精神的ダメージは計り知れないと思います。新たなカリスマ性を持った人物は見当たらないし。
2 創価学会の発展は日本経済の発展に乗った部分が大きいです。日本の経済が豊かになると学会員の生活も豊かになるし、功徳と思うようにもなります。経済が疲弊してくると学会員の家計も疲弊してきます。今日本は年収600~800万のいわゆる中間層が股ざきにあって、ごく一部が上流へ移動、かなりの部分がやや下流方向にづれていってます。創価学会の基本原動力の中間層が生活防衛に意識が移ると活動も鈍るし、財務も減ることになるでしょう。また創価学会は日本の縮図そのものなので少子高齢化の波を大きく受けています。それぞれの地区の実態を見ればすぐわかります。男女青年部が数多く元気に活動してますでしょうか。現場組織を担う地区部長、婦人部長がふんだんに輩出されてますでしょうか。上の幹部は自然に上がって役職者あまり気味なのに現場幹部の不足はかなり厳しいものがあります。したがって本部幹部兼任の地区部長とか圏幹部兼任の地区部長とか多くなっています。創価班、牙城会も不足しているので、壮年部の王城会とかも出来てます。こうなると、昔創価学会が天理教に対して「金の供養から身の供養」と批判してたのがわが身そのものになってる現実を認識すべきかもしれません。長くなると書き込めなくなるかもしれませんので、
3、4はまた別のときにということでお願いいたします。


●Anonymous(アオキ)(2011年12月10日 04:26)
シニフェエ様へこんにちは、アオキと申します。>広宣流布で7割の人は地獄に落ちても良いのか?・・そう言う事ではないと思いますよ。広宣流布になったら、3:3:3の割合で3割が信心してる人、もう3割は信心はしないけど協力的な人、残りの3割は絶対反対な人、となると言うことです。・・『それ以上はならないそうです』。そうなので神社仏閣を焼き払うのか?そんなことはやらないし、そう言う事ではないと思います。そして地獄という言葉は日蓮大聖人の念仏無限地獄という格言からきてるんですよね。・・昔はそう言ったこともあったかも知れないけど今は頭からそんなえぐい言葉を言っている人は少ないのではないですか。中にはセンスのない人もいらっしゃるかも知れない・・。だって入信したからって急に人間革命できるわけじゃないでしょう。みんな同じですよ。それに不思議に思うんですけど・・どうしてシニフェエ様は御身内の大幹部様におたずねにならないのですか?ご両親様は大幹部、お兄様御夫婦は県幹部とおっしゃっていらっしゃいましたよね。そんなに疑問の塊なのにどうして、、聞けばよろしいのでは?それともご身内にはいい顔をしていたいがためですか。見栄を張って信心が有りもしないのに。そんな事してたって意味がないのではありませんか。大幹部って言うのはだてに看板しょってるのではないのではありませんか。そう言う事に答えることができるのが大幹部様でしょ。せっかく近くに宝物があるのに外でぎゃんぎゃん吼えてばかりいないで活用してくださいよ。見栄ばっかり張ってないでさあ^^。チベット問題とやらも聞いてくださいよ。お願いしますね・・。


●yoko(2011年12月10日 05:19)
創価学会の中だけでなく色々な考え方のある一般社会へも疑問を問うことに意味があるのではないでしょうか?思い込みの強い密室の中では対話が成り立たないことがありますよね。ここでの対話は、自分の疑問点など考え方を出し合うのであって、相手を打ち負かしたりする場ではないと思います。相手の意見を聞き、自分の意見を述べるキャッチボールをしながら、各人が考えを深めればいいのではないですか?創価学会内で疑問点など率直に伝え、それに対しての回答がもらえるのなら悩む人はいないはずです。


●ペガサス (2011年12月10日 08:09 )

3-1 創価学会が新しい教学、理論を打ち立てることが出来るかどうかですが。そもそも今創価学会は教学において大変な危機を迎えているといっても過言ではないでしょう。もともと教学の基本は三大秘宝です。そのうちのひとつは本門の戒壇です。これはとうに壊されてしまっています。大御本尊は天敵日蓮正宗側にあります。こういったことが無意識のうちに学会側が教学推進に熱心で無くなってきている原因だと思います。それでますます法というよりかは池田先生が偉大だから世界で宣揚されているから学会は正しい論法になりがちです。またあまりにも日蓮原理主義になると世間との軋轢が生じます。四箇の格言の放棄などはその例でしょう。社会に浸透し選挙でも勝たなければならないとすれば、他宗をバックに持つ政党と共闘する際過激な思想は邪魔になるので、なるべくフリーハンドでいけるほうが有利でしょう。

3-2 根本の教学が壊れることは学会本部でも予測していたでしょう。宗門から別れる前から。これから書かせていただくことはまったく私の独断と妄想の世界と思ってください。そもそも学会教学部はいわゆる正法、像法、末法の三時の理論は破綻してると気がついていた。釈尊誕生は紀元前1000年ではなく一般的に言われる紀元前400年ころだと認識していたからです。そうなると末法は1600年関が原の戦いのあたりとなります。日蓮代聖人は像法時代の人ということになります。んじゃ誰が末法の仏なんだということになるわけですが、その辺のアドバルーンを故F副会長に上げさせた。御書はもう古い。現代の御書は「人間革命」であると公式見解でも無いのに創価学会の一部に流れました。この流れが成功することがどういう意味になるのか察しがつくと思います。がしかしそういった宗門無視の流れが宗門の激怒を買い宗門問題が勃発しました
<と妄想してます。かくて新しい末法の仏創作運動も頓挫してしまったと思われます
<妄想です。法華経も釈尊そのものの教えでないことはほぼ仏法学者の間では定説です。そもそも日蓮大聖人が原理主義的なのは法華経が一神教的色彩が強いところからきています。この辺のところが学会適に次第にファジーになってきているので個人の信仰にはあまり影響は無いのですが、折伏する際には前みたいに教学を前面に出すことが出来ず、拡大がうまく進まない原因となっていると見ます。創価学会は今後釈尊から見直し、もう一度現代的仏教理論の構築が必要でしょう。優秀な創価官僚ならびに学者系いっぱい居ますから。

4 先に書かせていただいたとおり、一般学会員にとって教学はあまり関係ないでしょう。学会の存在意義のひとつに村社会コミュニティというか互助会とかいったものがあります。過去に都会に流れた精神的不安を抱える人たちを温かく迎え存在意義を教え(それが独断的ものだったりしても)元気にしてきました。それで大発展してきましたし、現在でも人間関係が希薄になって、隣の人に関心ない時代でも、おじいさん元気?おばあちゃん元気?とか回っている創価学会員は社会貢献してるともいえます。池田名誉会長が逝去すれば、集団指導体制になると思います。職員にとっても創価学会が解散することは、食い扶持がなくなることを意味します。またせっかく人のいい創価学会員を行き先が無い状態にすることも社会不安のひとつにもなってしまいます。だから今後上意下達方式をやめて、会員から意見を吸い上げる。だって、宗じゃなく会なんですから。そして収支報告をする。教義をわかりやすいようにする。世間でも公務員に冷たい目が注がれているように職員幹部にも厳しい目が注がれるようになって来るでしょう。宗門から離れた今職業幹部は出世僧です。出世僧が在家からお金を取りなおかつエリート主義だったり権威主義だったら、本当に創価学会は崩壊してしまいます。過去の成功例にとらわれ、結果として社会から大きく遅れている現在の創価学会が全面改革できるチャンスは今しかないと思います。長文失礼をしました。

●シニフィエ(2011年12月10日 11:14)
みなさん、とてもレベルの高いコメントありがとうございます。このブログをたちあげて、ほんとうによかったと思っています。また、さいわいに目を覆うような悪意のある書込みが一切ないのは、コメントしてくださる方々の節度ある毅然とした姿勢に圧倒されるからだと思います。これからもできる限りアクセス制限や削除などをしないで運営できるような価値的ある対話の場として続いていけるよう頑張っていきたいと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。初日から毎日1000アクセスという予想外のレスポンスにちょっととまどいさえあります。管理人として言葉をもっと精査して書かなければならないかなとも思うほどです。しかしそうなるとおそらく私の場合途端に言葉数が減ってしまって、更新さえままならなくなると思いますので、誤字脱字はもちろんのこと、多少の表現のおかしさや言葉足らずはお許しください。また、このグーグルのブログで、部分的に一部アップできなかったり、勝手に削除されたりとの障害が見られるようです。こちらとしては少なくともこれまでに意図的な制限や削除は一度もしていません。万が一するとしても、どういう理由でどのように制限削除をしたのかはその都度公表しますので、もしコメントがうまくアップできないなどのトラブルがありましたらお知らせください。よろしくお願いいたします。

●シニフィエ(2011年12月10日 13:18)
これから来週の水曜日まで、仕事の関係でネットから離れることになります。みなさまからのコメントのお返事はそれ以降に必ずさせていただきますが、みなさまの対話は遠慮なく続けられてください。ただ上記のアオキさんへは、今のうちにお返事をしたほうがよさそうなので、この場でお伝えします。アオキさん、コメントありがとうございます。アオキさんはこのブログにコメントをいただいたおそらく初めての学会擁護側の方のように思います。もちろん率直なご意見はほんとうにありがたいです。これからもっともっと多くの方のいろいろな立場からのご意見をいただければ、より価値的なブログになると思っています。ただこれからもコメントをしていただけるのであれば、ひとつ申し上げておかなければいけないなと思いましたので、率直に申し上げます。ごめんなさい…とまず謝っておきます。おそらく気を悪くされると思います。でも気を悪くなさらないでくださいね(笑)。yokoさんがすぐに「ここでの対話は、自分の疑問点など考え方を出し合うのであって、相手を打ち負かしたりする場ではないと思います。相手の意見を聞き、自分の意見を述べるキャッチボールをしながら、各人が考えを深めればいいのではないですか?」とお答えしていただいているように、このブログの存在価値はまさにそこにあります。内部で解決できるような問題ではないからこそ、また幹部であろうとなかろうと創価学会のMC下にある人に何を訊いても返ってくる答えが同じだから、このようにブログという形で公平な価値判断ができるフィールドをつくって真実をあきらかにしたいと思ったわけです。ちなみに私の兄嫁などは学会2世で婦人部の圏幹部ですが、考えられないほどのとんでもない世間知らずです。学会員以外の人間を完全に見下して平気でものを言います。世間の常識やモラルを完全に無視して平気な顔をしています。自分の考え(=創価学会=池田名誉会長)が世界で一番正しくて、それ以外のことを受け入れる余地がまったくありません。「私が折伏してあなたを幸せにしてあげるんだから感謝しなさい」といった口ぶりです。学会員がどうのという以前に人間としてどうなのかという問題です。まあこれは極端な例ですが、多かれ少なかれそうした目線の幹部が、私が抱いている学会に関する疑問に納得のできるかたちで答えられるとは到底思えません。しかしどこかの時点で同級生の副会長へはこの疑問をぶつけるつもりではいます。私が以前のようにMC下にあったならば、自分の身内が学会批判をしたとしても、同じようなことしか言わなかったでしょう。幹部であればなお学会擁護のためにどんなに苦しい言い訳でも平気でやります。私の場合、そういった状況を見てきたからこそ、こうしたかたちをとって内部外部を問わず多くの皆さんに考えたり発言していただく場をつくったのです。ここでは何が正しくて、何が間違っているかと言う論争をするのではなくて、実際に創価学会員として活動してきた結果、このようなことでした、このようになりましたという事実関係を客観的な立場で考えることのできる機会をつくりたかったのです。先の「広宣流布ってなんですか?」という投げかけは、みなさんに考えていただくきっかけとしての投げかけです。それに対してすばらしいレスポンスをいただきました。そうしたキャッチボールが大切なのだと思います。学会幹部に「広宣流布ってなんですか?」と訊いて、なにか生産的な答えが返ってくるでしょうか?「広宣流布ってなんですか?」という疑問にどのような気持ちがこめられているのかを学会幹部がどれだけ察することができるでしょうか。それは広宣流布の実現に夢見て踊らされて裏切られた人たちへ対する共感の言葉です。アオキさん、この断腸の思いがおわかりになりますか?今のところ、このブログのコメントは創価学会でこんなに苦しんでいるという方のコメントが大半ですが、ペガサスさんのようにとても冷静な分析と、これからの学会に対する希望的な展望を述べられる方もいらっしゃいます。アオキさんが私のことを他の多くのアンチ創価ブログや2chに見られるような言いっぱなしの人間だと思われるようでしたら、とても残念に思いますし、アオキさんのコメントはそうした一方的な学会批判者に対するそれのようにも感じます。実際にここにコメントを寄せられている方は、みなさんが学会員であった頃や、今も学会員であるがために大変な不幸を背負い込んでしまったという実体験を真剣に述べられ、冷静に自己分析をされています。ほんとうに頭が下がる思いで読ませていただいています。「せっかく近くに宝物があるのに外でぎゃんぎゃん吼えてばかりいないで活用してくださいよ。見栄ばっかり張ってないでさあ^^。チベット問題とやらも聞いてくださいよ。」といった次元で発言される方はひとりもいらっしゃらないことをよく考えていただければと思います。アオキさんの「宝物が近くにある」という表現は、学会幹部のことを指して言っておられるのでしょうが、その宝物によって不幸のどん底にいる方が、ここに必死の思いでコメントを寄せられているのです。私はひとりで何もできないけれども、せめてそのような必死の声を、なんとか少しでも受け止められればという思いでこのブログをたちあげました。みなさんの声にならない声を多くの方と共有することで、何かしら問題解決の糸口にならないかと思っての行動です。私は見栄を張ったりぎゃんぎゃん言ったりすためにブログをたちあげるほど暇人ではありません。53歳にして自分の人生に対して自ら「間違い」を突きつけなければならなかった人間なのです。これまで創価学会員であるがゆえの「自覚のない加害者」でもあったわけです。この無念さは創価学会のMC下にある幹部には到底理解できないでしょう。だからこそこのブログを立ち上げたのです。そういう意味でアオキさんの上記の発言は、このブログにコメントを寄せていただいている方たちに対しても失礼だと思います。気を悪くされたとは思いますし、申しわけありませんが、正直これがアオキさんに対する私のお返事です。失礼しました。


解説
ペガサスさんの分析、見事ですね。私も共感するところが多いです。
シニフィエさんも、相手に敬意を払って、有意義な対話がなされているように感じます。
また、創価学会擁護派とみられるアオキさんとのやり取りも見られます。
このような議論は、この対話ブログでははじめてだと思うのですが、シニフィエさんは冷静に対応しているように思います。

アオキさんのシニフィエさんに対する問いかけですが、私も常々思っていたことではあります。
シニフィエさんはお兄さんが大幹部なのに子どももいないし財産は学会に奪われてしまい不幸だと断定しています。でも同情している割には、直接疑問をぶつけもしないし、創価学会から救い出しもしていない。
最近は、お兄さんが癌で死亡してしまったことで腑抜けのようになり、ブログを書く気力もなくなったというようなことすら書いています。
そんなに大切な兄弟だったなら、生前にしっかり話をしておくべきだったのでないかと、アオキさんならずとも思ってしまいます。
シニフィエさんは、ご自分のブログのことを身内はもとより親しい学会員の同級生などにも隠していたようです。
事情が異なるので、そのことをどうこう言えないのは承知していますが、私の場合は、自分のHPを立ち上げた段階で創価高校の同窓生に見てもらい、積極的に拡散してもらうことを希望しました。妻や娘、創価学会員の兄たちにも知らせました。
法華講の機関誌「妙教」に実名で連載記事「宗教と倫理の間」を書いていたこともあるので、古くからの法華講員は、獅子風蓮の実名を知っているはずです。
そんなわけで、私の場合は、半ば身バレしていますので、シニフィエさんが極度に自分のブログのことを身内や知り合いに隠すのが不自然に思えます。
むしろ、身内や大事な知り合いにこそ訴えたいことが、ブログの中に書いてあるのではないでしょうか。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅠ:ブログの開始 (4)

2021-09-13 01:48:18 | 対話ブログ

■3日目です。          投稿日: 2011年12月7日
おかげさまで、シニフィエのブログ「対話を求めて」は一昨日夕方のスタートからまる一日でベージビューが1000を越えました。応援のコメントも多数いただき、ほんとうにありがたいです。最初からここまでレスポンスがあるとは思ってもみませんでした。たくさんの方に見ていただけていると思うと、やっぱり立ち上げてよかったなあと思います。
そして創価学会の洗脳に悩まされている方、それに対して一人で何もできないでおられる方もたくさんいらっしゃることがわかりました。私もまだMCが溶けはじめたばかりですので、何もできることはありませんが、こちらにコメントしていただいて、それぞれの現状をお知らせしていただければと思います。いっしょに考えていければと思います。まずは創価学会の存在によって、どれだけの方が苦しんでおられるかという事実関係を少しでも明らかにすることが求められていると思います。本来なら持たなくていい罪悪感や、恐怖心に日常の生活さえままならない方も多いようです。
また、私と同じく現役の創価学会員の方の意見もお聞きしたいと思っています。ただし人としてまともな対話ができる方に限ります。ここ数週間の私の体験から、創価学会員とはまともな対話ができにくい状況がありました。人の話を聞かず、何の根拠も示さないまま、ただ批判するものに対して汚い言葉で罵倒するだけのネット上の創価学会員。名誉会長の1年半に渡る沈黙による健康疑惑とメッセージだけが伝えけられる矛盾。チベット問題についての学会の対応。もちろん宗門問題についても日蓮正宗に対して悪態をつくだけの態度が、はたして仏教者としてのあるべき態度なのかどうかについても対話をしていきたいと考えています。また、もっと身近な疑問やちょっとした感想なども大いに書いていただけると嬉しいです。どうかよろしくお願いいたします。
 
ページの右上に、これまでに読んで「素晴らしい」と思った本を紹介しています。特に「『仏教の真髄』を語る」という中村元先生の講演記録はほんとうに素晴らしいです。わかりやすくそれでいて深い。おそろしく偏って都合よく歪曲された学会の教学とはくらべものになりません。とくにMCによって悩んでいらっしゃる方には、仏教の本来のありかたはこうなんだということがわかって救われると思います。是非おすすめの一冊です。
私もついこのあいだまで、宗教に関しては学会以外の本を読むことさえ嫌悪感を感じていましたが、実際に読んでみるとはっきりとわかります。何がって、学会の教学のご都合主義がです。学会の「信・行・学」とは、徹底した排斥思想のセオリーだったのがよくわかりました。

●Anonymous (2011年12月7日 15:42 )
シニフィエ様貴ブログが、池田大作のMC下にある多くの創価学会員の救済につながることを祈ります。あらゆる宗教を客観的に眺めるならば、「日顕宗」という学会員のみ通用する呼称はやめるべきではないでしょうか。

●シニフィエ(2011年12月7日 16:54 )
コメントありがとうございます。そうですね、最初は正宗と書いたんですが日顕宗のほうがわかりやすいかなと思って書き直したところでしたが、やはり日蓮正宗の表記が正しいです。お詫びして訂正します。なるほどですね。これまで私は宗門問題に対してあまり知ろうとしていませんでした。学会はなんでそこまであからさまに罵倒するのかわからないまま、あきらかにこの態度は異常だと思っていました。しかし日蓮正宗に関しては、私が結婚式をあげたお寺の僧侶がとてもチャラい人であきれかえった体験があるので、かなり印象が悪いんです。もちろんこれは個人的なことです。もう20年前のことですけどね。上記のコメントをしていただいた方には、気を悪くされたと思います。すみません。私の配慮が足りませんでした。それから考えてみたら、私は法華講について何一つ知りません。学会の活動をしていたときはもちろん、活動しなくなってからも、私の視野の中に法華講はまったく入っていませんでしたので、ついうっかり日顕宗という言葉が出てきたのだと思います。いや、上にコメントされている方が法華講の方かどうかはわかりませんが、先日いただいたコメントの中にも法華講の方がいらっしゃいましたので、多少なりとも法華講に関することは知っておかないといけませんよね。これから勉強させていただきます。

●Anonymous (2011年12月8日 14:52 )
シニフィエ様早速の「日蓮正宗」への訂正・対応、有難うございます。私は法華講員ではありません。組織に強い疑問を持つ学会2世です。学会用語を使うことそれ自体が、すでに池田・創価学会を容認することになると思います。私たち古い学会員は、日蓮正宗の信徒だったわけです。20年前、手のひらを返すように宗門批判をしだした、池田はじめ学会幹部のその振る舞いにずっと疑問を抱いております。悪い僧侶もいたのでしょうが、それにしても、学会の批判は異常ですし、的外れのことも多いと思います。応援していますので、長く続けてください。


解説
最初のころ、シニフィエさんは日蓮正宗のことを「日顕宗」と表記していたようです。
創価学会員の思考回路から抜けきっていなかったのでしょうね。
Anonymousさんに指摘されて、素直に表記を訂正しています。
このころのシニフィエさんは批判に対して柔軟な姿勢を示していたようです。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅠ:ブログの開始 (3)

2021-09-12 01:40:20 | 対話ブログ

■愉快な創価学会情報         投稿日: 2011年12月7日
あまりプライベートなことを書いてどこの誰なのかが知れるとまずいこともあるので、今は何かと遠回しな表現になってしまうことをお許しください。
今日いただいた愉快な創価学会さんからのコメントに「愉快な創価学会情報を」ということでしたので、軽くひとつご紹介します。
先日、私が経営する飲食店に学会の壮年部の方がいらっしゃいました。私はすぐに「あ、財務か」とわかりました。彼が私のところに来るのは、選挙前か財務の前「だけ」だからです(笑)。そう、「だけ」なんです。あとはチラッとも顔を出しません。そしていつも一方的に用件だけを告げて帰ります。私は別の業種の仕事もしていて、去年の財務のときは私がその店にいなかったので、私が来るまで1時間以上も店の入り口にずっと立っていて、私が来た時には従業員がそうとう気味悪がっていました。ほんとに非常識です。営業妨害だし、そんなことすらわからない学会員です。きっと少しでも財務を増やさねばという彼らなりの「使命感」の表れなのでしょうが、それが世間では不審者としか映らないことに気がつかない。で、今年は私がお店にいる時に現われて、何を思ったか来るなり「コーヒーをください」と言ったので、きちんとお客様として接客し、コーヒーをお出ししました。彼はコーヒーを飲み干すと私のところにやってきて「財務の振り込み用紙です。こんど新しく大きな会館ができるんです」と言って、振り込み用紙と新しい会館の完成パースが印刷されたクリアファイルを2枚手渡しました。私の妻の分もあわせての2枚です。いつもは3色旗のメモ帳とか名誉会長の詩が金色で印刷された紙でしたが、今回は「なにしろ新しい会館が建つんだからお金が要るんだぞアピール」のようです(笑)。そして彼は「それじゃよろしくお願いしますね」と言って、そそくさと去っていきました。自分から注文したコーヒー代も払わずに(笑)。「これだなあ、これなんだよ学会員らしいよね」と思いました。従業員が驚いて彼の後を追いかけましたが逃げ足が早いというか、あっという間にいなくなりました。私は「いいんだよ、ああいう人なんだから」と笑って言いましたが、従業員は納得いかない風でした。これでまた創価学会の信頼を無くしました。信頼を無くすというより気味悪がられました。自分たちが不審者まがいのことをやっていることに気づかない。他人の店の入り口に1時間以上もじっとして動かない。うっかり忘れていた(私はそう思っていますが、もしかしたら地涌の菩薩はタダで飲んで当然と思っているのかも(笑))にせよ無銭飲食はする。選挙のお願いの仕方にしても一般常識から外れているのは世間でも有名なのにまったくおかまいなしなのは、マインドコントロールならではの姿です。私は内部の人間なのでまだ彼らが一生懸命なのはわかるけど、普通に考えれば単に嫌われに行っているだけなんですけどね。もうしょうがないです。昔「社会に実証を示す学会員たれ」というスローガンがあったような気がしますが、このようにほんのちょっとしたことにもついていけない学会員の実態を目の当たりにすると、なんだかなあって。まあ、笑い話ですがこれは事実です、現実です。
 
私はここしばらく学会活動を辞めていました。座談会も本幹にも行く気になれませんでしたが、新年勤行会だけには参加していました。それは大幹部である両親や圏幹部である兄夫婦の顔をつぶしたくないという気持ちからでした。しかしこうしていったんMCから抜け出てみると、すべてが異様に見えてきます。だからこれからはいっさい学会とは関わらないでおこうと思ったのですが、ちょっと思い直しました。もう一度、今の視点で学会の生の姿を見てみようと。そしてこのブログにその様子を紹介していくのもいいかなと思いました。仕事柄、時間の関係で座談会などには出席できそうにはありませんが、本部幹部会とか新年勤行会などには普通に参加しようと思います。これは決して面白半分ではなくて、私がハマっていたマインドコントロールから少しでも抜け出すための真面目な方法だと思ったからです。自己治療みたいなものです。もちろんそこで創価学会と対決する気はありません。まともに受け答えしていると頭がおかしくなりますから(笑)。私はまだ創価学会の会員ですし、正々堂々と今の自分の視点で、きちんと創価学会の姿を見たいと思っています。そしてきちんとその報告をこのブログでやってみようと思っています。
みなさんお楽しみに……っていうのも変なのかな(笑)

 


解説
私が経営する飲食店に学会の壮年部の方がいらっしゃいました。

シニフィエさんは飲食店を経営されていたんですね。

仕事柄、時間の関係で座談会などには出席できそうにはありませんが、本部幹部会とか新年勤行会などには普通に参加しようと思います。これは決して面白半分ではなくて、私がハマっていたマインドコントロールから少しでも抜け出すための真面目な方法だと思ったからです。自己治療みたいなものです。もちろんそこで創価学会と対決する気はありません。まともに受け答えしていると頭がおかしくなりますから(笑)。私はまだ創価学会の会員ですし、正々堂々と今の自分の視点で、きちんと創価学会の姿を見たいと思っています。そしてきちんとその報告をこのブログでやってみようと思っています。

ブログの開始当時は、まだ創価学会員だったのですね。
これから、シニフィエさんの非活から脱会に至るエピソードがドキュメンタリーのように読めるのですね。楽しみです。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅠ:ブログの開始 (2)

2021-09-11 01:36:52 | 対話ブログ

■子どもの頃           投稿日: 2011年12月6日
さて、私は毎日のように創価学会に対する見方が変化しています。それはおそらく次第に客観的な見方になっているからだろうと思います。昔は創価学会以外に正しい宗教は考えられなかった。生まれたときからそういう環境の中で育てられましたから、これはもうどうしようもないことだったように思います。これは言い訳ではなくて、善し悪しは別にしてそうでした。生まれたときからすでに両親は創価学会員として日蓮正宗の信心をしていましたし、私は生まれて一週間後に御授戒を受けに地元のお寺に連れて行かれました。それからずっと朝晩に勤行・唱題をする両親を見ながら育ったのです。

小学校に入る前から私が仏壇に向かってお題目をあげると、両親はほんとうに喜んで私を褒めてくれました。もう50年近く前のことです。私は両親に喜んでもらいたくて小学校に入る前から方便品を暗誦できるまでになっていました。小学生になってからは、いわゆる少年部員として座談会では協議会も含めて参加して、いろいろな発表やアトラクションなども積極的にやっていたのです。

両親は学会草創期からの幹部でした。昼は仕事、夜は連日会合や折伏に出かけ、親のいない家に残される私の胸に、例えようのない孤独感がありました。そのときの強烈な孤独感から「今ここにいる自分というのは何なんだろう」「今ここにいる自分が意識しているこの世界はいったいどこにあって、自分が死んだらどうなるんだろう」という存在論的な疑問にたびたび襲われ、それは頭がおかしくなるほどの恐怖でした。そんなときも夜通し仏壇の前でお題目を上げたりしましたが、小学生にその答えが出るはずもなく、両親不在の孤独感と実存的課題がないまぜの恐怖心となり、幼い私の心に傷のようなものをつくっていったように思います。
しかし反面よく多くの学会員が私の家に集まりました。昭和30年代のことですから、地方都市ではまだまだ学会員の数は少なく、私の家は座談会の会場としてだけではなく、私の住んでいる市とその近辺の町に至るまでの活動拠点となっていました。それほど大きな家ではないのに、100人ほどの人が家の中にぎっしり詰め込まれての御書講義なども開催されていました。部屋の壁には各地区ごとの折伏の数を記した手書きのグラフや、各地区の目標やスローガンなどが張り巡らされていて、いつもどこかの選挙事務所のようでした。そんな中、私もいつしか従順な少年部員、中等部員として、勤行唱題を欠かさないエリート学会員の道を歩み始めるのです。父はいつのまにか順風満帆だった商売をやめ、公明党の議員になっていました。
このような幼少期の人生の思い出が、創価学会員としての自分でしかなかったことが、今になってほんとうに悔やまれます。残念でなりません。しかし両親を恨んではいませんし、当時の学会員を責める気はありません。みんな洗脳されていたわけですから、みんな被害者だと今でも思います。そして今の学会員の多くも同じようにマインドコントロールされている被害者だと思います。いいことがあったら功徳、悪いことがあったら信心が足りない。なにか問題が出てきたら「いっしょにお題目をあげて乗り越えよう」。そんな詭弁が今でもまかり通っているんです。お題目を長時間あげてトランス状態になって本当の問題を見失う。長時間、力一杯声をはりあげるおかげで気持ちは何かしらスッキリしたような気にはなるが、結局は現実の問題から遠ざかる時間をつくることで、ますます社会規範から逸脱していく。そのことにまったく気づかずに、わかりやすくて浅薄な仏教教義に満足する会員同士だけの奇妙なコミュニティに安住してしまう。今思えば昔から学会員同士の会話はほんとうに画一的でロボットのようでした。

私は子供のころから画家になりたかったので、大学も美大に入りました。芸術を志す人間にとって哲学は欠かせません。当時流行っていた構造主義やポストモダンなどの西洋哲学をはじめとしたいろんな本を読むようになりました。哲学を学べば当然宗教に関しても興味を抱き、一般的な宗教観を身につけることが当然なのですが、しかし宗教に関しては学会の洗脳の賜で、学会以外の宗教に関する本は読みもしないでことごとく「まちがい」というレッテルを貼り続けました。

今思えば、そのころから少しずつ日蓮正宗の教義にちょっとした疑問を持っていたような気もします。というより、どれだけ学会の教学を学んでも、なぜいつも同じような通り一遍なのか。紋切り型の結論なのかという疑問。学生部としての活動も毎晩のように集まっては折伏をしていたのですが、その一方でせまい学生アパートの部屋で真剣な顔をして「人間革命の歌」を大合唱する姿にも、何かしら時代錯誤的な感覚を拭えないでいました。大学で時代を先取りする現代美術を学ぶ一方、この軍国主義的な様相が、はたして時代に呼応しているのだろうかという疑問を、無理矢理抹殺していたような気がします。しかし今思えばわずかながらのそうした疑問は常に心の片隅にあって、それからこうして30年後に創価学会のマインドコントロールから抜け出すことができたのは、このころからの小さな疑問を抱き続けてこれたからだったのかもしれません。
とりあえず、昔のことで思いついたままを書いてみました。まだしばらくはこうして昔のことの確認のための書き込みをしていくことになるかと思います。
同時に、創価学会の現状についても書けることから書いていければと思います。そして私自身の脱創価学会への行動についても、このブログでご報告させていただくつもりです。
みなさまお楽しみに…っていうのは変なのかな(笑)


解説
子ども時代のころを振り返る、シニフィエさんの貴重な文章です。

私は子供のころから画家になりたかったので、大学も美大に入りました。芸術を志す人間にとって哲学は欠かせません。当時流行っていた構造主義やポストモダンなどの西洋哲学をはじめとしたいろんな本を読むようになりました。

なるほど、それで「シニフィエ」という哲学でおなじみの言葉がHNになったのですね。

獅子風蓮