獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』その3

2024-04-20 01:54:43 | 音楽

カーペンターズのことをもっと知りたくなり、こんな本を読んでみました。

レイ・コールマン『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』(福武書店、1995.02)

かいつまんで、引用します。

(もくじ)

□序文(ハーブ・アルパート)
■プロローグ
□第1部 涙と恐れ
□第2部 栄光のアメリカン・ドリーム
□第3部 孤独な心
□第4部 坂道
□第5部 両海岸ブルース

 


プロローグ

(つづきです)

妹の衰弱、そして死、さらにその余波の記憶とともに生きる精神的外傷は、1983年のあの衝撃の日以来リチャード・カーペンターから消えることはない。
達成をともに喜びあった妹を失った彼は、永遠の悲しみと疑問に取り憑かれたままだ。今もなお、彼女の声の質に驚きを覚え、死に至る悲劇的な状況と同時に、ともに過ごしたすばらしいときに思いを馳せるという。
彼と私との評伝についての話し合いは15年ほどにもおよぶ。“今だ”というときがなかったのだ。時期尚早だったり、カーペンターズがロードやスタジオ・ワークで忙しかったり、カレンの身体の具合が悪かったり、リチャードが問題を抱えて自暴自棄になっていたり(1970年代後半、睡眠薬の服み過ぎで危険な時期があったが、なんとか乗り越えた)だった。その後、カレンが死んで、彼には心を落ち着かせ、記憶を正しい相関関係に位置づける時間が必要になった。
1980年代後半になり、私はハリウッドで定期的におこなってきた彼との話し合いの際に、そろそろこの物語をまとめ上げたいので協力を考えてはもらえないかと催促した。新しい世代が彼らの音楽に目を向けはじめていた時代だったので、彼らがもつ対照的な二面――サウンドの創造とカレンの悲劇――の重要性は記録する必要があった。
リチャードは本書の刊行について長い時間迷った。胸の痛むことが多すぎる、と彼は言った。さまざまな問題を抱えた過去への扉をもう一度開ける勇気があるかどうかわからない、と。説得は時間を要したが、最終的には、自分たちの業績に対する誇りが真実を伝えたい願望とあいまって、さらに過去にたいする洞察力もましていたため、ためらう心に打ち勝った。カレンの死が永久に神経性食欲不振症とその患者の治療の指針としてみなされるであろうことも彼はよく承知している。なぜなら有名人だった彼女の問題は公衆の面前にさらされていたからである。もしこの本が患者をひとりでも救うことになれば、それだけでも価値がある、リチャードと私は度重なる会話のなかで何度となく言い合った。
これは、そういうわけで、戒告をこめた物語でもある。リチャードとカレンの物語は典型的アメリカ中産階級の夢の実現だった。コネティカット州に住む兄妹が音楽に恋をし、カリフォルニアへ移り住んで、星に手をのばし、余すところなく望みを達成したのだ。楽しい時期もあった。彼らの物語は喜びに満ちている。お互いの芸術的才能を崇拝したが、ともするとお互いの私生活にまで独占欲を示すことがあった。ふたりはともに行き過ぎた行為の犠牲となる。リチャードは薬物常用の、カレンはダイエットの。
リチャード・カーペンター、その家族、友人、さらに仕事仲間といった人々の話を聞いていくうち、私はなぜ彼が自分たちの物語を懸命に表に出さないようにしていたのかが理解できるようになった。
ショービジネスの世界の頂点への心浮き立つ旅は、鏡に映る自分の姿を憎んだ若い女性が大きな代償を支払って衝撃的な終わりを迎えるのである。
カレンが取り憑かれた強迫観念、頑固さ、内なる葛藤、そしてリチャードがあやうく命を落としかけた睡眠薬常用についての真相を求めて百人近い人々にインタヴューするうち、あまりに衝撃的な早すぎた一生の終わりに怒りの涙を流す人にも出会った。
同時に、比類のない音楽の量と質、カレンの抜群の歌唱力にたいする感嘆の声はいまも残っていた。リチャードが、妹とのコンビにたいする愛着と彼女を失ったことによる激しい落胆とがないまぜになった思いをもって、妹のことを考えない日は一日もないというのもうなずける。
ふたりの歴史であるこの物語と再び対峙することはリチャードにとってしばしば拷問となったが、彼の熱心な協力なくしてこれを書くことは不可能であったろう。彼の辛抱強さ、率直さと、答えにくい質問の数々にどんなときでも答を出そうと試みてくれた姿勢に心からの感謝を捧げたい。本書の巻末には、そのほかアメリカとイギリスとで私の調査を助けてくれた忍耐強いたくさんの人たちの名前を挙げてある。私はいい時期のカレンも悪い時期のカレンも知っていた。彼女の星が輝いたのは瞬く間ではあったが、たしかに輝き、彼女の陽気さ、誠意、生来の歌声は見る者、聴く者すべての心に触れた。彼女は音楽を深く愛してやまなかった。ここ何年来の現象だが、カーペンターズのサウンドは伝説となりつつあり、それにつれてカレンの創造的遺産もふくらんでいる。彼女もそのことをきっと喜んだであろう。

レイ・コールマン

 

 

 


解説
ショービジネスの世界の頂点への心浮き立つ旅は、鏡に映る自分の姿を憎んだ若い女性が大きな代償を支払って衝撃的な終わりを迎えるのである。
カレンが取り憑かれた強迫観念、頑固さ、内なる葛藤、そしてリチャードがあやうく命を落としかけた睡眠薬常用についての真相……

非常に興味深い内容ですが、量的に膨大なので、このシリーズでは割愛します。
興味のある方は、本書をお読みください。


獅子風蓮


『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』その2

2024-04-19 01:51:21 | 音楽

カーペンターズのことをもっと知りたくなり、こんな本を読んでみました。

レイ・コールマン『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』(福武書店、1995.02)

かいつまんで、引用します。

(もくじ)

□序文(ハーブ・アルパート)
■プロローグ
□第1部 涙と恐れ
□第2部 栄光のアメリカン・ドリーム
□第3部 孤独な心
□第4部 坂道
□第5部 両海岸ブルース

 


プロローグ

(つづきです)

彼らは音楽を武器に闘い、勝利を手にした。だが運命のいたずらにより、カーペンターズの名前は同時に悲しみを伴って記憶されることとなった。カレンが、神経性食欲不振症と闘ったのちに命を落とした最初の有名人となったからである。神経性食欲不振症は拒食症とも呼ばれる摂食障害のひとつで、アメリカでは現在およそ800万人の患者がいると見られている。イギリスでは少なくとも6万人が食欲不振症あるいは食欲異常亢進症にかかっていることは判明しているが、実際の数字はおそらくその2倍であろうと推測される。
精力的に仕事のスケジュールをこなしつづけた何年間かのあいだ、彼女は病んだ身体を酷使していたわけだが、驚くべきことにその声にはふらつきひとつなかった。感情豊かな性格ももとのままで、友人たちは彼女のいつもながらの思いやりとユーモアを最後まで愛してやまなかった。亡くなる前の2年半、彼女は結婚していた。母親になりたいと切望していた彼女だったが、結婚生活はたちまち壁にぶつかり、彼女の精神的不安を大きくした。
しかし、彼女に死の願望はなく、将来もずっと音楽をつくっていきたい、さらに自分の才能をエンターテインメントのほかの分野にも広げていきたいと思っていた。彼女は昔ながらのショービジネス界の人間だったのだ。
だとしたら、何がカレン・カーペンターを殺したのか? たんなるダイエットへの行き過ぎた執着だろうか?
注目を集めたいと願う心か? たしかに骸骨のような体形は、目を向けた者の視線をいやおうなく引きつける。
管理について何か言いたいという欲求か? たとえ食欲不振症患者であれ、食べ物をフォークで口に運ぶ行動にかんしてまでは、誰も管理できない。
多くの研究者が理論づけているように、根深い心理学上の問題なのだろうか? すなわち、患者との関係に問題があったかもしれない親にたいしておぼろげながら発せられるシグナルなのだと。
この場合にかぎれば、母親に“より優れている”として扱われる兄と同等の注目を浴びたいという、厄介で致命的な“平等意識”だろうか? しかるに、兄なくしては自分にキャリアなどなかったはずだとカレンは思っていた。
あるいは、カレンがステージに立てるほどの美しさは自分にはそなわっていないと思いこんでいたことを考慮すると、彼女の飢餓状態は自負心の欠落を矯正することを目的としていたのだろうか?
これらはこの評伝のなかで投げかけられる疑問のほんの一部である。カレンの芸術は多くの部分が彼女の魂の産物であったことは間違いなく、インタヴューに答えた人々の多くは彼女の心理について語り、孤独であることを切々と訴えていた声の質について語った。1ダースあまりのアルバムを通し、カーペンターズは何百万もの人々の心に残る作品を数多く世に送りだした。カレンも兄同様に仕事中毒で、成功と名声を享受はしたが、自分たちが永続性のあるアーティストだったことを生きて見届けることはなかった。 たとえば現在のイギリスを見ても、ラジオから彼らの曲が流れてこない日は一日もない。とくに特別な日ではない1993年4月16日、国営第二放送ではカーペンターズの曲を一曲かけたあとでディスク・ジョッキーのサラ・ケネディーがこう言った。「カーペンターズがいなかったら、第二放送はいったいどうしたらいいんでしょうね!」

(つづく)


解説
何がカレン・カーペンターを殺したのか? たんなるダイエットへの行き過ぎた執着だろうか?

本書では、多くのインタビューをもとに、カレンが拒食症になった理由を、さまざまに考察しています。
その量は膨大なので、この連載ではその部分は割愛します。

関心のあるお方は、ぜひ本書をお読みください。

 

獅子風蓮


『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』その1

2024-04-18 01:46:18 | 音楽

前回カーペンターズのことを紹介しました。

カーペンターズのことをもっと知りたくなり、こんな本を読んでみました。

レイ・コールマン『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』(福武書店、1995.02)

リチャードとカレンの兄妹によるカーペンターズは、世界的に大人気となった。しかし1983年2月4日、カレンは拒食症(神経性食欲不振症)で突然死亡。このニュースは痩せ衰えたカレンの写真とともに、全世界に大きなショックを与えた。兄リチャードの証言を核に、カーペンターズの栄光の軌跡とその舞台裏、そしてカレンの発病から死にいたるまでの真実が、初めて克明に語られる。

かいつまんで、引用します。

(もくじ)

□序文(ハーブ・アルパート)
■プロローグ
□第1部 涙と恐れ
□第2部 栄光のアメリカン・ドリーム
□第3部 孤独な心
□第4部 坂道
□第5部 両海岸ブルース


プロローグ

これは栄光と悲劇に満ちた物語である。四半世紀前に登場し、いまなおその音楽がポピュラー・ソングの風景の一部として欠かせないカレン・カーペンターとリチャード・カーペンターの、本書ははじめての評伝である。

カーペンターズの黄金のサウンドは、〈遥かなる影〉〈愛のプレリュード〉〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉〈イエスタデイ・ワンス・モア〉〈雨の日と月曜日は〉など立て続けのヒットにより猛烈なスピードで世界を駆けめぐった。一時的なヒットでは終わらないことを計算に入れて構築されたサウンドだった。

だが、このおとぎ話にはほろ苦い一面があった。カレン・カーペンターが、当時はまだあまり知られていなかったいわゆる摂食障害との7年間にわたる闘いの末、1983年2月4日に死亡したのである。その間、身内や友人は、カレンが女性の多くがたどる道を忠実にたどって痩せているだけだと思っていた。しかし実際は、カレンはダイエットに取り憑かれて抑えがきかなくなり、治療のかいもなく、女性が抱える大きな問題としてそのころようやく表面化してきた神経性食欲不振症がもたらす心不全により死亡したのである。

享年32歳、結婚はしていたが幸せではなく、仕事を愛し、大富豪だった。悲しみに痛む胸の内をひしひしと伝えるカレンの声は、音楽ディレクターでありソングライターである兄リチャードとともに、しばしば自伝とも思える挫折した恋やロマンスを扱った一連の曲を歌い上げた。〈青春の輝き〉〈ハーティング・イーチ・アザー〉〈愛にさようならを〉〈ソリテアー〉などである。

カーペンターズの音楽はいつの世にも人気があるばかりか、おそらく永久に不滅であることは間違いないが、成功をおさめるために彼らはいくつもの困難に打ち勝たなければならなかった。デビュー当時の彼らは評論家たちに“めそめそしている”“ご清潔”“性的魅力に欠ける”として無視された。“サッカリン”にたとえられる音楽のみならず退屈な外見が酷評されたのである。
1970年代前半のレッド・ツェッペリン、エルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、スライ・ストーンといった面々の持ち味や姿勢が支配するロック界の空気、さらにディスコも台頭する時期に、メロディックなポピュラー・ミュージックを歌う、これといった主張もない兄妹は排斥の対象となった。そればかりか、彼らのファンであることを認める者までが“目覚めた社会”のなかにあって黴菌扱いされた。
20年後、彼らをあざけったアーティストの多くが消え失せる一方で、彼らの音楽は本領を発揮するようになる。飛行機のなか、レストラン、本屋やスーパーマーケットで流れ、ラジオからも聞こえてくる。CDの売れ行きも爆発的である。彼らのサウンドを真似、外見も真似たアーティストがアメリカ、イギリス、日本のあらゆる年齢層を対象にカーペンターズのヒットを大入り満員のコンサート・ツアーで演奏しては、彼らの曲を不滅のものとしている。
カレンとリチャード・カーペンターの作品は現在ではオープンに賞賛されている。とりわけ若年層が、声の美しさと曲と編曲の質を認めることを“クール”だとみなしている。
デビューが絶妙なタイミングだったとは言いがたいとしても、1990年代は彼らの魅力が時代を超え 本物だと認識している。
彼らの柔らかで心をなごませる音楽は、ヴェトナムやウォーターゲートといった危機的状況にたいする解毒剤として受け止められた。その時代のドラッグ文化のなかにあって、リチャードとカレンは多くの人々が新たなアメリカン・ドリームと考えるものを縮図として示した感があった。健全で、天賦の才に恵まれ、家族を大切にし、勤労を善とする考えをしっかりともつ彼らはニクソン大統領の賞賛をも受けた。大統領は彼らを“アメリカの輝ける若者”と表現し、ホワイトハウスに呼び寄せて公的な場で演奏をさせたほどである。

彼らには視覚的なインパクトがほとんどなかった。カレンはバンドの前に立ち、観客を楽しませはするものの、視線を釘付けにするほどのこともなく、一方リチャードはピアノの前でまじめくさって演奏する。しかしながら、そのレパートリーはラヴ・ソングであふれ、カレン独特の生来の才能がその魅力を余すところなく伝えた。一度聞いたら忘れられない、どこか寂しげなヴォーカルは完璧な音程と特徴ある音色をそなえており、同時代人の多くが今では彼女を最高の女性シンガーのひとりとみなしているのである。

(つづく)


解説
カーペンターズの音楽はいつの世にも人気があるばかりか、おそらく永久に不滅であることは間違いないが、成功をおさめるために彼らはいくつもの困難に打ち勝たなければならなかった。

アメリカでは、最初からカーペンターズが受け入れられたわけではなかったのですね。


彼らには視覚的なインパクトがほとんどなかった。カレンはバンドの前に立ち、観客を楽しませはするものの、視線を釘付けにするほどのこともなく、一方リチャードはピアノの前でまじめくさって演奏する。

私からみれば、カレンはじゅうぶんきれいなお嬢さんですが、アメリカの芸能界では、それだけでは通用しなかったということでしょうか。
そのことで、拒食症になっていったのでしょうか。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その1)カーペンターズ兄妹の光と影

2024-04-17 01:46:36 | 友岡雅弥

久しぶりに、有料サイト「すたぽ」を読んでみました。

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt3 - ハートのジャケットの陰の苦悩と抵抗

2018年2月12日 投稿
友岡雅弥


カーペンターズの大ヒットアルバムに、'A Song for You' があります。ジャケット見たら、もろ、ヴァレンタイン・ディ用みたいな感じ。

カーペンターズは、ご存知のように1970年代に、全世界的な人気を誇ったリチャードとカレンの兄妹二人のグループです。

1970年代といえば、あの明るく元気なモータウンでさえ、リズム優先の、ラフな音づくりをしていて、もちろん、ファンクやロックが席捲していた時代です。

でも、二人は、二人が子どものころにはやっていたブリル・ビルディング・サウンドの音の「後継者」とも言うべき、美しいメロディラインの美しい歌を次々と採り上げ (実際、ブリル・ビルディング・サウンドのカヴァーも多かった)、合計何億枚という売り上げのヒット曲を量産します。

例えば、二人の5枚目のアルバム、'Now & Then' には、リチャードと、彼の大学時代からの仲間であり、多くの曲をリチャードとともに作ったジョン・ベティスの作、 'Yesterday Onece More 'に先導されながら(ヴァイナル盤=LPレコード盤=)のB面は、まさに、ブリル・ビルディング・サウンドや同時代のオールデイズ・ポップスのカバーが、続いています。

このように、二人は、まさにアメリカン・オールデイズ・ポップスの後継でした。

二人の4枚目のゴールド・ディスク 'Rainy Days and Mondays' の首位を阻んだのが、ブリル・ビルディング・サウンドのメイン・ライターだったキャロル・キングが、 ソロ歌手として出した、'It's Too Late’だったのは、とても不思議なものを感じます。

さて、1972年にリリースされた二人のアルバム 'A Song for You'があります。 日本でも200万枚を売り上げた'Top of the World'の他、'Hurting Each Other'、'It's Going to Take Some Time'、'I Won't Last a Day without You'‘Goodbye to Love'、 など、多くの曲がシングルカット れました。

これを聴くと、二人が(特にリチャードが)、「アメリカン・ポップスの後継者」という評価に満足していたかどうか、とても、考えさせられます。

アルバム・タイトルであり、アルバム中に、何度も形を変えて出てくる'A Song for You'。あの、くせ者ソングライター&シンガー、レオ ン・ラッセル作の佳曲であり、 カーペンターズのこのアルバムの一年前、黒人ソウルの新しい時代を牽引したダニー・ハサウェイが、すばらしい解釈で、世に問うたものです。

そして、リチャードは、このアルバムのジャケットにとても不満を持ったと言います。
まるで、日本のヴァレンタインやクリスマスに出てくる、甘ったるいコンピレーション・ラブソング集みたいな、ハートがどーん!というジャケットだったんです。

当時のニクソン大統領が「カーペンターズこそが、健全なアメリカの青少年の模範である」などと言っていて、品行方正、明るく元気、スポーツに汗して、家に帰れば笑いが絶えない――そんな家庭の模範的な子ども。

うーん、うっとうしい。

また、カーペンターズは、A&Mレコード所属でした。A&Mは、ハーブ・アルパートと、ジェリー・モスが創立したレーベルで、アルパートのAとモスのMからレーベル名は取られています。

ハーブ・アルパートは、トランペッターであり、「ハーブ・アルパートとティファナ・ブラス」というグループ名で大活躍。ソング・ライターとしても、あのサム・クックの歴史的名曲 'Wonderful wolrd' を、名プロデューサー、ルー・アドラー、そしてクック本人と共作したりしています。まさに古き良きアメリカン・ポップスのヒーローでありました。

彼ら二人が、ハリウッドに建設したのが、A&Mレコーディング・スタジオでした。
もと、チャップリンの撮影所があった場所らしいです。

伝説のエンジニアが呼び寄せられます。まさに、アメリカン・ポップスを象徴するフィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド(分厚い音の壁)」を作り上げた、ラリー・レヴィン。
さらに、大きくて、反響が豊かなA&Mスタジオは、ロックやソウルには不向きでしたが、豊かなオーケストラなどの音を重ねるためには最高でした。

まさに、A&Mが、目指す「60年代オールデイズ黄金時代の音の後継」という重荷が、まだ若い二人に託されたのです。
うっとうしい!

でも、ラッキーなことがありました。それはリチャードが、クラシック音楽を専門的に勉強しており、オーケストレーションや編曲には、天才的な才能があったのです。
事実、多くの批評家が、リチャードをアメリカ・ポップス界屈指のアレンジャーと評価しています。

「古き良きアメリカン・ポップスの生き残り」「ブリル・ビルディング・サウンドの代表の一人」、バート・バカラックの曲 ‘(They Long to Be) Close to You'で、スターダムに登り、しばらくは、A&M側はバカラックを二人の曲作りの後見人と考えていた節がありますが、リチャード自身は、バカラックの編曲は「甘すぎる」と考えていたようです。

それで、この「甘すぎるジャケット」のレコーディング中に、ちょっとした「反乱」が起こります。
'Goodbye to Love'という、ラブ・ソングのレコーディングに、リチャードは、彼の友人のギタリストのトニー・ペルーソを起用します。

そして、歌の部分が終わると、トニーは、当時、ジミ・ヘンドリクスなどの、「飛んだ!」アーチストたちが使っていたファズ・ボックス(音を歪ませるエフェクター)のスイッチを入れるのです。

トニーのソロは、考えられないほど、長いものとなりました。まるで、ジミ・ヘンドリクスの曲のように。ソロの間、リチャードは、「もっとやれ!熱く!」と、トニーをたきつけたと言われています。

なかなかの出来だったので、レーベルのエライさんたちも、OK。

でも、「過激である」と放送禁止にしたラジオ局もあり、「健全なカーペンターズらしからぬ音だ、けしからぬ」と苦情もたくさんでました。

実は、ヘヴィ・メタルの世界で、美しいボーカルのメロディラインと、切々と訴えるリードギターのソロのある「ラブソング」を、「パワー・バラード」と言いますが、この 'Goodbye to Love'は、そのルーツの一つとされています。

会社や世間の要求する「明るく健全なアメリカ青少年の代表」という抑圧的なイメージ、そして、それを演じなければならなかった二人。

これからも、この葛藤は続き、カレンは拒食症となり、リチャードは薬物依存症となります。そして、カレンは、回復につとめソロアルバムを出そうとします。そして、 リチャードも全力で、ソングライティングをします。なんとディスコ調。
A&M首脳が却下することとなります。

カレンは、拒食症(もしくは薬の副作用)で、1983年2月4日、若くして亡くなったのです。

昔、よくかかっていたカーペンターズの美しく親しみやすいメロディの背後に、なんとなく、さびしげな陰影が見えるのは、単に僕の気のせいではなかったのですね。


解説
カーペンターズ、懐かしいですね。

私は高校生のころから、英語のヒアリングが苦手で、大学生になってからも医者になってからも、それがコンプレックスになっていました。

英会話のCDつきテキストなどを買って勉強したりしましたが、一向に上達しません。

見かねた妻が、カーペンターズを聴くといいよ、と教えてくれました。

それ以来、最初は英語のヒアリング向上のために聴きはじめたカーペンターズでしたが、すぐにその美しいメロディーときれいなカレンの歌声のとりこになりました。

友岡雅弥さんの秀逸なエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

獅子風蓮


増田弘『石橋湛山』を読む。(その22)

2024-04-16 01:40:42 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
■第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第5章 日本再建の方途――1940年代後半
□1)小日本主義の実現... 前途は実に洋々たり
□2)異色の大蔵大臣... 自力更正論
□3)石橋「積極」財政とGHQとの対立
■4)理不尽な公職追放


4)理不尽な公職追放

いうまでもなく、占領軍は絶大な権限を有していた。マッカーサーは天皇を凌ぐ権威として日本に君臨した。その占領軍を相手に湛山が一歩も引かず、敗戦国とはいえ正当な理論をもって抵抗する姿に、国民世論が密かに拍手喝采しても不思議ではなかった。次第に世評は湛山を「気骨ある男」として英雄視しはじめた。政界でも湛山の株が上がりはじめた。自由党では大野伴睦幹事長などが「次の総裁は石橋だ」と公言して憚らなかった(宮崎吉政著『No2の人 自民党幹事長』15頁)。実際湛山は1947年(昭和22)の二・一スト騒動でも、河合良成厚生相とともに矢面に立って頑張り通した。また4月の総選挙で湛山は党の選挙対策委員長を務めることになるが、このポストは資金面から立候補者を世話する要職であった。つまり財界筋からも一定の支持を得ていたのである。しかも総選挙を控えた3月、政界の黒幕といわれる辻嘉六が湛山を招き、初対面の湛山に対し「自由党副総裁(総裁説もある)にさせる」と述べた。

このような湛山の政治的影響力の拡大は、吉田陣営にとってもはや無視できないものとなった。吉田がワンマンと呼ばれるほどの実力を備えるのは第三次内閣を組織する1949年(同24)頃からであり、当時の吉田は鳩山が追放解除となるまでの代理程度にみなされていたにすぎず、党内基盤はまだ弱かった。これに比して鳩山派の正統者とみなされる湛山は、吉田側にとって自陣を脅かすライバル的存在として映りはじめた。すでに両者の間では、前年秋から冬にかけて、インフレ問題と石炭増産問題をめぐり感情的齟齬を生じていた。内閣成立以後、吉田は湛山に経済財政問題一切を任せていたが、湛山をインフレーショニストと批判する見解が広がるにつれて、吉田は次第に有沢広巳東京大学教授を軸とする学者グループへと傾いていった。しかもこれに政治問題が加わっていく。すなわち、前年末からこの47年(同22)初春にかけて、社会党との連立工作問題と閣僚人事問題をめぐり両者間に確執が生ずるのである。
二・一ゼネスト問題が注目されつつあった時期、吉田は密かに社会党との連立工作を開始した。吉田は与党の自由・進歩両党に野党の社会党を加えた挙国連立内閣を組織して、この最大の労働攻勢を乗り越えようとしたのである。交渉相手は西尾末広と平野力三であった。しかし社会党への閣僚配分数と石橋蔵相の処遇(社会党は石橋辞任を要求)をめぐり妥協が得られず、失敗に終わった。連立工作の事実を知らされた湛山らは、吉田の秘密主義に不快感を抱いた。1月17日の日記には、「午後2時より臨時閣議、吉田総理の社会党との連立内閣運動失敗の経緯発表、はじめより予想された所なるが不手際も甚だし」とある(前掲「湛山日記――昭和20―22年』178頁)。湛山としては社会党を自陣に取り込んで最大の危機を突破するよりも、むしろ力量不足の閣僚更迭して、当面の石炭問題を解決し、経済再建を軌道に乗せたいと願望していた。この趣旨から、湛山は平塚常次郎運輸相、河合厚生相、膳桂之助国務相と会談し、平塚の石炭庁長官転任を決め、吉田に要請したが、拒否される経緯があった。吉田とすれば、湛山らが共同戦線を形成したと疑わざるをえなかった。
1月末、吉田は再度の連立工作を行なったが、またも失敗に終わると、ただちに内閣改造を断行した。今回の人事の特色は、従来から閣僚の間で不評を買っていた和田博雄農相が退陣する代わりに、湛山と緊密な平塚、膳が閣外に去り、いわば喧嘩両成敗の措置が取られたことであった。そして湛山は経済安定本部(いわゆる安本)長官と物価庁長官を兼任した。しかしそれは一時的措置であり、吉田は安本長官に近々有沢を据える意向であった。これに対して湛山は中山伊知郎を推す予定であった(湛山の元秘書谷一士氏の証言)から、吉田の意向に「あ然」とした。吉田と湛山はこうして離反していった。その根底に両者の戦後に処する基本姿勢および政治理念の差異が存在したことは、既述のとおりである。
さて二・一ストがマッカーサーの政治的介入により決着すると、今度は湛山が吉田に代わり社会党との連立工作に乗り出した。二度の不成立が自己の進退問題と関わっていたからである。2月上旬に西尾と会見した湛山は、三党連立のためならば蔵相辞任も辞さないと申し出た。改めて湛山、西尾、河合(進歩党)、水谷長三郎(社会党)の四者協議が持たれると、連立に際しての政策内容、閣僚配分数などが意外にも順調に進展し、ほぼまとまるに至った。そこで翌日に湛山は首相官邸で吉田に面会したが、折しも進歩党が新党設立問題で紛糾していたのと、自由党でも芦田均が同志数名とともに脱党し、進歩党へ加わる騒動(その結果、民主党結成となる)が発生したため、連立問題について吉田と十分話し合えなかった。しかし湛山は吉田がこの工作に異論がないものと信じて疑わなかった。それは湛山の一方的解釈にすぎなかった。まもなく吉田は湛山に「連立内閣を取り止める」と言明し、湛山を驚かせた。西尾は、「石橋さんに多少の連絡不備の手落ちがあったにせよ、交渉の全権を事前に石橋氏に一任しておきながら、吉田氏のワンマンぶりによって、ドタン場で急変したというのが、ことの真相のようである」と述べている(同著『西尾末広の政治覚書』103頁)。
ともかく湛山らが苦心して作り上げた連立内閣構想は瞬時にして崩れ去った。吉田側の言い分では、この工作の最中、マッカーサーから吉田に議会の解散、そして新憲法下での総選挙実施が指令されていたとのことであるが、やはり吉田側に湛山の政治的台頭への恐れがあったことは否定できないであろう。
3月31日、衆議院は解散となり、4月25日に戦後二度目、新憲法下初の総選挙が実施された。湛山は静岡二区(沼津、三島、御殿場方面および伊豆半島一帯)から立候補し、トップ当選を果たした。湛山と静岡県とは直接の繋りはなかったが、湛山の人柄に惚れ込んだ佐藤虎次郎代議士が、あえて自分の選挙基盤を湛山に譲ったという美談が伝えられている。しかし自由党は131議席を獲得したに止まり、社会党の143議席を下回る結果となった。とはいえ社会党も過半数にはほど遠く、政権の帰趨は揺れ動くこととなった。この間GHQ側、とくにポツダム精神を具現化する先陣役を果たしてきたGSのケーディスらニューディーラーたちは、新憲法体制を日本国内に浸透させるためにも、吉田保守政権の存続を断固として阻止し、彼らが熱望する社会党中心の革新政権が誕生するよう水面下で奮闘していた。いざとなれば、鳩山の場合のように、パージという強権発動すら辞さないつもりであった。
翻って湛山はすでにその標的となっていた。湛山はGSのみならず、ESSでも危険人物と断定されていた。いわばブラックリストの筆頭人物だった。つまり、戦時補償打切り問題で抵抗し、終戦処理費の削減を要求するなどアメリカの円滑な占領行政を妨害する、本来淘汰されるべき守旧派タイプの政治指導者であり、また石橋財政は、石炭増産政策に示されるとおり、意図的にインフレを煽るものであり、野党や学界やジャーナリズムが非難するごとく、湛山は日本に混乱と害悪をもたらす張本人である、といったネガティブ・イメージが出来上がっていた。加えて3月、GSは政界の黒幕である辻が湛山を自由党副総裁に就かせるべく動いているとの情報を得た。湛山を一時も早く政界から抹殺しなければ、GHQの民主化政策が妨害されるどころか、GHQの権威は地に落ちる、とケーディスが考えたとしても不思議ではなかった。彼は局長のホイットニー (Courtney Whitney) 准将の了解の下に、日本語に堪能な日系二世のツカハラ(塚原太郎)中尉に対し、『新報』の調査を命じた。「追放該当」を既定方針とした上での調査命令であった(当時ケーディスの下で公職審査課長を務めたネイピア氏は筆者にこの事実を認めた)。
3月末に調査を終えたツカハラは、その報告書の中で、「好ましからざる」社説が『新報』に14篇、『オリエンタル・エコノミスト』に27篇、計41篇ある(この中で湛山執筆のものは5篇にすぎない)と指摘し、新報社が好戦的かつ超国家主義的方針を維持し、公職追放令(SCAPIN-548)に該当すると明らかにした。まさにハサミと糊で作り上げた捏造報告文書にすぎなかった。湛山は新報社社長としてこれら編集上の責任が問われるべきであり、公職追放令G項(その他の軍国主義者・超国家主義者)に該当する人物と判定された。こうして湛山追放の名目が出来上がったわけである。
この間GSは、1月に発足したばかりの中央公職適否審査委員会に対し、3月初旬、言論追放基準作成を命じていた。そこで委員会から委員長の松島鹿夫(元外務事務次官)、委員の加藤万寿男(のち共同通信社専務理事)、岩淵辰雄(政治評論家)らが小委員会を構成し、協議していた折、GSから唐突に『新報』の調査を命じられた(住本利男著『占領秘録』252頁)。
岩淵は次のように証言している。
「GSのケーディス大佐から、いきなり、東洋経済新報をどう思うか、至急に、返事しろといって来た。そこで委員の加藤万寿男君と、終連の政治部次長(副部長)の田中三男君で、手わけをして、十年間位の東洋経済新報とオリエンタル・エコノミストを取り寄せて、徹夜で調べた。加藤君の報告によると、『……調べて見て驚いたことには、(追放該当記事が)一つもない。東洋経済という雑誌は偉い雑誌だ。あの戦争中の十年間、よくも、自由主義の立場を守りつづけたものだ……』ということだった。ところが、こういう加藤君や、田中君の調査が、逆に、GSの御機嫌を損じた。『……そんな調査では駄目だ。君らがそういう考え方で、東洋経済を支持するなら、先ず君らから追放する……」と威嚇した。……この結果、われわれの小委員会は解散を命じられた」(『岩淵辰雄選集③』158~61頁)。
GSは今度は終連(終戦連絡中央事務局)政治部に対して『新報』の調査を命じた。どうしても『新報』を言論パージの枠の中に入れようとする意図が明確となった。 山田久就政治部長は吉田首相に対し、「石橋蔵相が危うい」旨伝えたが、吉田は何と蔵相の後任選考に入っていた。肝心の湛山は、自分が追放になるわけがないと信じきっており、GSの動向に一切構わなかった。4月下旬、総選挙と前後して、審査委員会では新しい小委員会が作られて、改めて言論パージの基準作りを開始し、5月初旬、全会一致で湛山を追放非該当、いわゆる「白」と判定した。一方GS内部では、4月末、湛山を追放該当、いわゆる「黒」とする20頁に及ぶ報告書がホイットニーに提出された。もはや日本側の審査委員会がGHQ側の意向を入れない以上、GS単独で実力行使する以外に方法はなかったのである。委員会側は日本政府の最高責任者である吉田が関与することを期待したが、吉田が期待通り動いた形跡はなかった。この時期に吉田は、佐藤尚武(元外相)や松野鶴平(元鉄道相)の助命を願う書簡をGHQ側に送付してはいたが、内閣閣僚である湛山を支援する書簡は見当らない。湛山は、「(吉田氏は)陰険といえば陰険ですね。ぼくは彼に悪感情をいだかぬし、内閣の一員であった時にはずい分助けたつもりでおる。けれども吉田さんとしては、ぼくが少し煙たかったでしょう」(同「湛山回顧⑥」119頁)とのちに述懐している。
5月8日、ホイットニーは吉田に対し、湛山の追放を命ずる指令文書を手交した。 その第二項には、「東洋経済新報の編集主幹兼社長として、彼はアジアにおける軍事的、経済的帝国主義を支持し、日本の枢軸国への追従を提唱し、西欧諸国との戦争の不可避を信じ、労働組合の抑圧を正当化し、日本国民への全体主義的支配を課すよう強いた論説上の責任がある」と記されていた。追放指令を知った湛山は、「まさかと思っていただけに驚きも大きかった。驚きはすぐに怒りにかわっていった。戦勝国の一方的な立場で、自分の意に従わぬ政治家を“追放”という凶器で葬り去ってしまう占領政策……私は、激しい憤りを、それこそ全身に感じた」と印象を述べている(同「今だから話そう④」24頁)。この事態に際して吉田は、湛山に追放を認めるよう説いた。湛山は、「こういう事実に違ったことがらで追放されるのは、僕の良心がゆるさない。内閣にとっても不名誉なことだと思う。だからこのまま黙っていない」と反論した。吉田は改めて湛山に了承を求め、湛山が再度拒否すると、吉田は「狂犬に噛まれたと思ってくれ」と述べたという(前掲『占領秘録』256~7頁)。5月17日の前掲『湛山日記――昭和20―22年』(200頁)には、「総理より電話あり9時外相官邸に訪 予のパーヂにつき諒解を求めらる 而かもGHQの真意は予の財政策に対する不満にあり 占領政策背反として巣鴨に送る代りに追放の挙に出でたりと云ふ、総理の言奇々怪々 拒絶す」とある。
しかし湛山は公職追放に処せられ、蔵相および衆議院議員の両地位を同時に失った。以降、湛山は1951年(同26)6月まで4年余の蟄居生活を強いられるのである。のちケーディスは筆者に対し、湛山が戦前軍部の行動を批判したリベラリストであるとは知らなかったと証言している。またESSの財政課長であったビープラット (Tristan Beplat) は、「湛山がいなくなってからやりやすくなった」(つまり以後の蔵相はイエスマンとなったという意味)と筆者に語っている。さてこの時期に国際情勢も新しい局面を迎えていた。ヨーロッパを舞台として冷戦が発生したのである。こうして世界は米ソ両陣営に分極化していき、政治的あるいは経済的自由が次第に制 限され、軍事的かつイデオロギー的対立が突出するようになる。そこでアメリカは日本の立場を旧敵国から新同盟国へと変更しはじめ、この観点から対日占領政策は懲罰的色彩を薄めていき、アジアの反共防波堤かつ工場とするため、日本の経済的自立を促す方向へと転じていく。それは経済的自由体制、平和協調体制を大前提とした湛山の戦後構想が急速に現実性を失うことを意味した。しかもアメリカに頼らず、自助努力による新生日本の建国をモットーとした彼の「自力更生論」の限界を露呈することでもあった。こうして湛山の日本再建構想は、内外両面で挫折を余儀なくされたわけである。

 


解説
いうまでもなく、占領軍は絶大な権限を有していた。マッカーサーは天皇を凌ぐ権威として日本に君臨した。その占領軍を相手に湛山が一歩も引かず、敗戦国とはいえ正当な理論をもって抵抗する姿に、国民世論が密かに拍手喝采しても不思議ではなかった。次第に世評は湛山を「気骨ある男」として英雄視しはじめた。政界でも湛山の株が上がりはじめた。

あらためて湛山の慧眼と勇気に敬意を表します。

 

……湛山は公職追放に処せられ、蔵相および衆議院議員の両地位を同時に失った。以降、湛山は1951年(同26)6月まで4年余の蟄居生活を強いられるのである。

さぞかし、無念だったことでしょう。

 


獅子風蓮